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朝鮮国出張森山理事官が広津副官を上京させ軍艦発遣を具申 日本外交文書 第8巻 4 朝鮮国との通交に関する件 より 1875.4 

6  四月一日 朝鮮国出張森山理事官より
        寺島外務卿宛

   朝鮮国東莱副官使と面接の運ひには到り
   たるも訓噵の都合により延期せるむね
   ならびに連絡のため広津副官を上京
   せしむるむね報告の件

茂ら着韓後の景況は追々上申候ふ通り。過ぐる二十四日、訓噵入館、彼の政府の命意をもち東萊府使面接の運びに議定候ふ。なほ宴庁の設けなどこれあり、来たる四月一日まで延期の儀、懇請につき、これまた了諾。よりては通詞らより本日待遇の儀、あらかじめ申し聞かせ、その期、既に明日に迫り候ふところ、図らず訓噵上京のむね書き取りをもち申し出で、前約に反し不信の至りについては、兼約の通り、直ちに東萊へ前往するは理勢のやむべからざる場に候へども、さて彼の内情を窺察するに、敢て拒斥の意も相見えず、ただ剏例の帰する所を疑ひ候ふより、とかくもつて熟議に渉る能はず、かつ服飾のごとき、もとより照会を経候ふ儀に候へども、府使ら大いに彼の政府に対し忌諱あるに似たり。ことにこの一款は我が国制に係る所。いやしくも軽々論ずべからざるのみならず、訓噵上京の儀、とても再々違約の末、今さら陳述の辞柄もこれなきより、つひにやむを得ず直ちにこの挙に及び候ふことと存ぜられ候ふ。ついては兼約ありといへども却つて入府のことを言はず、別紙口陳書を別差に付し、我もまた自ら処する所ありといふの勢を含んで対峙いたし候ふ。しかるに既に訓噵上京の上は、彼が国議を尽し早晩その決答申し出づべく候へども、彼の狡獰なる、万々破和の意にあらざるも曖昧遅延、我が困屈の機を待つて自然の意に回従せしめんとする、これ彼が通習。この時にあたり、もし我が気鋒を弛むあらば、彼が専使を誘ひ出すなど容易からざる儀にこれあり。しからば他日訓噵回答の一挙は、この使事成否の分界にして最大切の時機にこれあり。ついてはこの事由を親しく上奏のため、副官広津弘信上京いたし候ふ。廟議確立くだされ、ますます信憑を仰ぎ、かつ声援を垂れたまはんこと、冀望の至りに堪へず候ふ。訓噵の来期は彼がいふところのごとくならば、必らず四月一杯には再ひ下来いたすべきにつき、広津には何分速やかに再渡仰せ付けられ候ふ様、懇願仕り候ふなり。

  四月一日

              外務少丞 森山茂

 外務卿 寺島閣下

なほなほ昨秋、彼より款を納れ来たり候ふ後、民宰相自殺、大院君の改立、旧訓噵および崔在守らの形行いささか変異は、同氏より親しく申し上ぐべく候ふ。

註 右にいふ「別紙口陳書」は25附属書に所載のものを指す。

 

27 四月十九日 朝鮮国出張森山理事官より
         清国駐箚柳原公使(帰朝中)ら宛

   目下の形勢より察するに朝鮮国側の態度は
   必ずしも背信的とのみ認められざるむね報告
   ならびにこの際、廟議一決の上、方針貫徹
   ありたきむね上申の件

(朱書)「日記中金福珠の話を附送す。本月十七日の条にあり」(欄外注記朱書)

