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【工事中】【新漢字ひらがな】上海派遣軍参謀部 第1課長 西原一策『作戦日誌』 1937.8.11~1938.2.13

Ⅰ(秘)

 作戦日誌  自8月11日

      至2月18日

         西原大佐

 

11/7[7月11日] 盧溝橋事件に関する情報

一、動員第2日2万トン、3日3万、7日~16日4万トン、計45万トン中央部にて集む。

一、各次官は了解済み。外務大臣不在。

一、軍需品は大沽または天津に終結

一、事件処理要項~一兵団を山東方面より上陸せしむること必要。

一、北平城内に参謀長と歩兵1中隊、居留民約二千名、参謀長は城外に出んことを企図しあり。

 居留民は領事館区域に集むる筈。

一、新聞班へ星、遠藤少佐、加藤大尉を。(沖、寺尾、倉橋は戦時職務あり。)

一、4時、閣議決定関東軍部隊飲の出動決裁。

 

一、上陸点

一、劉河鎮西方地区の道路、水流、作物の関係

一、海軍陸戦隊の配備。

公大飛行場。

 

     事変に関する作戦日誌

8月9日午後6時半、大山海軍中尉、虹口飛行場付近にて銃殺せらる。

8月13日、陸上戦闘起こる。

8月14日午前 、敵十数機襲撃し来たる。

同日午後、我が艦上機杭州および広徳飛行場を爆撃。

台北の飛行機これに参加す。

8月15日、大村飛行隊出動す。

 

一、8月11日午前、軍作戦主任参謀の内命を受け、作戦の概要の内示を承知す。

一、12日、作戦計画案を受領し、約10日間の予定をもつて上海付近に出張を命ぜらる。

夜11時、東京出発、長崎に向ふこととす。

教総二神少佐(3D増加参謀要員)を同伴す。

夕刻、参謀本部より電話あり。明夜、海軍飛行艇にて出発せられたき旨。

一、13日夜8時半、自動車にて出発せんとするや、第3課西村少佐来宅。

1. 海軍の呉淞附近の占領、絶対に必要なること、および此次陸軍作戦の至難なることを第三艦隊に知らしむること、また混成旅団程度のものを上陸に注ぎ込む消極策あることを通知す。

(梅津次官の一案)

一、第3艦隊司令長官、長谷川中将よりの電報により、12日夜11時、四相会議あり、米内海相より陸軍の動員を懇請せられ、杉山陸相、同意を与ふ。

一、13日夜9時20分、閣議にて[第]3、11、14[師団]の動員を決す。

 

    6[→8]月13日、14日、15日

一、午前8時半、自動車にて自宅出発。二神少佐(川上歩中佐同乗)同伴、 横浜航空隊に至り、10時、飛行艇にて軍令部藤田大佐、木坂少佐ととも佐世保に向かふ。高度約四千、寒し。

午後4時着、5時半、駆逐艦「望月」にて出帆。十時頃より台風に遭ふ。2昼夜、食はず飲まず。

[台風の進行と航路の図 略]

危険なる難行[→航?]を続く。無線故障。上海にては、沈没せりと思へりとのことなり。

【上海方面に砲声殷々たり】15日午後7時、黄浦江着。第8戦隊は市政府を砲撃中なり。

一、同時、呉淞沖を強行通過す。右舷200mの河岸には敵散兵壕内に鉄兜を見る。

一、8時、上海着。10時、「出雲」([第]三[艦隊]旗艦)に至り司令[長]官その他に挨拶す。

一、11時より東和洋行にて喜多少将その他と協議す。午前2時就寝、四辺静かなり。

 

    6[→8]月16日

一、払暁以来、銃砲声熾んなり。10時より出雲にて陸海軍協定を行ふ。

 第3艦隊にて呉淞附近の占領は不可能なりとし、不調。その他は中央協定に異存なし。一旦知?る。会議中、敵7機より領事館付近に7爆弾落つ。

【街路に3支那人死しあり。破片、東和洋行にも来たり。[木?]坂少佐、頬に負傷す。】

一、午後4時、駆逐艦「鴻」にて現地偵察に赴く。河岸の情況は2万5千分[の]1地図上にあり。

一、午後8時、帰来す。敵の重砲射撃、熾んなり。

一、この夜、敵の夜襲あり。北方正面の一部を奪取せらる。

 また中央部を突破せられ、在郷軍人50名をこれに手当てし、事なきを得たり。

 

    6[→8]月17日

一、この日、敵の空襲、数回あり。

一、午前10時、「出雲」に至る。幕僚の気色宜しからず。

 午後5時、英長官来艦、共同租界警察官半数撤退の申し入れあり。海軍は予備隊をもつてこ方面十数条の道路を占領せしむ。

一、陸軍部隊の派遣方、小生より打電す。

一、終日、銃砲声あり。

 

    6[→8]月18日

一、前9時、木坂参謀来訪。本日、陸戦隊約二千名到着すべきに付き協定をなしたし。成るべく早く来艦せらるたしと。

一、10時半、出雲に到る。

一、陸戦隊1大隊を駆逐艦3隻に乗せ、これに歩兵中隊を合し、残存する桟橋より上陸することに協定す。

 

    8月20日

一、終日、出雲にて協定す。

 2回爆撃せらる。夕、公大沖に移る。砲弾近所?に落つ。

 軍艦へ□る。虫が知らせたのか。

 3Dは援護隊を商船に乗せる(桟橋焼却せられたるため。

 

    8月21日

一、夜、東和洋行斜右前30mの家に30kgの爆弾落ち、12名(1死)死傷す。小官の室も硝子にて滅茶滅茶なり。

 終日 3Fと協議す。日清汽船3隻に歩兵二千四百名 陸戦隊六百名を同時に岸壁に上陸せしむる様、海軍の提議あり、二神参謀もこれに同意なりしが、主力がいきなり上陸することは危険でもあり、舩の損傷をも考へ反対し、陸戦隊六百名に歩[兵第]68[連隊]のⅡ[第2大隊]の1[個]中[隊]、MG[機関銃]1[個]小隊を加へたるものを最初に、次に1[個]大隊を3駆逐艦に、更に2大隊を3駆逐艦に、最後に歩2中[隊]、砲2中[隊]を□[符号:司令部]と共に上陸せしむるに決す。

 

    8月22日

 午前3時、馬鞍島に着、「足柄」に軍司令官に訪ふ。

 直ちに会議を開く。全員 11Dの上陸後、3Dを上陸せしむる案なりしも、小生は岸壁上陸の可能性、敵軍の素質、3Dの海上能力、直前計画変更の不可を述べ反対し、軍司令官これを是認せらる。

 

 [表]

 參謀部第1課業務   昭12.8.16.

氏名/業務

西原課長 代理 芳村参謀/

 1.作戦計画の立案、作戦指導ならびに

   作戦命令の起案

 2.第1課の統制

芳村参謀 代理 川上参謀/

 1.西原課長の補佐

 2.陸海軍協同作戦ならびに作戦輸送に

   関する事項

 3.教育に関する事項

 4.機密作戦日誌(副)

川上参謀 代理 芳村参謀/

 1.西原課長の補佐

 2.作戦に関する通報·報告の起案

 3.航空ニに関する事項(副)

 4.機密作戦日誌の記載(主)

光成参謀 代理 芳村参謀/

 1.航空に関する事項(主)

 2.海軍航空隊との協同に関する事項

 /兼 第3艦隊参謀

二神参謀 代理 川上参謀/

 1.作戦に関する命令·通報·報告発受領

 2.第3師団へ兼務

 3.陣中日誌の記載、戦時旬報および月報の

   記載(主)

松田海軍参謀/陸海軍協同に関する事項

部付 鈴木(砲)中佐/

 1.二神参謀の補佐

 2.砲兵に関する事項

 3.作戦経過一覧図調製

 4.陣中日誌ノ記載(副)

部付 鴨沢(工)少佐/

 1.芳村参謀の補佐

 2.交通および築城に関する事項

 3.第3課兼務

部付 金原(工)少佐/

 1.川上参謀の補佐

 2.瓦斯[ガス]に関する事項

 3.戦時旬報および月報の記載(副)

 4.第3課兼務

部付 押目(航)大尉/

 1.光成参謀の補佐

 2.航空偵[察]に関する事項(海軍飛行隊に依る)

 3.第3課兼務

部付 関口大尉/

 1.西原課長附属業務

 2.第1課庶務

 3.書類の整理·保管

 

【上陸戦闘】

    8月23日

 3Dは予定のごとく3時13分より上陸開始、11Dは遅れて2時が4時半となる(配船遅る)。前者は死傷120[名]、後者は42名を出したり。

 11D司令部は夜9時半、空爆を受け、下坂参謀、暗号掛将校戦死し、師団の志気阻喪す。 また本夜、敵の夜間攻撃を受け、友軍相撃ちの疑ひあり(便衣隊)。 爆撃のため信号をなす敵兵の沈勇は嘆賞に値す。

 11Dは夕刻、堤防の線に取り付く。

 Ⅱ/68[歩兵第68連隊第2大隊]長、矢住少佐戦死す。下坂11D参謀同上。

 

    8月24日

 第11師団の戦闘を指導するため「由良」は夜8時半、川沙鎮沖合に到る。11Dは攻撃前進中なり。

【揚陸作業隊長は計画者は駄目。運輸部の経験験あるものを充当せざるべからず。】

 第2次輸送駆逐艦五時到着(24日夜)せしも、揚陸作業隊睡眠し、船は陸に上り揚陸出来ず。海軍側の不平多し。作業隊長を海軍側指揮官の隷下に入れるごとく要求し来たれり。弾薬、糧秣のみを揚陸し、他は呉淞に揚陸することとせり。海軍側にも色々手落ちあるがごとし。

 44iの Ⅱ は朱家宅(羅店鎭北方)において五、六百の敵に包囲せられ(便衣隊の疑ひあり)たるも、これを撃退せり。この師団は補給困難を極む。支那式一輪車が便利なり。リヤカーも駄目なり。

 嘉定攻撃の軍命令を起草せしも、時機尚早と思ひ、小官自らこれを撤回囬したり。

 

    8月25日

 夜8時半、11Dは羅店鎮を占領し、一部をもつて劉家行に敵を追撃中なるの報告に接したるも、次いで、未だこれを占領しあらず、敵は家屋防御をなしあるをもつて飛行機の爆撃を要求し来たれり。

参謀総長より上陸作戦成功の祝電来たる。】

 嘉定攻撃の軍命令を9時、11Dに与ふ。

 呉淞鎮西北端に敵の迫爆砲あり。3Dは之が爆撃を要求し来たれり。揚子江口、福州、厦門、仙頭の平時封鎖を3Fより発令せらる。

 後五時、大西兼勤参謀より電報あり、上海上陸隊正面の敵は昨24日夜より後退しつつあり、3Dは万難を排し江湾鎮方向に突進し、敵の退路に迫るを要す。然るに昨夜電報せし3D充足人馬の運送船が誤つて川沙鎮方面に廻送せられありしため、3Dを出す能はず、軍司令官また慎重を期すべき御意見にて、単に情報を3Dに通報するに止めたり。

 ライター廻送のため芳村中佐を「出雲」に派遣す。

 呉淞鎮を攻略せば二神参謀を軍に復帰せしむべく電報す。

 正午頃、11Dは劉家鎮、羅店鎮を占領したり(前報告は誤りなるごとし)。

 新軍動員下令の通報あり。

 

    8月 26日

【呉淞鎮攻略の経緯】

 午前11時30分、羅店鎮および劉家鎮、未だ占領せずとの報告あり。

 呉淞鎮攻略のため、11Dの一部を楊行鎮方面より進むる案を参謀長と協議の上、司令官に上申せしも、軍の根本方針を変更することとなり、また3Dに一度命令せしことなれば、飽くまで3Dに攻撃せしむべしとの断案を下さる。これがため芳村参謀を3Dに派遣す。夕刻、二神参謀来艦し、師団の苦衷を訴へ、河岸の方より船による3D兵の上陸は不可能なる旨を訴べしをもつて、方法は師団に委すも、同地の攻略は軍将来のため絶対ぬ必要なることを述べ、帰らしむ。

 田尻参謀長は、流涕、師団の苦痛を芳村に伝えたりとのことなり。

 大臣より上陸作戦成功の祝電来たる。

 

