第三節 流言発生に対する警戒措置
流言蜚語の内容及び之に対する措置の詳細は之を第五章第一節に譲り、茲には単に之に対する制服隊の配置運用に関する警戒班の措置のみを記述せんとす。
始め本庁警戒班は一日夜来の状況に徴して治安保持の主眼は罹災避難者の救護即ち彼等に対して速に食料及び飲料を配給して饑渇より免れしむるにありと信じ、給与班、偵察班と力を戮せ救護物資の蒐集炊出配給の実施に全力を傾注せしが、流言蜚語の盛行は一般民衆をして極度の不安を抱かしめ遂に同胞相食み到る処流血の惨劇を見るに至りたれば、警戒に関する本庁の秩序的諸計画も之が為めに攪乱せられ、全く従来の方針を一変して先づ流言蜚語の取締に鋭意し、人心の安定を図らざる可からざるの苦境に陥れり。
第一、流言に対する警戒配置並に取締
二日午前「更に強震あるべし」「海嘯襲ふべし」との流言に続いて「昨日来の火災は多くは不逞鮮人の放火、爆弾投擲に因るものなり」とか或は「不逞鮮人等不穏の計画を為しつゝあり」など言へる風説何処よりともなく起りて忽ち四方に伝播し民衆の之を信ずる者亦尠なからず、然れども未だ確報に接せざるを以て、本庁は極力之が調査偵察に従事せる折しも、午後に至りて浮説益々甚しく「各所に於て内鮮人の間に争闘を惹起しつゝあり」との報告を始め、三時頃には「某警察署に於て暴行放火鮮人数名を検挙せり」「神楽坂警察署管内に於て民衆等不逞鮮人が放火を企て、又は井戸に毒薬を投じたる現場を発見して或は之を乱打し、或は之を追跡し中なり」等の情報あり、更に四時頃には「不逞鮮人大塚火薬庫襲撃の目的を以て同火薬庫附近に密集し来れり」との情報あり、是に於て警戒本部は形勢の容易ならざるを認め、正力官房主事を富坂署に急派し、又大塚署より召集中なりし警部補巡査十五名を同署に帰還せしめ、且之を陸軍省に通知すると共に偵察班、諜報班に命じて流言の真相を探査偵察せしめ更に万一の変を慮りて警戒を厳にせんが為に同五時各署に対して左記命令を発せしめたり。
不逞者取締に関する件
災害時に乗じ放火その他狂暴なる行動に出づるもの無きを保せず、現に淀橋、大塚などにおいて検挙したる向あり就ては此際之等不逞者に対する取締を厳にして警戒上遺算なきを期せらるべし。
然るに六時頃に至り、宮沢渋谷警察署長より「戎凶器を携へたる鮮人約二百名玉川二子の渡を通過し市内に向つて進行しつゝありとの風説ある」旨を報じ来り尋[つい]で松本世田谷、金原中野署長よりも同様の報告あり、之に遅るゝ事約十分にして福原品川署長よりは「銃器を携行せる鮮人約二百名同管内仙台坂に現はれ旺に暴行掠奪を逞うし、自警団と抗戦中なりとの情報に基き、署長は万一を慮り全員を率ゐて同方面に向ひつゝあり」との報告ありしのみならず、一般民衆の報告亦之と大同小異にして或は「目黒火薬庫附近に数百の鮮人現はれ軍隊と対戦中なり」と言ひ、或は「爆弾を投じたる鮮人を四谷に於て逮捕したり」と言ひ、又或は「玉川沿岸の民家を焼き払ひつゝあり」「拳銃・刀剣を携帯せる鮮人各所に出没して危険此上なし」と言ふの類殆ど枚挙に遑あらず、且現行犯と称して鮮人を逮捕し本庁に引致し来る者も頗る多し、かゝる折しも江口日比谷署長より「不逞者と覚しきもの管内に出没し丸ノ内避難者中にも多数潜入せるが如し」との報告にさへ接したれば、仮令事の真偽は詳ならずとするも、変に処するの覚悟を要するを以て、渋谷、世田谷、品川等の各署に対しては「若し不穏の徒あらば署員を沿道に配置して撃滅すべき」を命じ、愛宕署、外数署に対しては署員を散乱せしめず、要所に集中して之に備ふべきを命じ、鮮人暴動の情報を齎したる四谷、神楽坂、各署員の応援として本庁に在る者を帰任せしめ、更に錦町、西神田、新場橋、北紺屋各署員を本庁に召集し、丸ノ内一帯の警備及び各方面への警戒応援に充当せり。