広津六等出仕は今程着京のことと存じ上げ候其後此地の動静を窺察するに余程寒心のもやうに有之然に訓噵には今月四日着京の所遽に旧東萊府使鄭顕徳斬罪に処せられ尋て当府使に令して旧訓噵安俊卿を刑殺いたし候現説有之就ては通事金福珠らに事実推尋候所更に偽りとも不相見崔在住守も同日捕はれ候所兼て覚悟候哉直に毒薬を含み候に付種々解毒を予へ漸蘇活候へとも其後は言語も不通身体臝困爽快無覚束相見へ候よし右在守は未た処断の差図も無之候へとも俊卿の結果に恐れ万一迯逃候ては本府使の落度に付不閣逮捕都表へ伺出すよし右らは皆陪通事の告知にて其他館内一般の伝説も大同小異小生其跡に就て察するに彼か例の狡獰より書契中黜罰抵法否意の答辞に苦しみ斬に処し病に仆れ候抔の辞柄を構へ一時の弥縫を施し候かと疑はれ候へとも亦退て相考候へは其我を抗斥するの意あらは一時の辞柄を作り候にも不及事に有之候今度小生ら渡海已来清国同治帝崩御の後に光緒帝も崩御の報ありて難事東西に起らんとするの勢に疑議を挟み従て兼約に悖るに至る彼に取ては不得止に出るといへとも於我は騎虎の勢決て寛弛すへからす因ては廟議決定被下聊の項針を加ふるに至らは必らす積年の威信可相達存候何卒広津上申の議を賛輔し声援を予へ信憑を垂玉ひ候様御尽力の程何卒懇祷伏祈に不堪候万公信及探聞書に譲り茲に不贅候也

  八年四月十九日

                   森山茂

 柳原全権公使殿

 山口外務少報殿

◯追啓に出発後已に五十余日に及候得共未た一応の公信を接せす内地事情知るに由なし云々認め差出置候処未た発帆せさる内に一号二号の公信来る故に左の追啓を相添差出す

本封中出発後未た一度の公信を接せす内国命脈疎漏遺憾の情実を相認今日差出候の際一号二号の公信一纏め始て領掌仕候然る処一号入記中使清弁理始末処蕃趣旨書各一冊とありて其書相見へ不申右は全く取落し相成義と存候殊に交際弁理の心得にも相成候書と存候間何卒後信必らす御差立希候依て本日落手の証旁此段相添追啓候也

「廿日夜差出す 公信」(欄外注記朱書)

 

28 四月十九日 朝鮮国出張森山理事官より
         寺島外務卿宛

   朝鮮国側の近況並に此際廟議一決
   あり度旨上申の件

本地の形行も広津上京の上親しく御聴采の御事と存上候近日のもやうは此度公信中にて承知可被下候抑国議一定なく事に臨み錯愕たるは彼の常にして固より恠むにたらすといへとも西に清帝再崩の事あり東に我が使員の来泊あり上下恟然萍評紛出して措く所を失す殊に俊卿を残し在守を縛する等の挙動其真偽未詳といへとも其跡実に狼狽に出たり此末如何の答及難計候へとも彼の薄弱たる一目看破するに足らん大抵此行や兼約已に存し事甚た易きに似たり而して其実頗る難きものあり朝三暮四変幻不測は彼の常態蓋し他の文明国と同視すへからさる故也因ては万々一の過議に候へとも不洩不余建言に及ひ終に応変の廟謨あるを伺ひ候上出発候事に候へは素より廟議の確立たる敢て寸疑を容れさる所也而して彼れ動もすれは信義に悖り我に抗するの意あるに似たれとも然るれ共中心決て左にあらす只其威懼の深より熟議討論の暇なく百事驚動いたし候事は不容疑儀に有之候何れ五七日間には必らす其実を可得申候へとも不取敢此段上申仕候

一訓噵玄昔運にも近日帰府候よし且又昨秋及示談候按廉の一行及ひ内裨将南孝源等も昨秋来の行かゝりにて下来可致との説あり又一説に按廉等は軽々日本人に言語を交へ今日の難事を引出し候譴責より東萊へ下さるとの両評区々なり何分外交の形行は恟々として我声息を窺ひ候より種々妄像の風説を触し候哉に被考此等の事も更に其真跡を不得候乍併訓噵再来の上は必らす国議を纏め確と回答に及ひ候は勿論儀と存候へ共我も進退節度に応し候はねは実に国威を貶し可申儀と存候抑臨時掣肘変を見て驚愕するは固より彼の常に候へとも此機を外さす充分御威信達せられ候様深く祈所に御座候探聞の次第は別紙(註 見当らす)に差上候間夫是御参考廟議御確定の上広津六等出仕には速に再度被仰付候様願上候也

  明治八年四月十九日

              外務小丞 森山茂

 外務卿 寺島宗則殿

 