    8月27日

 3D長より「周家宅方面より呉淞鎮攻撃の準備中。乞御安心」の報告あり。

 前10時頃、3Dの左翼は東章家巷占領の報あり。26日までの当師団の死傷、約800(死136)。

 統制上の所感

 無線機遅し。D司令部には防空機関(MGまたは40mm高角砲)を必要とす。人夫の必要(11D)。

 午後2時、殷行鎮(3D左翼)占領の海軍通報あり。

 乗船区分表不明のため折角、輸送船、黄浦江口に着しながら、揚陸地に至らしめ得ず。通報を打電せしも返事なし。午後2時、3Dの左翼、殷行鎮に進出す。

【小尾参謀来艦ス】

 後9時、小尾参謀来艦、嘉定攻撃の困難を訴へしも、断乎これを排撃す。24日、工兵2小隊(30名)は早くも羅店鎮西北三叉路に進出し、敵自動車を捕へ、その積載せる砲弾をクリークに投ずる等の行動をなせしも、衆寡敵せず准尉以下8名退却、他は生死不明なり。このとき同時に派遣せられたる44i[歩兵第44連隊]の1[個]大隊、近傍にありしに増援せざりしは不可解。あるいはこの大隊ハ、一旦、同時[→所]を占領し、撃退せらるたるにあらざるか。

 

[綴じ込み別図]

第3師団方面態勢要図(8月27日午後3時における)[略]

 

    8月28日  晴

 爆撃の効果を利用し、11D主力は羅店鎭を8時10分攻撃、前進に移れり、焼夷弾の必要を痛感せしも、現物なきは遺憾なり。前11時、3Dより、昨夜、敵の2〜3大隊、呉淞鎭およびクリーク北岸の陣地に増加せりとの情報あり。

 午後1時、羅店鎭の敵は大場鎮に退却中(1時40分、下山少佐偵察)。12時半、押目大尉、劉家鎮爆撃中、臀部に銃弾を受く。数日間療養を要す。後3時、11Dより報告あり、正午、羅店鎭を占領。敵は西方および劉家行に退却す。Dは一部をもつて追撃中。

 芳村参謀、五時、3Dより帰還。3Dの門?字宅方面よりする攻撃を中止し、河岸よりする攻撃を計画中、しかも余り自信なき旨を聴取し、11Dの有力なる步砲をもつて29日より呉淞鎮攻撃の意見具申をなせしも、[上余白:司令官の武士道]3D長の面目を憂慮せられ、3Dの攻撃実施の時、陸上より11Dをして協力せしむべき折衷案を司令官採用せられたり。

 よつて11Dに準備だけを参謀長より打電す。

 羅店鎮の兵力67師の4団(11D報告)なるも、突入直後、飛行機よりの報告によれば多くも三百なりと。

【陣地に突入前、敵は退却したるものなり。(飛行機、下山)】

 

    8月29日  晴

 「由良」川沙口方面に移動す。8時24分、日の丸の標識を有する飛行機3、11D司令部に爆弾を投下せり。

 夜の戦闘において步6長倉新?[→倉永辰治]大佐、戦死す。

 3Dの呉淞鎭攻撃の遅延は、同地の上陸益々困難となるをもつて (船員数名負傷)11Dより歩[兵]4[個]大[隊]、山砲[兵]2[個]中[隊]をもつて楊行鎭鎮、月浦鎮方面より攻撃する案を立てしも、連絡より帰りし川上参謀の報告に依により、31日前10時、上陸を開始するの報に接し、步砲の有力部隊をもつてこれにむ協力せしめ、呉淞砲台、宝山り掃蕩をも行はしむろことに決し、軍司令官の決済を経、各々打電する所あり。

 

    8月30日  晴

 劉家鎮支隊を歩[兵]1[個]大[隊]、歩[兵]砲1小[隊]、騎[兵]1小[隊]として、西塘湾~双草~双美橋?に後退の線に後退せり。(東方の赤線路を開放せしは不可解。)3Dへの協力部隊は歩43の第2大隊(浅間少佐)山砲1中隊なり(軍の有力なる步砲兵云々の命令には合せず、協同精神の欠如ーを思はしむ。) 桜井少佐、十時半到着。)緑筒の使用は海軍および居留民に対する報復手段の虞れあり、海軍より使用方見合せの請求ありたるをもつて、これが使用を禁ずることとせり。

 

[綴じ込み別図]

 第11師団方面彼我態勢要図

 (8月30日正午頃における)[略]

 

    8月31日  晴

 11Dより報告あり、右協力部隊は浅間連隊(1大[隊]欠)なることを知る。計画のごとく9時半より海軍の爆撃および空爆に次ぎ、10時より主力をもつて河岸より、一部をもつて(台車により)鉄道橋より突入、上陸に成功す。午前11時、金家宅付近に進出す。浅間支隊の状況不明。敵の北方軍は陳誠、南方軍は張治中指揮すとの諜報あり。

【輸送区分ノ所見】

 毛布その他、不必要の荷物多く、軍無線、弾薬の遅きは状況に合せず。建築材料は宇品に還送せしむ。

 午後5時、浅間支隊の状況不明。後11時半、11Dより報告あり。この支隊は午後四時、獅子林砲台西方2kmの敵を撃退し東進す。(遅きを驚くべし。軍命令違反なり。)

 西瓜に細菌を注射せりとの諜報あり、第一線に伝ふ。

 5[個]師団の軍とする軍司令官の意見具申、および[第]14師団の取り敢へずの増派(長中佐の意見)には不同意なりしも、打電することとたなれり。

 

    9月1日  晴

 増派に関し不同意の参謀次長の電あり。

 11Dは昨日夜五時、敵の逆襲を撃退すとの報告あり。

 14Dの増派は、桜井少佐が西村歩[兵]少佐より、中央にその意図ありとの報に基づき、司令部内にこれが要求の希望起りしものなり。歩[兵第]29旅([歩兵第]34[連隊]欠)夜、黄浦江沖に着、□[記号:連隊司令部]の指揮する歩[兵]4[個]大[隊]、K1[個]小隊、野砲[兵]1[個]大[隊]、工[兵]1[個]小隊1/3Sをもつて月浦鎮を経て11D正面の敵の右翼を攻撃せしむべく意見具申せしも不採用。29iBを3D長の隷下に入れ楊行鎮攻略の司令官の意図を内示す。[歩兵第]68[連隊]の戦力は大にして、[歩兵第]6i[連隊]は劣るとのことなり。

 午後4時、浅間支隊は獅子林砲台を占領し、鷹森部隊は呉淞砲台南端を占領す。天谷支隊は軍に復帰せいめらる。その用法は、月浦鎮方面より11Dの敵の背後に迫らしむるを主張し、採用せらる。

 

[綴じ込み別図]

 第3師団方面彼我態勢要図

 (於8月31日午後4時45分)[略]

 

    9月2日  晴

【呉淞占領、[歩兵第]68i[連隊]】

【晴天続きは天祐なり】

 夜、11Dは(9時半)呉淞砲台を占領し、宝山城南側に進出す。浅間支隊は10[時]半、獅子林砲台出発、河岸道を南進す。午前九時、幕僚会議を開く。長中佐の意見は、敵ノ兵力および素質に鑑み、羅店鎮をも放棄して上海北方を狹く占領し、陣地戦を準備すべしと主張し、小官これに反対す。

 3Dに、29iB上陸後、楊行鎮の占領に関する命令を下達ス。(正午)

 夕刻までに11Dは宝山東南側~尤家宅の線に進出し、宝山城を攻撃せず[ママ]。浅間支隊の状況、変化なし。

 

    9月3日  晴

 8時、天谷支隊長来艦、軍命令を交付、必要の指示を与ふ。正午、浅間支隊は馬路塘の線に進出す。

 公大飛行場攻撃に3Dが歩2中、砲1中、工1小、戦車1小だけより充当せずとて、海軍側不満なり。大西、光成両参謀来艦、苦情を述べたり。要は軍トと師団との右攻撃の必要性感に差ふるがためにして、軍としても責任の一部を負ふべく、師団师団としても軍命令の尊重に欠くる所なり。2時、3Dは宝山攻撃に[→を]開始する筈。(D命令)今回の上陸作戦は全く敵地における作戦にして、満洲、北支と趣を異にし、支那人の便役等、全く胸算し得ず。11Dの希望は天谷支隊を川沙鎮方面に上陸せしむるにあるも、陳誠の精鋭11、14師に一度打撃を与ふること必要なると、また11Dの志気を昂揚せしむるためにもこれまた必要と考へ、月浦鎮に進むることとせり。11D、3Dともに志気旺盛なりと云ふを得ず、進んで軍命令の任務を積極的に解決せんといる意気なきは遺憾なり。

【天谷支隊、13日間 舩内生活、水ノ保有量につき注意を要す。】

 宝山は単に砲撃したるのみにして、歩兵の攻撃を実施せず。明4日も本日と同様の手形?を施したしとて、宣電ビラを一工兵将校持参せしも、軍司令官の同意する所とならず参謀長より攻撃すべく田尻参謀長へ連絡す。西村航少佐、連絡のため来艦す。

 

    9月4日  晴

 天谷支隊参謀吉津少佐、連絡のため来艦。

 宝山攻撃の遅緩に鑑み、藤田部隊は速やかに宝山城を攻撃すべしとの軍命令を発せらる。吉津参謀を陸上より浅間支隊に派遣す。同支隊は沙竜口に達しあらず。その北方、陳家店付近において敵に包囲せられ、1大隊長戦死、1大隊長負傷。山法弾薬なし。よつて本日中に弾薬を江上より補充する処置を取る。

 

    9月5日  晴

【作戦計画一部ノ変更。6日、天谷支隊は隊伍整頓に費す。】

 午前7時より宝山方向に銃砲声熾んなり。天谷支隊の攻撃前進は午後2時、3Dの一部は金家宅を占領せしも、その南方橋架東側は、敵これを占領し頑強に抵抗し、遂に奪取するに至らず。藤沢11D参謀来艦、本日午前、軍司令官の承認を経たる大場攻撃の内意を内示し、嘉定攻撃の□痛?を軽減したり。

【7日、天谷支隊、午后1時半攻撃前進、支隊長は敗け戦と思へり(五時)】

 

    9月6日  晴

 午前9時、宝山攻撃始まる。15臼砲の威力大なるも、これをもつて城の東南角を破壊せんとしつつあるは如何かと思ふ。寧ろ野砲の直射弾を以てするを可とせん。

 公大の飯田大隊も本夜より攻撃を開始す。砲声聞こゆ。天谷支隊(安達連隊)は西門大街の線より攻撃前進を起こす。藤田部隊は四塘橋クリークの線に昨5日、進出せり(午後6時)。

【教訓】

 クリーク地帯の前進は疎開とせず一本縦隊とし、敵に近く横広隊形を取るを可とす。敵兵なきにおいてしかり。

 最初より横広隊形をもつてするときは支離滅裂となる。

 宝山城攻撃において我が戦車に手擲弾を投げる支那兵には感心せり。この戦車3両の進出は遅きを見る。

【宝山城占領】

 前10時20分、鷹森部隊は宝山城を占領す。(1大隊、戦車1中、臼砲1大隊、1門20発以内と指定す。)

 天谷支隊25榴1連隊(1大隊)を配属す。臼砲一中を呉淞鎮北方に布陣、浦東地区の迫撃砲制圧の準備をなさしむ。

藤沢参謀より浅間支隊に、獅子林台砲台より余り南進して友軍相撃ちをせざる様との命を与へたりと聞く(副長室)。後2時、天谷支隊は妙家宅、周家宅、呉家上楼の線に進出せり。夕刻までに泗塘橋以北のクリークの線に進出する予定。周家宅西南無名部隊[→落]において俘虜600ありしも、敵意を有せしため、全部射殺せりと。

 飯田大隊も計画のごとく進捗す。ただし虹口桟橋の一中隊ははね返され、大発にて北方より上陸、攻撃前進す。

【水田干涸ノ理由】

 農民逃避のためクリークの水を揚ぐるものなく、炎天下に水田干涸するに至りしものなり。

 

   9月7日  晴

 前3時、由良の50m位の水中に敵の爆弾落下、水兵2名負傷す。

 天谷支隊、上野部隊ともに第一線を進出せしむ。飯田大隊の攻撃はやや困難を感ずるも、攻撃に自信なきにあらず。

 3Dより迫撃砲配属の希望あり(電話)。

 午後6時、軍司令部は輸送船瑞穂丸に移乗し、陣地に横付となす。高射砲照空隊に命令を与ふ。

 

[綴じ込み別図」

第一課

 上海派遣軍方面敵師号、系統、兵力一覽表

               参謀部 第二課

 