鮮人暴動の流言一たび伝播せらるゝや、予て不安の念に襲はれたる民衆は警察力及び兵力の出動なほ未だ微弱なるを見て益々危懼の情を抱き、遂に隣保相倚りて自警団を組織し、或は武器を携へて自ら衛り或は往来を途絶して通行者を誰問するなど漸く秩序混乱の状態を呈するのみならず、危懼の念はいつしか激昂の情を誘致し苟も鮮人を見れば事の是非曲直を問はずして直に迫害を加へ又之を捕縛して本庁に護送し来るもの多く忽ちにして二百余名に達したり。然れども本庁の屋舎は既に焼亡し留置場の設備なきを以て東京地方、及区裁判所構内並に市ヶ谷刑務所仮監の二ヶ所を借用して鮮人を収容せり。
第二、朝鮮人の収容保護
各方面に於て検挙せる鮮人取調の結果を総合するに其暴行の事実概ね疑はしく、殊に集団を成して妄動せるが如き痕跡は毫も認む可からず、而も民衆の鮮人に対する迫害は漸く過激に亘り殺傷をも恣にするに至りたれば、今は却てこれを保護するの必要を感じ、管下の鮮人全部を警察の手に収容せんとし、左記命令を各署長に発したり。
鮮人に対する反感益々甚しく理由なき暴行を加ふる者頻出するの情況なるに付此鮮人に対しては極力保護を加へ可成一箇所に収容し安全の地域に置かるる様努力せらるるべし。
更に一般民衆に対しては鮮人暴動既に恐るゝに足らず、又何等杞憂すべきに非らざる所以を知らしめ且無意義の迫害を彼らに加ふるが如き行為の無からん事を希ひ即ち
急告
昨夜来一部不逞鮮人の妄動ありたるも今や厳重なる警戒に依り其跡を絶ち鮮人の大部分は順良にして何等凶行を演ずる者無之に付濫りに之を迫害し暴行を加ふるなど無之様注意せられ度又不穏の点ありと認むる場合は速に軍隊警察官に通告せられ度し。
九月三日 警視庁
との旨を記したる宣伝ビラ約三万枚を印刷謄写し自動車を以て之を市郡に散布し更にメガホンを使用して之が宣伝に従事せしめたるが、此時に際し民衆の自衛団体は昂奮の情極度に達せるが為に争闘口論到る所に起り善良なる鮮人は勿論一般民衆にして、なほ且暴行傷害を受くるもの尠なからず、甚しきは鮮人中警察官に変装せるものありとの風説を生じ之が為に警察官に対して或は其通行を阻止し或は査問暴行を加ふる等常軌を逸する行動を見るに至りたれば自警団取締の必要亦自ら生じたり。是に於て警戒本部は左記命令を各署長に伝達し先づ民衆の携帯せる武器を押収して治安の維持を図らむとす。
記
今後の警戒は専ら警察官及軍隊之に当り在郷軍人団青年団等には専ら救護事務に当らしむると共に軍隊警察官以外の者に短銃、刀剣、其他戎凶器を携帯せしむるは避難民相互に於ける争闘殺傷其例頻々として弊害尠からざるに付軍隊と協力し之が携帯を禁じ肯んぜずして携帯するものあるときは領置を為す等相当なる措置を講じ警戒上遺憾なきを期すべし。
↑警視庁編『大正大震火災誌』p.33
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1748933/124 ~127