29 四月二十三日(仮) 広津副官よりの建議書

   朝鮮国内訌に際し交渉促進の為
   軍艦派遣あり度旨具申の件

軍艦を発遣し対州近海を測量せしめ以て朝鮮国の内訌に乗し以て我応接の声援を為ん事を請ふの議

朝鮮国使事森山茂及ひ 弘信 二月二十五日より本月一日に至り現に弁理するの状及彼国内相訌し昨年九月我と相約する所の条件未た速に履行するに至らす彼訓噵玄昔運か上京往返間の日期を延るを告る事及ひ後来彼れ或は常に変に出つへき愚案并に之に処するの指令仰く等頃ろ数通の書を以て献呈し業已に清鑑を経一に高裁を奉待す爰に茂か曾て上請する所ろ声援の事今其好機会にして間髪を容れさるの時なるを以て更に一議を連て其然らさる可からさる事由を具陳する左の如し

弘信 今也彼国の景況を探知するに彼民宰相横死し大院君入場し両党稍相軋るの勢ありて一は漸く再煽を望み一は頗る掣肘の累らひを生するに似たりと雖も従来彼国人概ね大院の苛暴を怨むるを以て未た俄に旧に復するに至らす故に我の挙動能く暗に開和の気勢を助け得へきなり万一他日大院の党志を得て前約を履まさるに至らは我も亦大に力を用ひさるを得さる可し如かじ今彼の内訌して攘鎖党未た其勢を成さゝるの際に乗し力を用るの軽くして而して事を為すの易からんには

即今我軍艦一二隻を発遣し対州と彼国との間に往還隠見して海路を測量し彼をして我意の所在を測り得さらしめ又朝廷時に我理事の遷延を督責するの状を示し以て彼に逼るの辞あらしめは内外の声援に因て理事の順成を促かし又結交上に於ても幾分の権利を進るを得へきは必然の勢なり況や予め彼海を測量するは従来事あると事なきとを問はす我に必要なるに於ておや

我の力を彼国に為す只此時を好機会とす而して今日一二隻の小発遣は他日或は大に発遣せさるを得さるの憂ひなからんを願ふの意にして敢て軽々凶器を隣国に弄舞せんを欲するに非るなり謹て此に上申す速に英断を賜へ切願の至に堪へす

   明治八年四月

      外務省六等出仕 広津弘信 頓首再拜

              (朝鮮交際始末)

 右建議書日附を欠くも「朝鮮理事誌」四月二十三日の項に「副官正院へ出頭し軍艦発遣の議を献す」とあり

 

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26 四月一日 朝鮮国出張森山理事官より
        寺島外務卿宛

   朝鮮国東萊副官使と面接の運ひには
   到りたるも訓噵の都合により延期せる旨
   並に連絡の為広津副官を上京せしむる旨
   報告の件

 

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茂等着韓後の景況は追々上申候通り過る廿四日訓噵入館彼政府の命意を以東萊府使面接の運に議定候 尚宴庁の設け等有之来る四月一日迄延期の儀懇請に付是亦了諾因ては通詞等より本日待遇の儀 予しめ申聞せ其期既に明日に迫り候処不図訓噵上京の旨書取を以申出前約に反し不信の至に付ては兼約の通り直に東萊へ前往するは理勢の不可已場に候へとも偖彼の内情を窺察するに敢て拒斥の意も不相見唯剏例の帰する所を疑ひ候より兎角以て熟議に渉る能はす且服飾の如き固より照会を経候儀に候へとも府使等大に彼政府に対し忌諱あるに似たり殊に此一款は我国制に係る所苟も軽々論すへからさるのみならす訓噵上京の儀迚も再々違約の末今更陳述の辞柄も無之より終に不得已直に此挙に及ひ候事と被存候就ては兼約ありといへとも却て入府の事を言はす別紙口陳書を別差に付し我も亦自ら処する所ありといふの勢を含んて対峙いたし候然に既に訓噵上京の上は彼か国議を尽し早晩其決答申出へく候へとも彼の狡獰なる万々破和の意にあらさるも曖昧遅延我か困屈の機を待て自然の意に回従せしめんとする是彼か通習此時にあたり若し我か気鋒を弛むあらは彼か専使を誘ひ出す等容易からさ

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る儀に有之然らは他日訓噵回答の一挙は此使事成否の分界にして最大切の時機に有之就ては此事由を親しく上奏の為副官広津弘信上京いたし候廟議確立被下益信憑を仰き且声援を垂玉はん事冀望の至に不堪候訓噵の来期は彼かいふ所の如くならは必らす四月一杯には再ひ下来可致に付広津には何分速に再渡被仰付候様懇願仕候也