    10月10日   雨

 9時、水産学校を出て、午後3時、楊家宅西端、新軍司令部に移る。途中、道路の泥濘、名状すべからず、シルコの中を歩むがごとし。午後5時、13Dの主力を以て新木橋以南の敵陣地攻撃に関する命令を与ふ。11Dの進出遅れたるため、止むを得ず13Dを使用したるなり。志気衰へたる時の軍指令に「速やかに」とか「準備出来次第」とかの文句を用ふるときは何とか彼とか理屈を付けて発動を遅らすものなり。日時を明確に示すを要す。

 

    10月11日  曇、午後晴

 第2二兵站司令部と谷川支隊との戦闘争および捜索地境を示す。また後備大隊をして姚家湾(含まず)以東の守備を撤し金家宅以東を守備せしめ、101Dの負担を軽減せしむ。101長、加納治雄大佐、小宅において戦死。一時間前、参謀長への報告を読む。壮烈を極む。小部隊を遠く東方に分離、渡河せしめたるため、抜き差しならぬ羽目に陥りたるものなり。11Dハ本払暁攻撃開始の予定なりしも、左翼隊の攻撃準備遅れたるの理由をもつて12日払暁に延期したり。

 

    10月12日  晴

 連日の雨天のため補給および砲兵の展開遅れ、10月X日(13日)を、16日に延期せらる。内山少将より、砲兵がいくら射撃しても歩兵は前進せず、注意せられたしとの訴へあり。果して砲兵の射撃が歩兵の希望するごとき効果ありやも疑問なり。

[上余白:教訓。次に好実例あり。]下士官·兵がいかに勇敢なりとも小隊長·中隊長が良くなければ突撃力なし。青年将校の価値は絶大なり。

 補充員は、死傷者が出来て始めて内地を出初するのでは、第一線が一度伸びてしまふ、一度伸びると回復は仲々困難、否むしろ不可能に近い。(11Dが余り当師団に期待してくれるな。後備師団と同様位だから。)故に第一会戦前には既に戦場に到着しあるごとく補充せしむるの要がある。30榴、24榴ともに不発多し。原因調査中。13Dの補充、人二千、馬500は第一線に死傷者を出さざる11日、すでに呉淞に上陸せり。好着眼と云ふべし。(13Dは10日、始めて第一線に出でたるものたり。)この補充員は戦場訓練を充分行ふことを得べし。

 

    10月13日  晴

 戦線、全く変化なし。

 

    10月14日  晴

 戦線、全く変化なし。戦闘要報によれば敵前10mとか20mに近迫し突撃中なりしとの報告あるも、事実、戦線に何らの変化なし。 支那人式の報告にあらずんば幸いなり。

 夕刻二度、空襲あり、被害なし。

 

    10月15日  晴

 戦線、変化なし。軍司令官より戦線進展の方策なきやとの質問あり。小官は11Dを第二線とし、13Dの全力を第一線に出す意見を具申せるも、参謀長、長中佐の反対意見ありて、硏󠄀究を命ぜらる。作戦課長が二人も三人もありては、戦は甘く行くものにあらず。統帥は一本にて行きたきものなり。夜、四回、空襲あり、上海および公大方面に二十数度の爆弾投下中、四度は公大飛行場に命中、海軍機1焼失す。

 

    10月15日  晴

 午後1時出発、李家宅の9D司令部を訪ふ。意見、左のごとし。

1. 山砲弾、歩兵砲弾、MG弾、曳火手投弾を希望す。

2. 24Hが陳家行に十16発射撃せしも、二発だけ村落に命中し、他の一四発は水田中に落下す。

3. 陳家行の東側を占領せしも、手投弾に乏しきため撃退せらる。

4. 死傷三千以上に及ぶべし。

5. 軍所命の線に21までには進出することを誓ふ。

6. 13Dの右側進出を待つ。その山砲は9D重砲の後ろにあるは怪し。

嗇里付近、本道は極めて悪し。補修の必要あり。

後3時辞し、顧家宅の3D司令部に至る。

劉家行南方本道上に内山旅団の車馬あるは不可。

同司令部の意見、左のごとし。

1. 101Dの右翼を進めざれば重砲の推進に困る。

2. 黄宅にてコレラ患者出たり。

3. 全線攻撃作業を行ひあり。

後6時半、台湾爆撃機、軽9(1行衛不明)、重6、上?海?飛行場に到着す。

 

    10月16日  晴 ただし風強し

攻撃進捗せざる理由、

1. 我が方の戦力は逐日消耗す。

2. 敵は入れ替はり立ち代替はり交代するをもつて戦力同じ。

3. 陣地は逐日堅固となる。

4. 我が弾薬不十分なり。特に肉薄攻撃器においてしかり。

 

    10月17日  晴

 朝9時30分、3D左翼隊の右連隊(歩18)は葛家神桜宅を占領す。陳家行攻撃のため陸海軍機および24榴を協力せしむ。その結果、陳家行は東半部を占領すべき命令なりしも、全部を占領したり。24榴は村落に中れば良く破裂す。

 9Dは陸宅、姚宅、3Dは日堵宅東南無名部落、葛家神桜宅を奪取す。11Dの志気に鑑み、その任務に耐えざるため、主力を後方に集結せしめ、13Dをして新木橋以南、花家橋宅にわたる間の敵を攻撃せしむ、作戦地峡は各兵団の自ら作りたる道路、および現在ある部隊のため苦心多く、白紙にては想像出来ず。

【我軍撃退セラル】9Dの陳家行占領部隊は督戦隊の逆襲を受け、200m撃退せらる、現役部隊おいてこのことあり(101Dに2回、3Dの宝宅において1度あり)

 

    10月18日  晴

 前7時30分 3Dノ34iハ兪宅を占領せり。101参謀長を招致す。

 

    10月19日  晴

 6時、101は攻撃を開始し、曹宅北方の掩蔽部を奪取す。

 クリークの我方の岸内にMGを穴の中に入れ、渡河部隊を背後より射撃し、歩[兵第]22[連隊]の楊涇クリーク渡河の小部隊は全滅したり。[午]後一時半、3Dの34i[歩兵第34連隊]は黄宅を占領す。

 34iと44i[歩兵第44連隊]とは何も云はず黙々として命令を実行するの美風あり。

 師団においては9Dあるのみ。11Dは一番?理屈を述べ、しかも実行力に乏し。

 

    10月20日  晴

 9D司令部ヲ訪問せしとき、21日までには所命の線に進出し得と参謀長より明答ありしが、本日連絡の結果、総攻撃を月末に延されたしとの返辞あり、その理由は、22日上陸すべき補充員三千名の戦場訓練を終り、これを補充したる後、総攻撃を開始せんとする意向なり。よつて参謀長を慫慂し、9Dを訪ふこととなれり。9Dの意見は、21日到着すべき補充員の戦場訓練のため総攻撃は月末を要求せしも、全般の関係上、27日と決定せらる。

 

    10月21日  晴

 大島中佐来たる。昨20日、担架運搬中の主計の腹に15加全弾命中し、地中に入り爆発、全員即死す。爆撃および重砲の効果を利用し、13Dの右翼は新木橋を占領す。

【教訓】匍匐前進のため小銃、MG等は泥土のため使用し得ざるに至る。

 和知大佐来たる。 11D司令部の意気消沈、および楊涇クリークの線において攻撃せざる部隊ありしと。また最初軍が指定せし追撃目標の線は第一線には示さずして、師団の予定線のみを示したるとのことなり。 この際、一□に出したる情況なりしとのことなり。

 

    10月22日  晴

 午後2時、公平中佐、連絡のため来たる。第10軍の派遣に関する打合せなり。すでに決定事項なるをもつて軍としてかれこれ申すことなし。ただ方面軍幕僚につきては中央部御手盛りのそしりを受くることあるべし。参謀長は一人にて可なるべし。

 

    10月23日  晴

 27日の攻撃命令を起案す。9Dの第一線は急速に前進し、走馬塘クリークの線に進出す。

 

    10月24日  晴

 午前5時、長中佐より連絡あり。9Dの下士上等兵の斥候が走馬塘クリークを渡り(深さ60cm)、南に進出せしに、敵は西方に退却しつつあり、その俘虜の言により、督戦隊も居らぬとのことなり。長中佐は9Dの追撃を主張し、芳村中佐はこれに反対せり。午前7時、 飛行機の報告により、敵の部隊が西方真茹に退却中とのことにより、軍の総追撃を決し、軍司令官に報告し、部?署を決定せり。

 

    10月25日  晴

 戦況有利に発展し、大一線3兵団はともに前進せり。

 

    10月26日  晴

11D主力を9Dの右側に出し、小南翔~城?徨?𫞎~郭家宅~浪江橋の線に進出するごとく命令す。これ9Dの追撃を促進するとともに、あるいは南翔攻略の機会あるにあらずやとの希望に基づくものなり。武藤大佐着す。

 

    10月27日  晴

 南市封鎖の目的をもつて蘇州河の渡河命令を起案し軍司令官に報告せしも、第10軍にこちらを委し、まづ南翔を攻撃してはとの意見にして、一旦、研究するため引き下がる。

 南市封鎖は軍の本然の任務なるをもつて、第10軍に委すは適当ならず。また蘇州河も敵の準備完からざるに乗ずる機会もあるべく、再び意見を具申し採択せらる。武藤大佐来たる。北方へは11月11日、兵力を転用するごとく予定シしある旨、伝ふ。

 

    10月28日  晴

 3Dの追撃間、戦車は真茹に入りしが、友軍砲兵のため射たれ損傷を蒙る。

 追撃に引き続き蘇州河渡河を敢行するは良きチヤンスなりしも、第一線の疲労と、特に渡河材料を後方に残置せしため、実行は不可能なりしなり。

 

    10月29日  晴

 渡河の時機および方法打ち合はせのため、9Dおよひ3D司令部に到る。

 9Dは11月1日、3Dは10月31日にても可なりと云へり。

 両師団ともに成功の確信ありと答ふ。

 

    10月30日  晴

 軍の渡河命令を下せり。両師団の渡河開始の時機差あり、敵に各個撃破の能力なし。かつ渡河そを成るべく急ぐ必要あるをもつて、軍において渡河を統制するの要なく、また9Dは2日にあらざれば準備出来ざるをもつて、終期を11月2日として命令せり。

 13Dの終結は万一の場合、南翔方面の敵の逆襲に備へ、かつ同時に重藤支隊との交代を速やかならしめんがためなり。

【教訓】追撃間における歩砲の協同は出鱈目なり。将来、研究を要す。

 細見戦車大隊長の言によれば、追撃が一日早かりせば相当の効果ありしならんと。

 

    10月31日  雨

 3Dハ0時15分、渡河開始、1[個]中[隊]と1[個]小[対]は金家頭対岸に上陸せり(軽渡河材料)。歩[兵第]18[連隊]の渡河(中央正面)は230名なりしが、軽渡橋流され後継がず、ためにその後一兵も渡河せず。【教訓】説明を第一線まで伝へしため、敵を軽視したるに基因するものにして、大なる誤りなり。 

 

    11月1日  曇

 3D方面、渡河進捗せず、9Dは正午渡河開始、歩[兵第]19[連隊]の2[個]大[隊]は姚家宅、張家宅の線に進出す。説明など顧みず独力戦闘すれば、かくのごとく成功するものなり。歩18の渡河部隊中、200名ハ敵ノ側防火のため全滅し、旅団長片山理一郎は全部を渡岸に引き上ぐべしと云ひ、参謀長これを引き止めに旅団司令部に赴けりとか。昨夜、さらに一部をこれに注ぎ込み、また側防火制圧の手段を講ぜざりしは誤りなり。

 9Dの右翼隊たる5大隊は渡河に成功し、姚家宅、張家宅を占領す。けだし苑家宅南方は台地にして敵岸を瞰制し、歩砲の協同、良好に行はれたるをもつてなり。

 

    11月2日  晴 午后雨

 昨1日栢家宅軍司令部において時期作戦に関し武藤より作戦計画の説明あり。大体異存なきも、白茆口上陸兵団を崑山に向はしむるは不同意。常熟を占領せしむべきを主張し、軍司令官の同意を得たり。

 夜来、爆撃盛んなり。歩[兵第]34[連隊]ハ3[個]大隊の渡河を終はる。

 101師団を第二線兵団とせしは、自ら敵前渡河を行ふ能力なしと判断したるを以てなり。

 13Dと重藤支隊との交代を待ち、13Dをもつて11Dの右翼に展開し攻撃せしめなば南翔の占領は可能なり。しかるに軍の戦況に関係なく16Dを白茆口方面に11日、上陸せしむる中央の遣り方は、詢に不満なりと云はざるべからず。3D長は豊田紡織北方約1kmの趙家巷南方学校(大学)に位置し督戦に努めつつあり。

 軍司令官の方針に基き5隊に感状を付与せらるることに決す。(芳村中佐、自己の意見を通さんがために長中佐に連絡し参謀長を動かしむ。卑劣なる行為なるをもつて、叱責し置けり。)

 11D協力の戦車大隊を3Dに協力せしむ。蘇州河北岸より掩護射撃を行はしむるためなり。

 

    11月3日  雨

 10時、宮城に対し遥拝式を行ひ、 両陛下の万才を三唱して乾杯す。飯田支隊、歩[兵第]34[連隊]、歩[兵第]68[連隊]、天谷支隊、歩[兵第]44[連隊に対し感状を付与せらる。

 9Dノ9[個]大[隊]渡河し、3Dは4[個]大[隊]渡河す。9D方面より戦況の発展を□ずるため、軍直砲兵の全部を11Dに協力せしむ。9Dの渡河は計画周密にして死傷50内外に過ぎず。歩[兵第]68連隊の一部渡河部隊を撤退したることに関しては色々物議あり、内情を確かめざれば明言し難きも、旅団長片山少将が命令したりとかのことなり。中隊長(歩68)棚橋大尉、連隊本部に到り種々挿言し、師団に対し文句を言ふとか。慎むべきことなり。午後8時、柳川軍司令官、名□にて馬鞍群島到着の速報あり。

 

    11月4日  曇

 13Dハ重藤支隊、永津部隊との交代を終る。[午]後4時半、9Dは八字橋を奪取す。

 

    11月5日  曇

【この上陸と北方滸浦鎮の上陸とを同時に行はざりしは、最高統帥の誤りなり。】

丁集団[第10軍]は五時半、上陸を開始すとの電報あり、次いで9時半、上陸成功すとの来電あり。祝電を発せり。(6時半、上陸す。)

 二四榴過早破裂弾丸は広島製のみなり。(大阪製は可なり。) 第10軍ノ6Dハ張堰鎮の線に進出す。

 陸軍省の小池、太田ら来着す。

 

    11月6日  曇

 6Dは10時、黄浦江の線に進出す。

 

    11月7日  雨

 K作戦陸海軍協定を方面軍司令部において行ふ。

 

    11月8日  晴

 武藤来部す。無錫への前進は中央部の指示により中止することとせり。ただし16、11の使用方面および11の渡滬?時期は状況に依ることとせり。

【教訓】3Dの1[個]旅[団]を右翼に使用することは問題なきも、68iの一部屍体が由家橋にあるため、この旅団を不利なる左翼に使用することとなりたるものなり。

 

    11月9日  晴

 5時半、3Dより、敵兵退却せしをもつて第一線は追撃に移れりとの報告ありしをもつて、直ちに9D、3Dに追撃を命ぜり。

 3Dの一部は龍華鎮に、主力はその西北方地区に終結す。

 9Dの一部は七宝鎮、配属せし101師団の歩3大は諸翟鎮付近に、主力は飛行場付近に集結す。

 集成騎兵には四陸?鎭およびその北方地区に追撃を命ず。

 方面軍より9Dを古?浦方面に追撃せしむべく督促ありしも、同師団の疲労状態(中川参謀長よりの電話に依る)と、敵の背後より追ふも益なく、また五百や千の敵は崑山付近に於て束にして捕ふれば足るをもつて拒絶せり。一体、方面軍がかくのごときことに口を入れるは誤りなり。

 

    11月10日  晴

 南市の爆撃を命じ、実施せしむ。軍司令官は不満なりしも、明日の爆撃、差支へなしとの許可を受く。南市の大半の掃蕩を終る。

 集成騎兵の戦闘報告あり、自動車20台等を捕ふ。

 

    11月11日  曇

 101師団の連隊基幹を佐藤少将に指揮せしめ、大将?指導の下に陸戦隊2大を併せ指揮し、浦東に上陸。敵兵なし。死傷1名もなし。夕までに所命の南市対岸を占領す。

 

    11月12日

 敵兵總総退却の報あり。9Dを6Dの右に使用し追撃しむべく方面軍の要求あり、これに反対す。その理由は、

 1. 同師団が極度に疲労しあること。

 2. 架橋材料なきをもつて、黄渡鎮付近の渡河困難なること。

 軍司令官の採決により、方面軍の意見通り行ふ。

【教訓】ただし結果は予の判断の通り遅れたり。

 これも方面軍の要らざる干渉なり。

 軍隊の実情に即せざる命令は自滅?戦術?なり。

 

    11月13日  曇、午后晴

【重藤支隊の上陸は全般的には辛襲なり(永津大佐談)。】重藤支隊の上陸成功せしも、思つたより進出遅し。

 陣地戦の癖より脱し得ざるか

 13D、11Dに支塘鎮追撃を命ず。軍司令官は重藤支隊方面に軍艦にて赴く。同行の予定なりしも、主力の追撃中なるを以て、16Dの用法2案を二神少佐に託し、予は軍司令部に残る。

 101師団を追撃せしむべきや集結すべきやは、大いに考れたる所なり。蓋し支塘鎮まで追撃せしめ、花を持たしめんとしたればなり…

 

    11月14日  晴 夜、霧深し

 13師団は陸?渡橋に於て渡河し、北方に向かひ敵を追撃、11Dは五時半、大倉を占領、6Dは崑山南方において渡河、9Dは安亭鎮付近を出発、北進す。よって6Dの一部をもって蘇州に向かひ敵を追撃するごとく、独断、命令を発し、軍司令官に爾[→事?]後の報告をなす。重藤支隊を無錫に出すを可とする意見を参謀長に打電せり。

 午後2時半、重藤支隊の第一線は除家橋、蘇家尖鎮、支禱鎮の線に進出、支隊司令部は梅李鎮に入る。常熟には東方より退却するもの、蘇州方面より北上するものあり。

 呉福陣地も大なる困難なく占領し得るものと判断せらる。中央指示の常熟、蘇州の線はこの際、前出せしめ、南京攻略を企図するを至当なりと考ふ。

 

    11月15日  晴

【芳村参謀起案】追撃命令を与ふ。軍司令官は軍艦大井にあり、16師団を顧山鎭方面に向かふ様ふ直接命令せられ、追撃命令と喰ひ違ひを生ず。車両師団を道なき方面に用ふるは誤れり。

【教訓】大体、軍が追撃しあるにかかはらず、大して用なき方面軍司令部に位置せらるることは誤りなり。ことに第一線が苦労しあるに大廈高楼に位置するがごときは、最高指揮官として注意すべきことなり。

 方面軍司令部辞去後、司令官は塚田少将に意見を求められ、少将は後から出た命令を是なりと主張し、予の起案せし追撃命令をそのま実行せらるることとなり、事なきを得たり。

 

    11月16日  曇

 重藤支隊は昨日午後四時、常熟東端の線に進出す。俘虜約600、死体550、山砲4門を取る。

【教訓】9Dノ左右追撃隊は道を失し行衛不明なりしが、漸く大倉西方地区にあること明瞭となれり。この近い距離においてかくのごとき事実あり。

 

    11月17日  雨

 戦況、大なる変化なし。13Dが謝家橋鎮を占領、9Dが呉義鎮を占領す。13Dとの通信、未だに不能なり。

 

    11月18日  曇

 9Dは北田鎮を占領す。6Dは八時、崑山を出発、南方に行軍を起こせり。

 

    11月19日  雨

 重藤支隊は常熟西北方高地を占領す。二神参謀は8時出発、[午]後2時、古里村に着す。白卯新市よりは船によらざるべからず。道路は重砲にて閉塞せらる。内山少将が勝手に11D、16Dの砲兵を統一指揮すとの報告は、軍命令に違ふものにして不都合なり。第3師団を方面軍より軍に復帰せしむ。方面軍が2日間直轄にせしことが何のことか解らぬ。

 

    11月20日  雨

 重藤支隊が軍命令に反し常熟の掃蕩に任するは不可なり。速やかに大義鎮方向に迂回し、追撃行動に移るべきなり。

【教訓】他部隊の未占領の電報を打つがごときは醜きものなり(大西参謀が重藤支隊に肩を打[→持]つために)。 大いち注意すべきことなり。9Dの情況不明。

【同右】通信に関しては将来、改善の余地大。有線は受けに豊富にすること。無線は速度遅し(3~4時間を要す)。 軍の統帥としては有線電話を必要とす(作戦地境を切るを要する場合には)。

 

    11月21日  雨

 13Dが12日以来追撃を敢行し、補給の困難を一口もせず、鋭意追撃に專念せしは、見上げたる態度なり。重藤支隊の比較して特に感深し。

 

    11月22日  晴

 蘇州、常熟ともに米は充分あること知る。

【教訓】上陸作戦において水際戦闘および爾後の推進のみに没頭し、逐次上陸する部隊および補給に関し多大の注意を要するに拘はらず、これを軽視するは誤れり。重藤支隊が上陸後数日間、部隊を全く掌握し得ざりしは、後方主任参謀の手落ちなり。注意すべきことなり。

 

    11月23日  曇

 詔[→勅]語伝達式あり、軍司令官、朗読途中、感泣せらる。予また感泣す。南京攻略の場合の腹案を話さる。9Dを第10軍に転属のことは異論なきも、北方対岸に出すべき11Dを方面軍直轄とすることには不同意を述べたり。軍は再び鉄壁に向ふこととなり、この上死傷者を出すかとの感を抱きたり。

 

    11月24日  晴 温度急に下がる

 二神参謀の意見を容れ、午後4時出発、常熟に軍司令部を移す。午後9時、古里村南方2キロに達せしも、爾後、車両充満し往く能はず。よつ

て2隻の発動船に乗りクリークにより前進す。

【教訓】 15両が道の一側を占領し、馬は繫駕のまま1週間も放置しあり。これがため軍の陸上補給に数日間、大支障を生ずるに至れり。船にて月明かりの夜、常熟城壁外を航し、運河畔に火災を見る。感慨無量、詠詩でもしたき情景なり。(25日午前3時頃)

 

    11月25日  晴

【無錫占領】午前4時、船にて常熟に着す。8時、天谷支隊は無錫を占領せり。感状支隊は別か? 11D主力を常熟に集結、9Dを常州に追撃、水上機動は依然実施せしむ(16D正面の敵の逐次抵抗を排するため)。 大一線における支隊、師団等の現地における協定は困難なるものなり(11Dの意見具申によりこれを見る)。

 天谷支隊は無錫市中の掃蕩を行ふ。

 

    11月26日  晴

 方面軍より次期作戦準備の命来たる。作戦地境は岊亭橋鎮~黄金山鎮線(派遣軍に含む)とす。集成騎兵は7時、揚舎営を占領す。馬の給?養?困難なるべし。[上余白:教訓]10万分の1図上の朱線は誤り多し、将来 大いに注意を要することなり。これがため作戦の一部を誤りしことありら。第10軍またしかり(嘉興~南潯鉄?道の西半部存在せず)。

 

    11月27日  曇

 常熟北方虞山に登る。平和にして富める町と見らる。

 景色良し。城壁に陣地設備あり、またその前方稜線の10~20m後方に個人敬?兵諄?あり、設備巧みなり。

 人糞、到る所あり、また死体多し。追撃に不拘?戦車第一、五大隊を軍直轄として集結せしむ。到る所、橋梁落とされ通路を塞ぐをもってなり。夕より雨降る。

 

    11月28日  晴

 軍司令部を蘇州に進む。沿道に支那兵および軍馬の屍多し。病馬の放しあるもの多し。馬の飼養管理は将来、注意を要するものと認む。獣医部の現地活動を望む。

 無錫より常熟に向かふ16、11、9Dの作戦地峡切り換へは、苦心せし所なり。安達部隊の常州攻撃一定の地域を与ふること必要なればなり。江陰の攻略は明日は可能ならん。

 

    11月29日  晴

 11時、16Dの追撃隊は常州を占領す(飛[行]機報告)三箇師団の追撃隊が西南東の三面より攻撃したるもののごとし。

 3時、侍従武官後藤少佐来たる。作戦経過の概要を報告中、往時を偲び感泣したり。夜、武官と会食す。[第]10軍の[第]114師団は宣興を占領せり。

 