  四月一日

              外務少丞 森山茂

 外務卿 寺島閣下

尚々昨秋彼より款を納れ来り候後民宰相自殺大院君の改立旧訓噵及ひ崔在守等の形行聊変異は同氏より親しく可申上候

註 右に謂ふ「別紙口陳書」は25附属書に所載のものを指す

 

27 四月十九日 朝鮮国出張森山理事官より
         清国駐箚柳原公使(帰朝中)等宛

   目下の形勢より察するに朝鮮国側の態度は
   必ずしも背信的とのみ認められざるむね
   報告ならびにこの際、廟議一決の上、方針貫徹
   ありたきむね上申の件

 

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(朱書)「日記中金福珠の話を附送す 本月十七日の条にあり」(欄外注記朱書)

広津六等出仕は今程着京の事と存上候其後此地の動静を窺察するに余程寒心のもやうに有之然に訓噵には今月四日着京の所遽に旧東萊府使鄭顕徳斬罪に処せられ尋て当府使に令して旧訓噵安俊卿を刑殺いたし候現説有之就ては通事金福珠等に事実推尋候所更に偽りとも不相見崔在住守も同日捕はれ候所兼て覚悟候哉直に毒薬を含み候に付種々解毒を予へ漸蘇活候へとも其後は言語も不通身体臝困爽快無覚束相見へ候よし右在守は未た処断の差図も無之候へとも俊卿の結果に恐れ万一迯逃候ては本府使の落度に付不閣逮捕都表へ伺出すよし右等は皆陪通事の告知にて其他館内一般の伝説も大同小異小生其跡に就て察するに彼か例の狡獰より書契中黜罰抵法否意の答辞に苦しみ斬に処し病に仆れ候抔の辞柄を構へ一時の弥縫を施し候かと疑はれ候へとも亦退て相考候へは其我を抗斥するの意あらは一時の辞柄を作り候にも不及事に有之候今度小生等渡海已来清国同治帝崩御の後に光緒帝も崩御の報ありて難事東西に起らんとするの勢

 

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に疑議を挟み従て兼約に悖るに至る彼に取ては不得止に出るといへとも於我は騎虎の勢決て寛弛すへからす因ては廟議決定被下聊の項針を加ふるに至らは必らす積年の威信可相達存候何卒広津上申の議を賛輔し声援を予へ信憑を垂玉ひ候様御尽力の程何卒懇祷伏祈に不堪候万公信及探聞書に譲り茲に不贅候也

  八年四月十九日

                   森山茂

 柳原全権公使殿

 山口外務少報殿

◯追啓に出発後已に五十余日に及候得共未た一応の公信を接せす内地事情知るに由なし云々認め差出置候処未た発帆せさる内に一号二号の公信来る故に左の追啓を相添差出す

本封中出発後未た一度の公信を接せす内国命脈疎漏遺憾の情実を相認今日差出候の際一号二号の公信一纏め始て領掌仕候然る処一号入記中使清弁理始末処蕃趣旨書各一冊とありて其書相見へ不申右は全く取落し相成義と存候殊に交際弁理の心得にも相成候書と存候間何卒後信必らす御差  

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立希候依て本日落手の証旁此段相添追啓候也

「廿日夜差出す 公信」(欄外注記朱書)

 

28 四月十九日 朝鮮国出張森山理事官より
         寺島外務卿宛

   朝鮮国側の近況並に此際廟議一決
   あり度旨上申の件

本地の形行も広津上京の上親しく御聴采の御事と存上候近日のもやうは此度公信中にて承知可被下候抑国議一定なく事に臨み錯愕たるは彼の常にして固より恠むにたらすといへとも西に清帝再崩の事あり東に我が使員の来泊あり上下恟然萍評紛出して措く所を失す殊に俊卿を残し在守を縛する等の挙動其真偽未詳といへとも其跡実に狼狽に出たり此末如何の答及難計候へとも彼の薄弱たる一目看破するに足らん大抵此行や兼約已に存し事甚た易きに似たり而して其実頗る難きものあり朝三暮四変幻不測は彼の常態蓋し他の文明国と同視すへからさる故也因ては万々一の過議に候へとも不洩不余建言に及ひ終に応変の廟謨あるを伺ひ候上出発