    11月30日  晴

 兵力を集結しある3D、11D、重藤支隊のごときは参謀を軍司令部に派遣し連絡せしむべきなり。この着意、充分ならず。また師団内における各主任参謀の連絡も不充分なるものあり、例へば9Dの太湖横斷のためガソリンに関する作戦と後方主任参謀との連絡、全くなきがごとし。

 13Dの江陰攻略は待ち遠し。戦力劣る様に感ず。

 

    12月1日  晴

 補給の不充分は充分承知しあるも、全般の状況上、16D、9Dをして丹陽および金壇城に追撃を命じたり。特に上記両地点付近はクリーク多く、敵望む築城増強せらるる虞れ大なればなり。

寒山寺見物】寒山寺を見る。荒廃甚だし。有名なる碑も殆んど字を読む能はず、壁にはめあり。庵?の新しきものは別に建てあり。11D、重藤支隊を南支方面作戦のため抽出せらるる内報に接したり。よって方面軍応援予定の第3師団は鎮江攻略の為、軍の隷下に置くこと必要なり。方面軍参謀長および武藤大佐へこの旨、意見を打電せり。

【教訓】師団の工兵は三中隊とし、かつ材料運搬のため自動貨車数両を編成内に置くこと肝要なり。

 

    12月2日  曇

【教訓】第11師団の某中隊のごときは中隊長以下、最初より無傷のもの僅かに4名なりと云ふ。13D[第13師団]は江陰要塞を午前11時占領す。多数の火砲を鹵獲したり。

 

    12月3日  晴

 10時蘇州出発、常熟を経て司令部を無錫北端、農学校に進む。途中、東亭鎮の陣?地を見る。午後、参謀次長来訪す。昨日、蕭山寺地上に於て65i[歩兵第65連隊]の1[個]大隊、昼食中に彼我の識別困難なる飛行機の爆撃を受け、死傷約50名を出せり。敵の飛行機と云ふ。

 海軍は13、陸軍は5機、敵機を撃墜す。陸軍の偵察2機撃墜せらる。海軍1機、江陰に不時着水?す。 

 

    12月4日  晴

 3D、11Dの5隊に感状を授与せらる。侍従武官立ち寄り、全般の状況を話す。峯?村大佐、吉原大佐、連絡のため来たる。古里村付近の斃死馬200は敵が炭疽菌をクリーク中に投じたる結果なりとのことなり。

 11D輜重隊において十二、三才の少女を連れて行軍し、これを凌辱したりとて、憲兵より報告あり。その他、これに類する事件多し。慰安所の必要多きを覚ゆ。

 

    12月5日  晴

 3D[第3師団]の進出したる理由

[中支那]方面軍の応援として第二線に置くとのことなりしをもつて
補給上、成るべく第二線を可とせしこと
 中央より重藤支隊および第11師団の主力を抽出すとの内報、数日前にありしも、11Dの幾何を残置するや明らかならず。よって取り敢へず天谷旅団に必要の足を付けて鎮江攻略を命令したり。これがため一部乗船の遅るることは致し方なし。中央は早くこれを通知するの要あり。

 重藤支隊が軍命令に先だち支隊の上海付近終結命令を出せしは越権なり。渡辺歩[兵]中佐、桑原航[空兵]少佐はしばしば幕僚として不十分なる行為あり。

 同支隊の常熟攻撃の際、大西参謀の電報等は軍幕僚として低脳のもの多し、緻密を欠く幕僚は困ったものなり。

 方面軍より南京攻略に関する命令届きしも、作戦地境の切り方と云ひ、攻撃準備の線と云ひ状況に合せず。

 軍は依然、前追撃命令を変更することなし。

 

    12月6日  晴

 2日付、松井大将は方面軍司令官に専補、軍司令官に鳩彦王発令せらる。御警衛および防空に心配多くなる。

【教訓】優秀なる軍幕僚で第一線に派遣することは効果多きも、しからざるときは却って馬鹿にせられ喧嘩の種となること多し。

 軍幕僚の素質は師団の幕僚より良好なること、統率上、必要なり。上海派遣軍は此点において充分と云ひ難し。庶務課の人選において将来、注意を望む。

 夕、吉住大佐、杉村少佐、丁集団[第10軍]より飛行機にて来たる。夕食に一杯呑みメートルを挙ぐ。

 

    12月7日  晴

 芳村中佐、江陰渡河指導のため出発、江陰に赴く。飛行第4四中隊の1機、常州にて離陸の際、誤って何かに衝突、大尉1、曹長1殉職す。戦死の取り扱ひをなす。

 本日は南京を攻略し得と予想しありしが、午前の態勢より見て困難か? [第10軍の]第114師団の右縦隊が[上海派遣]軍の作戦地境内に入り来たれり(6日夕、湖熟鎮)。方面軍の命令を知らざるためか、はたまた知りながら正面の堅固を避けたるためか、ないしは橋梁破壊し野砲通せざるためか。

 我が軍司令官着任せられ、伺候式。訓示あり、軍の隊勢および今後の企図を説明申し上ぐ。

 

    12月8日  晴

 8時半出発、4時句容に着し、敵政府を司令部となす。軍命令を出す。

[上余白]

教訓

11Dが民船を放ち、13Dとの約束を破りしは、武士の風上に置けぬ行為なり(於無錫)。
 

    12月9日  晴

 作戦経過の概要を2時間にわたり軍司令官に報告す。浅間支隊を何故派遣せしや(3Dの攻撃力上、これを必要とし、11Dは防御なれば兵力の抽出可能なり) また無錫以後、何故に一挙南京を追撃目標とせざりしや(東京より南京攻撃の御許し来たらず。松井司令官より、余り南方に兵を出すな、諸能力果して出来るかの3点により、10里宛追撃目標を区切って示せしものなり)の御質問あり。追撃目標を区切りしことは師団長としては困りしとのことなり。

 軍司令官より祚?田?宮より貰はれしマスコットの十里の虎を拝受す。夜、大坪中佐が9Dより貰ひ来たりし鴨のすき焼きをなし、公平中山、深堀、川置ヲ交へ一杯呑みメートルを挙げ、軍袴を火鉢にて焼く。

 

    12月10日  曇

 敵は最後の抵抗をなし、攻撃、難渋を極む。

 13Dの歩[兵]1[個]大[隊] 、山砲[兵]1[個]中[隊]ヲ靖江に残すことは心配なり。特に通信不能なるにおいてしかり。しかれども一度占領したるところを開放するは日本軍の取らざるところ。加之、死傷者に対して申し訳なし。故に残置すふことに決定せり。

 13D主力を何れにて渡河せしむるやは尚ほ今後の情況によりて決せざるべからず。

 午後五時、9Dの[歩兵第]36[連隊]は光萃[→華]門を占領せり。真に感泣したり。
 6Dの右翼隊が16Dの作戦地境内において戦闘中なりとて、16Dよりやかましく云ひ来たれり。元来、16Dの進出したる間、9Dが軍の了解の下に一部を入れることとなしたるものにして、1ヶ旅団も入れるとは思はざりき。

 

    12月11日  晴

 殿下には9時半出発、麒麟門西北方高知に到り、16D、9Dの戦闘を指導せらる。16D長より状況を報告す。

 爾来、騎兵の北方への特進、13D一部の烏龍砲台攻略を命ず。あるいは間に合はざることあらんも、13D名誉のためこれを実行することとせり。16D了解済み。昨日、司令官は9D司令部に行くとのことなりしも万一を慮り御止めす。

 

    12月12日  晴

 9時半出発、湯水鎮軍司令部(弾道研究所)21時着す。立派なる建物なり。図山要塞は昨夜10時占領、砲十数門を鹵獲す。午後五時半、[第]33i[歩兵連隊]は紫金山を占領す。

 光華門においては日章旗を奪取せられたり。悪戦苦闘中なり。

 

    12月13日  晴
 午前3時、紫金山西麓の敵はその北麓を経て東に向かひ退却し、岔路口付近の歩砲兵に衝突し、南に折れて下五旗付近に在りし騎[兵第]13[連隊]の[第]1中[隊]に衝突せしとか。逃走兵の掃蕩は爾来、大いに注意を要す。
 天谷支隊、上陸に成功す。13D主力は鎮江付近において渡河するを可とすとの芳村参謀の報告により軍命令を出す。ただし幕府山砲台占領部隊は南京より渡河せしむ。正午、敵の敗残兵約四百、軍司令部北方2km孟塘に到着せりとの報あり、後備2中隊をもつてこれを攻撃、北方に撃退しむ。軍司令官も11時出発、髙橋門に到る途中、敗残兵と衝突、これを護衛兵にて撃退す。午後4時半、敵の敗残兵再び司令部の北側に現出し、高射砲はこれを砲撃す。佐々木旅団が岔路口道を全く開放せしは、城内の敵を逃走せしめたるものにして、適当ならず。
 9D長は司令部の急を聞き、人見連隊を急派せしめたり。

 

    12月14日  晴
 人見聯隊をもって湯水鎮東北方高地の残敵約五百を掃蕩せしむ。13D山田支隊の獲たる俘虜約二万あるも、食糧なく処置に困る。

 

    12月15日  晴
 南京城内に外人横行す。また支那要人はソ連等の関係建物内に遁入しあるがごとし。長中佐現地に到り手配す。

 

    12月16日  晴
 依然、城内の掃蕩をなす。

 

【課長】

 【極秘】

 上海派遣軍司令部高等官職員表  昭和十二年十二月十七日

区分/職/官/氏名

軍司令官/中将/鳩彦王 

幕僚/参謀長/少将/飯沼守

幕僚/参謀副長/歩大佐/上村利道

幕僚/参謀部/第1課/参謀/騎大佐/㋘西原一策

幕僚/参謀部/第1課/参謀/步中佐/㋘芳村正義

幕僚/参謀部/第1課/参謀/航中佐/北島熊男

幕僚/参謀部/第1課/参謀/同  /川上清志

幕僚/参謀部/第1課/参謀/砲中佐/大坪一馬

幕僚/参謀部/第1課/参謀/步少佐/二神力

幕僚/参謀部/第1課/参謀/海大佐/ヶ松田千秋

幕僚/参謀部/第1課/参謀/海大佐/ヶ青木武

幕僚/参謀部/第1課/部附/工中佐/山田栄三

幕僚/参謀部/第1課/部附/步中佐/藤田秀八

幕僚/参謀部/第1課/部附/工少佐/(瓦)金原定一郎

幕僚/参謀部/第1課/部附/砲少佐/(暗)福田光威

幕僚/参謀部/第1課/部附/航大尉/押目音次郎

幕僚/参謀部/第1課/部附/步大尉/(瓦)関口函

幕僚/参謀部/第1課/部附/砲大尉/(暗)山本一秀

幕僚/参謀部/第2課/参謀/步中佐/㋘長勇

幕僚/参謀部/第2課/参謀/航中佐/ケ北島熊男

幕僚/参謀部/第2課/参謀/騎少佐/㋘本郷忠夫

幕僚/参謀部/第2課/参謀/步少佐/御厨正幸

幕僚/参謀部/第2課/参謀/步大尉/大西一

幕僚/参謀部/第2課/参謀/海少佐/ケ根本純一

幕僚/参謀部/第2課/部附/步少佐/大内競

幕僚/参謀部/第2課/部附/工少佐/ケ金原定一郎

幕僚/参謀部/第2課/部附/航大尉/ケ押目音次郎

幕僚/参謀部/第3課/参謀/步中佐/㋘寺垣忠雄

幕僚/参謀部/第3課/参謀/步少佐/櫛田正夫

幕僚/参謀部/第3課/参謀/砲少佐/北野平蔵

幕僚/参謀部/第3課/参謀/步少佐/榊原主計

幕僚/参謀部/第3課/参謀/砲大尉/佐々木克

幕僚/参謀部/第3課/参謀/海中佐/ケ長岡博吉

幕僚/参謀部/第3課/部附/步中佐/伊藤豪

幕僚/参謀部/第3課/部附/砲少佐/ケ北原栄

幕僚/参謀部/第3課/部附/輜少佐/折田義一

幕僚/参謀部/第3課/部附/同  /竹居卯一

幕僚/参謀部/第3課/部附/工少佐/ケ鴨沢恒三郎

幕僚/参謀部/第3課/部附/同  /ケ金原定一郎

幕僚/参謀部/第3課/部附/砲少佐/ケ福田光威

幕僚/参謀部/第3課/部附/工少佐/(給水)佐々哲爾

幕僚/参謀部/第3課/部附/砲大尉/田地秀朔

幕僚/参謀部/第3課/部附/工大尉/(通)清水武雄

幕僚/参謀部/第3課/部附/同  /古賀砂

幕僚/参謀部/第3課/部附/砲大尉/ケ山本一秀

幕僚/副官部/副官/   /川勝郁郎

幕僚/副官部/副官/   /森重逸郎

幕僚/副官部/副官/同  /楊田虎巳

幕僚/副官部/副官/砲大尉/平野勣

幕僚/副官部/副官/同  /高橋忠道

管理部/部長/歩中佐/ケ川勝郁郎

管理部/部員/砲大尉/平野勣

管理部/部員/同  /山下務

管理部/部員/主大尉/二川喜代治

管理部隷属/憲兵/長/憲少佐/横田正隆

管理部隷属/憲兵/ /憲大尉/宮崎有恒

管理部隷属/憲兵/ /憲中尉/千崎関吾

管理部隷属/衛兵/長/騎大尉/早尾矢指麿

管理部隷属/衛兵/ /少步尉/羽田四郎

管理部隷属/行李/長/輜少尉/山本明治

兵器部/部長/少将/福原豊三

兵器部/部員/砲中佐/鈴木正

兵器部/部員/步中佐/遠山一彦

兵器部/部員/砲少佐/北原栄

兵器部/部員/同  /小久保詮三郎

兵器部/部員/工少佐/鴨沢恒三郎

兵器部/部員/同  /ケ金原定一郎

兵器部/部員/砲大尉/ケ田地秀朔

経理部/部長/主少将/根岸莞爾

経理部/部員/主中佐/明石猛繁

経理部/部員/主少佐/岡田酉次

経理部/部員/同  /津野繁次郎

経理部/部員/同  /岡村潔

経理部/部員/同  /藤岡隆

経理部/部員/同  /松島喬

経理部/部員/主大尉/岡野節夫

経理部/部員/主少尉/平沼光平

経理部/部員/同  /児島貞三郎

経理部/部員/同  /川田正雄

経理部/部員/技士(七)/川上行敏

軍医部/部長/軍少將/笹井秀恕

軍医部/部員/軍少佐/小出宗次

軍医部/部員/軍大尉/植田豊

軍医部/部員/同  /渡辺進

軍医部/部員/同  /平賀稔

軍医部/部員/同  /柳田三基

軍医部/部員/嘱託 /高橋茂次

獣医部/部長/獣少将/橋本庄太郎

獣部/部員/獣少佐/富満行夫

獣医部/部員/同  /佐藤亮太

獣医部/部員/同  /小庄千城

獣医部/部員/獣中尉/堤可夫

法務部/部長/法務官/塚本浩次

法務部/部員/法務官/菅野保之

法務部/部員/同  /森近章

軍司令部附/航少佐/下山俊作

軍司令部附/步大尉/等々力龍雄

軍司令部附/軍大佐/小宮山友則

軍司令部附/軍中佐/岡田恒吉

軍司令部附/軍少佐/渡辺□

軍司令部附/郡大尉/大庭七雄

軍司令部附/軍中尉/横山郁郎

軍司令部/通信班/步少尉/鈴木竹次郎

軍司令部/廃棄物収集班/砲大尉/古谷以知郞

軍司令部/廃棄物収集班/步少尉/角田益吉

軍司令部/給水業務/軍少佐/北条円了

軍司令部/給水業務/軍中尉/平野喬治

軍司令部/給水業務/同  /山野内祐次郎

軍司令部/給水業務/同  /岸本茂次郎

軍司令部/郵便業務/事務官/佐々木元勝

軍司令部/郵便業務/同  /山森一雄

軍司令部/郵便業務/同  /長谷川忠治

軍司令部/郵便業務/同  /野崎万三郎

軍司令部/郵便業務/同  /土居昌平

軍司令部/郵便業務/同  /山口房太

軍司令部/郵便業務/同  /武永正人

軍司令部/郵便業務/同  /藤田彌平

軍司令部/郵便業務/同  /横井新一

通訳/陸軍文官(四)/神吉三郎

通譯/同   (五)/藤木敦実

備考 一、本表中(瓦)は瓦斯[ガス]を、(暗)は暗号を、(通)は通信を、ケは部内の兼勤を、㋘は中支那方面軍との兼勤を示す。

 

    12月17日  晴 暖かし
 南京城入城式を行ふ歴史的場面を呈す。
 帰路約二千の俘虜の一団に遭ふ。十四、五の子どもあり。

 

    12月18日  曇 寒し
 慰霊祭を行はる。山田旅団は一万五千の俘虜を処分せしが(昨夜より本日にかけ)その中に我将校一、兵一を俘虜と共にMGにて殺されたりと。蓋し俘虜の一団が抵抗し逃亡を企てたるため、混乱の犠牲となりしものなり。大嶋中佐申告に来たる。夕を会食す。

 

    12月19日  晴
 午後1時半より「か」号弾の実射および説明あり、「てなか」弾ともに効果大なり。これを大場鎮付近の攻撃に使用せば効果大なりしならん。

 

    自12月19日
             晴  

    至12月22日

 特記事項なし。

 

    12月23日  雨

 10時出発、軍司令部は南京、首都飯店に移る。

 

    12月24日  曇

 10時より兵団長会議、3時より参謀長会議を行はる。

【教訓】師団長の懇談において16D中島中将は、チャ[ン]コロに対しては予、後備兵にて沢山なりと申述べたるが、認識不足なりと言はざるべからず。その外、自己の体験のみをもつて原理のごとく述べられたるは可笑し。

 

    12月25日  晴

 長中佐、方面軍より帰る。鳳陽への前進は塚田参謀長は困るとのこと。松井大将は軍で適当にやれば宜しからんとのことなりしと伝ふ。方面軍の戦闘序列発令の上は軍が勝手に大本営へ意見具申は困ると云ひをれりと。しかし参謀次長の指示取り消されざる以上、意見の具申は違法ならず。現に方面軍へも同時に報告しあり。

    12月26日  晴

 夜、加藤拾三工[兵]大佐来たる。大槻去る。一時半発、軍司令官とともに南京近郊を見る。江北への補給は輸送船をして浦口に揚陸せしむべきなり。南京側岸の屍体は驚くべし。太平門外またしかり。燃えつつあり。泥[→浥]山[→門]]および富貴山の地下工事は相当のものなり。防空観念は日本より発達しあり。泥[→浥]江門通路上の屍体は酸鼻を極む十字鍬にて堀り返しつつあり。兵の放火の癖、未だに熄まず、厳重に取り締まる要ありと認む。五時帰隊す。

 

    12月27日  晴

 北支10D黄河を渡り済南に迫るとの情報あり、軍司令官は速やかに13Dの一部を鳳陽に出してはと参謀長に語りありしも、軍隊の実情および大局より見てその必要なきを具申す。

 

    12月28日  雨

 記事なし。夕より雪となる。

 

    12月29日  曇

 午後、軍司令官は野戦病院を見舞はる。

 

    12月30日  晴

 16D慰霊祭あり。(参列せず。) 昨夜、南京に居住を許す外国人およびその居住に関する制限を定む。

【7日は蕪湖は爆撃せらる】

 

    自 12月31日 至 1月8日、記事なし。

 

    1月8日  晴

 16Dは1月20日頃より輸送開始を開始し、北支ニ転用せらるべきをもって天谷支隊と3Dとの交代命令を出さる。南京警備は天谷支隊を以て行ふため。しかるに天谷旅団は二月初め上海付近に終結大本営の内命に接したるも、軍命令はその侭てなしたり。事前に方面軍に問合はせしに、当分、天谷旅団は変化なしとのことなりしに、急にこのことあり。

 上級部隊においてグラグラすることは下級部隊は誠に迷惑を感ずるものなり。

 

    1月9日  晴

 賀陽宮殿下へ随行、紫金山戦蹟、幕府山御視察に随行す。原田大佐の講話あり。 

 

    1月10日

 雨花台、中華門の戦跡御見学の両殿下に随行す。 正午、賀陽宮殿下御出発せらる。

 

    1月11日  晴

 13Dは依然現態勢のまま北進の準備をせしむべく軍司令官より指示せらる。蓋しその内に大本営の肚も決まるべしとの理由によるものなり。

 

    1月12日  曇  寒し

 記事なし。

 

    1月13日  曇

 天谷支隊と16Dとの交代命令を出さる。午後、天谷支隊長来部、16Dより申し送りを受く。

 

    1月14日  晴

 松田、長岡、青木3海軍参謀のため送別会あり。

 第2次会にて管理部長の案内にて始めて日本婦人の顔を見る。

 

    1月15日  曇

 安達大佐来たる。第一線の給養は十分と云ふ。

 又 駄馬師団といへども自動車道を必要とすと。西門大街の攻撃は第一線大隊長の独断に依ると。旅団長との電話切れ、連隊長これを許せりとのことなり。銃剣のみにてぐんぐん前途[→進?]せしレコードなるべし。

 

    1月16日  朝

 方面軍の招致によりて午後1時半、飛行機により上海に至る。

1.  13Dは追って鳳陽に前進せしむる筈(松井大将)

2.  津浦線沿?道?に軍の一部を出すことは、目下、意見具申中なり。   独断、軍において前進せざること。

3.  いづれの場合においても13Dを江南に下げざること。

 (予の意見と一致す。)

4.  新政権は順調に運びつつあり。
 夕食を東殿?にて武藤、公平と共にす。

 

    1月17日  曇、雨

 夜9時半出発、飛行機にて帰る。1時間20分を要せり。

 

    1月21日  晴

 天谷支隊と16Dとはその警備を交代せり(午後2時)。

 

    1月26日  晴

 軍司令官より13Dを北方に出す様希望あり。既に4回に及ぶ。よって13Dの自衛上、一度は蚌埠付近の敵を掃蕩するの必要あり、出すことに決心せり。方面軍より文句あることは、これを覚悟したり。軍命令を起案、決裁を受く。

 

    1月27日  晴

 13D北上の軍命令を携へ九時発、飛行機にて□線?に至り連絡の後、三時半帰る。師団としとも大いに喜べり。

 午後7時より□宮において二神少佐、押田大尉の送別会を開き、11時帰る。

 

    1月28日  曇

 13Dの第一線は行動を開始せり。

 

    2月1日  晴

 武藤大佐来寧す。大本営よりの御叱りを持参して。

 軍においては淮河を越えて13Dを遠く徐州方面に出すの意思なし。 ただ 13Dの警備上、淮河左岸に敵を撃退する方、却って従来より警備容易なるものと判断しあり。

 

    2月2日

 本間少将主催、大使館にて英、米、独、伊の4国領時事および書記生等を招待す。特にアリソン米領事のために芸者とダンスし有頂天になりあり。この会を1ヶ月も前に行へば問題は起けらざりしならん。軍参謀長としての動きなきに困る。

 13Dは蚌埠、鳳陽を占領す。

 

    2月3日  雪

 13D右縦隊の1[個]大[隊]は懐遠対岸、左側支隊の主力は上?窑を占領す。ただし師団の計画にもかかはらず敵約六千を西南方、寿夜?方面に逸せしは惜しむべし。

 

    2月4日  雪

 

    2月7日  晴

 上海派遣軍慰霊祭を午後1時より軍官学校裏の小練兵場に行はる。松井大将も来寧せらる。

 夕食は軍司令官招待せらる。

 

    2月8日  晴

 敵兵約一万、先頭をもって午前11時、廬州に達すとの飛行機報告あり、第3飛行団は午後2時よりこの敵を爆撃のため出動す。後備1大隊を13Dに配属す。10日、浦口着のはず。

 

    2月13日  雨

 13D方面、毎日のごとく爆撃せられ、死傷続出す。3D、9D配属の高射砲を2隊、13Dに配属す。江南ノ□ 已に来たる。殿下より廬州作戦を実施せよとの仰せありしも、既に軍の改変命令到着しある今日、状況に合せず。

[完]

「朕は国務大臣に命じて 昭和十四年度 及 臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共に帝国議会に提出せしむ 卿等 其れ克く時局の重大に稽へ和衷審議 以て協賛の任を竭さむことを期せよ」 第74回帝国議会開院式勅語 1939