 

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候事に候へは素より廟議の確立たる敢て寸疑を容れさる所也而して彼れ動もすれは信義に悖り我に抗するの意あるに似たれとも然るれ共中心決て左にあらす只其威懼の深より熟議討論の暇なく百事驚動いたし候事は不容疑儀に有之候何れ五七日間には必らす其実を可得申候へとも不取敢此段上申仕候

一訓噵玄昔運にも近日帰府候よし且又昨秋及示談候按廉の一行及ひ内裨将南孝源等も昨秋来の行かゝりにて下来可致との説あり又一説に按廉等は軽々日本人に言語を交へ今日の難事を引出し候譴責より東萊へ下さるとの両評区々なり何分外交の形行は恟々として我声息を窺ひ候より種々妄像の風説を触し候哉に被考此等の事も更に其真跡を不得候乍併訓噵再来の上は必らす国議を纏め確と回答に及ひ候は勿論儀と存候へ共我も進退節度に応し候はねは実に国威を貶し可申儀と存候抑臨時掣肘変を見て驚愕するは固より彼の常に候へとも此機を外さす充分御威信達せられ候様深く祈所に御座候探聞の次第は別紙(註 見当らす)に差上候間夫是御参考廟議御確定の上広津六等出仕には速に再度被仰付候様願上候也

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  明治八年四月十九日

              外務小丞 森山茂

 外務卿 寺島宗則殿

 

29 四月二十三日(仮) 広津副官よりの建議書

   朝鮮国内訌に際し交渉促進の為
   軍艦派遣あり度旨具申の件

軍艦を発遣し対州近海を測量せしめ以て朝鮮国の内訌に乗し以て我応接の声援を為ん事を請ふの議

朝鮮国使事森山茂及ひ 弘信 二月二十五日より本月一日に至り現に弁理するの状及彼国内相訌し昨年九月我と相約する所の条件未た速に履行するに至らす彼訓噵玄昔運か上京往返間の日期を延るを告る事及ひ後来彼れ或は常に変に出つへき愚案并に之に処するの指令仰く等頃ろ数通の書を以て献呈し業已に清鑑を経一に高裁を奉待す爰に茂か曾て上請する所ろ声援の事今其好機会にして間髪を容れさるの時なる

 

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を以て更に一議を連て其然らさる可からさる事由を具陳する左の如し

弘信 今也彼国の景況を探知するに彼民宰相横死し大院君入場し両党稍相軋るの勢ありて一は漸く再煽を望み一は頗る掣肘の累らひを生するに似たりと雖も従来彼国人概ね大院の苛暴を怨むるを以て未た俄に旧に復するに至らす故に我の挙動能く暗に開和の気勢を助け得へきなり万一他日大院の党志を得て前約を履まさるに至らは我も亦大に力を用ひさるを得さる可し如かじ今彼の内訌して攘鎖党未た其勢を成さゝるの際に乗し力を用るの軽くして而して事を為すの易からんには

即今我軍艦一二隻を発遣し対州と彼国との間に往還隠見して海路を測量し彼をして我意の所在を測り得さらしめ又朝廷時に我理事の遷延を督責するの状を示し以て彼に逼るの辞あらしめは内外の声援に因て理事の順成を促かし又結交上に於ても幾分の権利を進るを得へきは必然の勢なり況や予め彼海を測量するは従来事あると事なきとを問はす我に必要なるに於ておや

我の力を彼国に為す只此時を好機会とす而して今日一二隻

 

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の小発遣は他日或は大に発遣せさるを得さるの憂ひなからんを願ふの意にして敢て軽々凶器を隣国に弄舞せんを欲するに非るなり謹て此に上申す速に英断を賜へ切願の至に堪へす

   明治八年四月

      外務省六等出仕 広津弘信 頓首再拜

              (朝鮮交際始末)

 右建議書日附を欠くも「朝鮮理事誌」四月二十三日の項に「副官正院へ出頭し軍艦発遣の議を献す」とあり

 

↑日本外交文書デジタルアーカイブ 第8巻(明治8年/1875年) 4 朝鮮国トノ通交ニ関スル件 https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0001/0001/0008/0163/index.djvu