朕 茲に帝国議会開院の式を行ひ 貴族院衆議院の各員に告ぐ 帝国と締盟各国との交際は益々親厚を加ふ 朕 深く之を欣ぶ 朕が将兵は克く艱難を排して 己に支那の要域を戡定したり 然れども東亜の新秩序を建設して 東亜永遠の安定を確保せんが為には 実に国民精神の昂揚と 国家総力の発揮とに俟たざるべからず 朕は挙国臣民の忠誠に倚信し 所期の目的を達成せむことを期す 朕は国務大臣に命じて 昭和十四年度 及 臨時軍事費の予算案を各般の法律案と共に帝国議会に提出せしむ 卿等 其れ克く時局の重大に稽へ和衷審議 以て協賛の任を竭さむことを期せよ

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朕茲ニ帝國議會開院ノ式ヲ行ヒ
貴族院衆議院ノ各員ニ告ク
帝國ト締盟各國トノ交際ハ益〻親
厚ヲ加フ朕深ク之ヲ欣フ
朕カ將兵ハ克ク艱難ヲ排シテ已

f:id:ObladiOblako:20210824050716p:plain
支那ノ要域ヲ戡定シタリ然レト
モ東亞ノ新秩序ヲ建設シテ東
亞永遠ノ安定ヲ確保センカ爲ニ
ハ實ニ國民精神ノ昂揚ト國家
總力ノ發揮トニ俟タサルへカラス

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朕ハ擧國臣民ノ忠誠ニ倚信シ
初期ノ目的ヲ達成セムコトヲ期ス
朕ハ國務大臣ニ命シテ昭和十四年
度 及 臨時軍事費ノ豫算案ヲ各
般ノ法律案ト共ニ帝國議會ニ提

f:id:ObladiOblako:20210824050818p:plain
出セシム卿等其レ克ク時局ノ重大ニ
稽ヘ和衷審議以テ協贊ノ任ヲ
竭サムコトヲ期セヨ

↑第七十四回帝国議会開院式勅語
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A14110373300
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14110373300、第七十四回帝国議会開院式勅語国立公文書館

原田 熊吉

大使館附武官 兼 上海派遣軍特務部長 原田熊吉

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/10/25/005745

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/01/14/000327

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/10/24/185421

 

司令官や福田さんとお別れしようとしているところへハラタ少将が入って来て、すぐに私たちに安全区を案内してほしいと願い出るので、街を車で一回りして彼に見せる。午後に下関の発電所を訪問することを申し合わせる。あいにく私は午後の訪問者たちを取り逃がす。武器を棄てて私たちの区域に逃げ込んだ元中国兵の一部を、一隊の日本兵が連行しようとするからだ。その逃亡者/難民たちを解放しても、もう戦うことはないはずだと、私は保証する。私たちの委員会本部事務所に帰り着いくやいなや、ボーイが悪い知らせを持ってやって来る。日本兵が引き返して来て、今度は1,300人の逃亡者/難民を拘束したというのだ。私はスマイズとミルズを伴って、再びこの人たちを解放させようとするが、徒労に終わる。彼らは約100人の武装した日本兵に取り囲まれ、縛られて、銃殺のために連行される。

(ラーベの日記 12月15日)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/12/20/232338

 

ウィキペディア 原田 熊吉

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E5%90%89

宮崎 周一 

宮崎 周一(みやざき しゅういち、1895年(明治28年)2月6日 - 1969年(昭和44年)10月16日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は歩兵。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%91%A8%E4%B8%80

 

 宮崎註 岡村将軍は、武漢攻略作戦の秘密保持の関係で、着京されると、九段の偕行社新館最上階に宿泊、四谷の自宅には立寄られなかった。この頃で、私の印象に残っているのは、次の二つである。私は偕行社で将軍と密談した。話題になったのは、出征軍の軍、風紀紊乱の実例と、私が参謀本部幕僚と連絡した事柄、特に武漢攻略の作戦構想についてである。要談が了って私がいろいろ書いた紙片を丸めて傍らの火鉢の上へかざすと、将軍はすぐマッチをすって火をつけて下さった。私は一心同体の気分を強く味わった。

 [以下略]

『岡村寧次大将資料 上巻 ─戦場回想編─』1970年、原書房、p.289

萩原 直之

1939年4月当時、漢口軍特務部 陸軍歩兵大佐

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=off&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E8%90%A9%E5%8E%9F%E7%9B%B4%E4%B9%8B&IS_TAG_S1=InD&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_KEY_S2=&IS_TAG_S2=InD&IS_MAP_S2=&IS_LGC_S2=AND&IS_KEY_S3=&IS_TAG_S3=InD&IS_MAP_S3=&IS_LGC_S3=AND&IS_KEY_S4=&IS_TAG_S4=InD&IS_MAP_S4=&IS_LGC_S4=AND&IS_KEY_S5=&IS_TAG_S5=InD&IS_MAP_S5=&IS_LGC_S5=AND&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2006090105271668519&IS_EXTSCH=F2006083118101851446+F2006083118133052046+F2006090105162460188+F2007102216051859202+F2007102216425659207+F2007102216562559215+F2006090105271368473&IS_ORG_ID=M2006090105271668519

 

1941年12月24日~1943年2月15日 仙台陸軍幼年学校長

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 

 

 

【工事中】岡村寧次『陣中感想録』現代表記 1937.7.13~1945.11.21

1945年の日記から

    11月21日

 本日から鼓楼の日本総領事館の渉外部へ出務することにした。

 私は、北満出動の第2師団長に続き、第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官と歴任し、その間書き留めた陣中所感録は、すでに11冊に及んでいる。しかし今次、連合軍から歴史的文献の輸送を禁止され、日記などもこれに触れるとの申し渡しがあった。甚だ惜しいので、戦史や作戦用兵の事項を除き、所感の一部を抜萃し、陣中感想録として残すこととしたい。また昭和16年から19年に至る日記も、人の往来、自己の行動ぐらいの部分だけを摘記して残すこととし、本日からその作業を始めた。

 註 これら摘記した書類(5部)は幸いに持ち帰ることができ、防衛庁戦史室に寄贈し、多少お役に立っている。

 

岡村寧次大将回想録

靖國偕行文庫 受入番号:80277 図書記号 請求記号:390,281オ、オ


[表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将回想録

            昭和29年6月

            厚生省引揚援護局

 

[内表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将陣中感想録

            昭和29年6月
            厚生省引揚援護局

【偕行社蔵書印】
        寄  平成10年9月28日

        贈  原 四郎 氏

 

[編集者(原四郎?)による註記]

 註

1.本書は昭和13年より大東亜戦争終戦に亘り中国戦線において第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任せられた岡村寧次大将の陣中感想録を終戦後戦地において抜粋·摘記せられたものであって、誤植なきを保し難いが綴込および原文そのままの写しである。

 本書中、日付けの下方の英字符号の意味についての同大将の区分は、次の通りである。

A  戦場における軍紀·風紀

B  統帥(焼却せられあり)

C  統御

D  死生観

E  個人所見、他人評

F  日華関係

G  共産党関係

2.岡村大将軍歴の概要は次の通りである。

明治37,11 任 陸軍歩兵少尉

同         補 歩兵第1連隊補充隊附

明治38, 4 補 歩兵第49連隊附、

          日露戦役出征

明治43,12 陸軍大学校入校

大正 2, 8 補 歩兵第1連隊中隊長

大正 4, 2 補 参謀本部部員

大正 8, 7 補 兵器本廠附

大正11, 2 補 歩兵第14連隊大隊長

大正12, 3 補 参謀本部部員

昭和 2, 7 補 歩兵第6連隊長

昭和 3, 8 補 参謀本部課長

昭和 4, 8 補 陸軍省補任課長

昭和 7, 2 補 上海派遣軍参謀副長

昭和 7, 4 任 陸軍少将

昭和 7, 8 補 関東軍参謀副長

昭和10, 3 補 参謀本部第2部長

昭和11, 3 任 陸軍中将

同         補 第2師団長

昭和13, 6 補 第11軍司令官

昭和15, 3 補 軍事参議官

昭和16, 4 任 陸軍大将

昭和16, 7 補 北支那方面軍司令官

昭和19, 8 補 第6方面軍司令官

昭和19,11 補 支那派遣軍総司令官

 

A.戦場における軍紀·風紀

    昭和13.7.13(上海)

 中支戦場到着後、先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所によれば、従来、派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺するの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪·強姦多数ありしことは事実なるがごとし。最近湖口付近において捕獲せる中国将校は、我らは日軍に捕へらるれば殺され、後方に退却すれば督戦者に殺さるるにより、ただ頑強に抵抗するあるのみと言えりという。

 上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、待遇必ずしも適良といい難し。

 予は討蔣愛民(註)の標語を設け、まつろわぬものは誅せるも、無辜の良民には仁慈をもってするの方針を立てたるも、右のごとき悪習に染まりたる部下将兵の統率には今後困難すべしと思う。断固方針を遂行せんのみ。

 〔註〕中国軍の骨幹は蔣介石直系軍にして、他の地方軍は戦力著しく劣るゆえに、この蔣直系軍を討滅するを主眼とせざるべからず、次いでの主眼は愛民にありとの、予の定めたる標語なり。

 

    昭和13.7.18(潜山)

 第6師団長稲葉中将は公正真率の士なり。自己師団の精神的欠陥を反省、指摘して曰く、「戦闘第一の主義に徹底し勇剛絶倫なるも、掠奪·強姦等の武徳損傷を軽視す。団結心強きも排他心強く、配属部隊に対し自己部隊と同様に遇するかごとき推量に乏し。云々」と。

 

    昭和13.8.6(九江)

 外国権益尊重は我が政府の屢〻声明し、軍においてもこれを下達し来たりし所なるが、未だ将兵に徹底せず、九江においても平然として英人所有家屋に宿営せるものあり、米人所有家屋に就宿せんとする連隊あり憲兵の制止により中止せり。本日、英米艦長等が我が承認の下に九江に上陸実視の結果、彼等の公私権益が大体維持せられあるを満足したる由なるが、憲兵の監視なかりせばその結果あるいは没常識のものありしならん。

 8.3記述の対外観念欠乏の一証なり。

 

    昭和13.8.3(九江)

 本日までに予の観たる日本軍将兵の精神的欠陥、概ね左のごとし。

(A) 掠奪·強姦等、神武精神に反する者なお後を絶たず。

(B) 事変の性質を弁えず、俘虜、良民に対しても敵意を有し、これを愛するの念に乏しき下士官·兵少なしとせず、予の方針たる愛民の実は挙がらず。

(C) 官物尊重心薄く、兵器·資材の欠損·放棄多く、携帯天幕は半年位にて破損、使用不可能となり、防毒面は枕代用とするため久しからずしてその機能を失う。

(D) 露営を厭い、家屋に入るを欲す。

 (A) (B) は我が国民が依然島国根性にして、国際観念、対外思想に貧弱にして、大陸発展の基礎性格の未完成を示すものなり。満州支那等における不良邦人の徒なる優越感もこれを証す。また (C) は国民性の従来よりの通弊たる公共道德の低劣なることを示すもの。(20.11.21追記、島国に閉じ込められたる日本人は今後益々島国根性となるべし。)

 

    昭和13.8.18(九江)

 本日、吉本参謀長が対岸巡視の結果によれば、小池口付近における台湾混成旅団(波田支隊)原田大隊は風紀紊乱し掠奪·強姦少からず、甚しきに至りては、付近村長を集めたるときその被服を奪い、これを着用して強姦せし者あり。また飛行場建設工事に従事中なる村長の妻娘を輪姦せしため、村長憤りて飛行場建設工事に一頓挫を来せることさへあり。飛行場工事苦力賃のあたまをはねしものもあり、九江にある兵にして窃かに渡江して対岸に到り暴状を働くものもあり、予の方針たる討蔣愛民の標語は到る処に揭けられあるも、その実は挙がらず。

 是において予は参謀長と協議し九江にある憲兵全部を対岸に派遣し、犯人を悉く逮捕して軍法会議に附せしめ、かつ九江特務機関の主力をも渡江して宣撫工事の立て直しをなさしめたり。

 

    昭和13.8.23

 五十嵐憲兵隊長来訪して曰く、小池口に於ける上等兵以下3名の輪姦事件を取調べたる所、娘は大いなる抵抗もせず、また告訴もなさざるにより申[→親]告罪たる強姦罪は成立せざるをもって、不起訴となすべき意見を述ぶ。軍法務部長も同一意見なり。

 予はこれに対し言を励して曰く、「強姦罪が申[→親]告罪なるがごときことは予もまたこれを知る。然れどもこれ平時内地における場合を予想せるものにして、戦場においては深く省慮せざるべからず。そもそも吾ら軍人は神武精神に徹するを要す。神武精神は戦場における軍人行為の根本たるべきものにして、断じて法律の上にあり。また被害者は後難を恐るるかゆえに、銃剣の前に心ならずも申告を敢てせざるなり。憲兵は須らく被害者の心情を洞察して申告せしむべし。しかして犯人は厳重に処分すべし」と。吉本参謀長も全く同一意見なり。南京攻略以来、いかに我が皇軍が愛民の徳を失いつつあるかを知り得べく、痛憤に堪えざるなり。名は聖戦というも、神武精神を失いたる聖戦いずくにかある。憲兵、法務官に至るまで大局的の神武精神を失しあり。

追記 15年2月、予は内地に帰還し、阿南陸軍次官に対し、強姦罪親告罪たるを改め戦地強姦罪(申[→親]告に関係なき)を設くべき意見を述べたるに、正義の士たる阿南次官は直ちに同意し、改正に着手すべきを約したり。その後、予の北支在任時代、陸軍刑法改正を見、戦地強姦罪制定せられたり、この間、実に2年を要したるは驚くべき不熱心と謂うべし。

 本日、予の宿舎に隣接せる丘阜に第九師団の部隊来たり、露営せるを見るに、先般、同じ場所に宿営せる波田支隊と比較し、北陸兵と南九州兵とかくも違うものかと驚く。すなわち後者は戦闘には頗る勇敢なるも、駐留間における軍風紀不良、掠奪·強姦少からず、背囊は遠く鎮江に残置したるまま、携帯天幕を背負袋に代用せるため、破損して雨露を凌ぐの用をなさず、防蚊帽は大部分破損、若しくは放棄し去りたれば、宿営は民家に入るを要し、しからざれば露天なり。

 しかるに前者は出征日数は後者より大なるも、軍·風紀、平時と大差なきまでに厳粛にして、修繕の跡正しき天幕を張りて露営し営中静粛·整然たること、また出発の行軍も整々たること等、到底前者の比にあらず。指揮官の措置によること勿論なるも、南九州と北陸との民情の差大なるを思う。

 戦場心理としては明日をも知れぬ命なれば、軍·風紀の厳粛を欠き、幹部もまた統率厳格ならず戦闘第一主義となり、犯罪を犯したる者も戦功ありたりとてこれを看過する悪習を生じ易き一般状態なるが、この間、依然として森厳なる軍·風紀を維持しある軍隊はまことに貴しというべし。

 

    昭和13.8.30

 6Dは剛勇、敵陣中にも轟き、その将兵の態度は厳然として敬礼も正しく、我が国最精鋭の一つなるには相違なきも、強姦罪の多きには困ったものなり。

 稲葉師団長、牛島旅団長等もこれが取締りに苦心しあり。兵の行衛不明の多くは、我が幹部の眼をのがれて付近の村へ女あさりに往きたるもの多しとのこと。またまず放火して人を騒がせ、しかして婦女子を求むるなど、悪辣の犯罪すらありとのことなり。

 同師団は30余名のいわゆる慰安婦を跟随せしめあり。慰安婦の跟随などは日露戦役時代には無かりしものなり。第1回上海事変の際、予は軍参謀副長たりしが、海軍の例に做[→倣]い慰安婦を設け(恐らく陣中公然これを設けたる最初ならん)、爾後、強姦罪皆無となりて喜びたることありしが、今の軍隊は慰安婦を同伴してなおかつ強姦罪少なからずいう有り様なり。慰安婦は第6師団に限りたることにはあらず、他の兵団も多くはこれを用いあり。

 本事変勃発後間もなく、満州にて聞きたる所によれば、北支の中国古老は団匪事件において歐米各国軍隊の掠奪·強姦·暴行の限りを尽くしたるに反し、独り我が日本軍が軍紀森厳·風紀粛然として秋毫も犯すところなきを感嘆·敬服せしことありしに、今次事変勃発後の日本軍将兵の行動は別人の感ありと嗟嘆する者ありとのことなり。

 

    昭和13.9.22

 憲兵報告に蚌埠における中国婦人(40歳)との問答の一節あり。曰く、

中国兵は掠奪するも強姦せず、日本兵は掠奪せざるも強姦す。可否いずれにかあらん。頼みとするはただ天主教会の神父あるのみと。

 日華両国民提携の前途は遼遠なり。宣撫工作を壊るものは日本の不良兵なり。
 

    昭和13.9.26

 憲兵総合報告によれば、刑罰の種目中、最も多きは上官暴行と強姦なり。しかして犯人の年齢別を見るに、33歳の者、最多数なり。この年輩の者は勿論、既教育兵なれば、その現役時代の軍隊教育不適当なりとの譏りを免れざるべきも、その軍を離れてすでに年久しきことにより推せば、社会の罪もまた免れざるべし。蓋し社会より召集せられて直ちに戦場に来たりしものなれば、軍の罪としてよりも国民の罪としてより反省するの要あり。

また甚だしきに至っては惨虐行為の写真を家郷に送付せるもの頻々これあるがごときは真に狂気の沙汰、神武の冒瀆というのほかなし。最近来陣せる中村軍務局長の言う所によれば、内地郵便局にて郵便法違反として没収せるこの種写真はすでに数百枚に達しありという。人の知らぬことを得意になって言ひたがる一種の好奇心はまた国民性の一つなり。批判好き、噂好きの性向もこれに同じ。誤れる自由主義の浸染、国民教育、社会教育の根本的改善を要すべし。

 

    昭和13.9.28

 戦地における郵便行囊の未回収総数四十万箇に及び、野戦郵便の配達に困難し、かつ新製にも至難なる旨、通牒あり。郵便は陣中最大の慰藉なりと称されながら、戦地各部隊の不仕末かくのごとし。

 公共心乏しき国民性の暴露、ここにも現わる。

 

    昭和13.10.2

 将兵の言動を観察·総合し、日露戦·北清事変当時に比し精神的に低下したりと思はるる点、概ね左のごとし。

 而して将兵の全部に近き大多数は非現役にして、召集後、直ちに出征したる者なれば、この事は軍隊の罪といわんよりは、むしろ国民の罪なりと断ぜさるを得ず。事実において刑·懲罰の大部は召集者なり。

(イ) 上官に対する服従心衰えたり。

   (犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道德の低劣。

   (強姦、慰安婦随伴)

(ハ) 公共心欠乏は元来の穴点なるが、益々甚だし。
   (貴重なる兵器を一寸の破損で遺棄し、これを修理補修機関へ送付せざるもの多し。他隊の馬を盗むこと流行。前送恤兵品等の途中紛失多し。)

(二) 幹部にして横領、収賄等の罪を犯すもの少なからず。

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺すの悪風あり。

 右の原因にも色々あるべきも、個人主義·自由主義の思想が悪用せられて国民道義が低下し、それが戦場にも反映したることが最大原因なりと思う。

 明治維新以来数十年にして一等国の斑に列し得たるは、欧米文化の輸入も確かにその一原因には相違なきも、余りに急ぎたる進展に伴い、輸入思想の弊害、その我が国情に適合せざるる部分をも咀嚼に暇なくしてこれを鵜呑みにし、我が伝統精神のごときは棚の上に放置したるの感なきに非ず、上世我祖先が輸入文化を克く咀嚼し我が伝統精神と融合せしめたるに比し、大いに劣れるものありと思う。

 政治道德、選挙道義を篤と呑み込ませずして選挙形式を作り、普通選挙を急ぎたるため、選挙を売品化せし嫌いなきや。

 性道德を重視せずして徒らに恋愛の自由を賛美せざりしや。対国家道徳、対家庭道徳においては、日本人は世界に冠絶するも、社会道徳、社会訓練においては大いに劣れり。社会的統制あり、社会的秩序あり、社会的組織ある所にデモクラシーを叫ぶは可ならんも、これなくして徒らに形式的にデモクラシーを強調せし学者·識者果たしてなかりしや。(20.11.24再記、本項は終戦後、今の内地の状況に対しても同一の感を懐かざるを得ず。)

 我が伝統精神を唱道する者といえども単に島国日本の優秀性を强調するのみにして、日本ならびに日本国民の欠陥を反省し、八紘一宇の大眼目の下に他民族愛慈を重視して子弟を教訓せしや否や。

 伝統精神、慣習、家族制度、米食、人口過剰等の我が特異性を顧みることなく、一向に輸入学問に基づきて政治、経済、文化を世界的に塗りつぶす傾向なかりしや。

 しかれども戦場にて視れば君国に対し、家庭に対し、郷土に対し、戦友に対する道義に至りては幸いに往時に比して決して低下しあらざるを認む故に、躍進日本はこれ等輸入思想と伝統精神とを再検討し、国民教育を改善し、社会教育を確立し、国民の自粛·自戒と国民道義の一大刷新とを必要なりとす。

 

    昭和13.10.10(第11軍司令部)

 星子の兵站司令官、友清大佐の言によれば、同地付近の村長連名にて殺戮、強姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請し、これら条件容れらるれば他の要求にはすべて応ずへき旨、嘆願書を提出せりという。誠に憐むべし。

 同方面へ憲兵を急派、取り調べしめたる所によれば、すでに強姦約二十件ありて犯人未検挙。たまたま強姦現行直後の者を捕えたるに、その所属隊長は該犯人が歴戦者なるを理由として寛大の処置、釈放を請いたりという。統率厳正ならさる幹部少なからず、後方部隊、老兵部隊はことにしかり。

(20.11.24追記)当時はかくも甚だしく强姦·掠奪等行われたり。畢竟、南京攻略後暴行事件の余波なり。しかして予が極めて厳格に取り締まりたるため、翌年頃よりは漸減せり。また二、三年後は南北を通し全軍この点については面目を一新し、事件は稀に発生せしのみ。これが重大の原因は、軍紀刷新の効果といわんよりも、むしろ下士官兵の素質が老兵は皆無となり、現役兵ならびに若年の補充兵に改善されたるに存す。すなわち前者は、前に述べたる如く、個人主義旺盛の時代に成人したるものなるに反し、後者は満州事変勃発以来、潜在せる神武精神が国内を風靡せる時代に成人したるものなるを以てなり。

 然るに物には利害はつき物にして、一方においては満州事変を契機として軍国主義は盛んとなり、民主·平和の思想が低下したることは事実なり。終戦後の現在、連合軍の必要を越えたる統制指導により、内地にてはまたも再転して軍国主義の絶滅、民主主義の彌漫を見るに至れり。共産党の横行さえも公然行はれあり、この風潮は、一面、当然のこととも思はるるが、前記、戦場に反映せる国民道義の変遷──日清、日露、北清戦時代最良、支那事変勃発時代最不良、その2~3年後やや良──につきて深省し、国民思想の急激なる変転に伴う余弊を発生せざらんことに、政府も国民も大いに留意するの要あるべし。

 

    昭和13.11.4

 今日までの総合観察によれば、三十五、六才以上の老兵は戦意必ずしも強からず、二十七、八才以下の現役兵·補充兵は勇敢なり。これが原因として予の見る所、左のごとし。

前者は、

成人時代にデモクラシー、自由主義、民主主義の流潮に浴し、朝野を挙げて国際主義に堕し、大陸発展など意に介せざりし時代に人と成り、すでに妻子を養い専らその家庭に引かれ易し。

後者は、

国体明徴運動以来、満州事変に伴い、日本精神に蘇み返り来れる時代に人と成り、未だ無妻なるか、または一、二人の児子あるも、意気旺盛なり。

 また非違行為の大部分が三十四、五才の者なることも右と併せ考うべきことなり。

 一両日前、武昌にて某兵站自動車中隊の兵某等は、閉鎖しある外国人家屋に墻を越えて浸入し、家具を掠取せる事件あり。同中隊長を取り調べたる所によれば、入城前夜しばしば訓示を与えたる由なるも、なお監督不十分の罪を免るること能わず。

 国民の対外観念に乏しきこと既述の通りなるが、ここにも一例を示せり。

 

    昭和13.11.19

 諸情報を総合するに、我が軍将兵にして敵に捕へられ、その捕虜收容所に週容せられある者、相当多数に上ること確実なり。多くは負傷者なるも、健全者もまた少からざるがごとし。
 俘虜の多きことも昔の戦役時代に比し異る所なるが、さらに思想上昔時と異ることは、捕へらるるも我が軍の内情等一切言明せざりしものが、現時俘虜となれる者は我軍の編成、位置、指揮官等を平然と述べて、法律上のいわゆる利敵行為を敢てする者、少なしとせざること、これなり。欧米思想の浸潤をここにも見る

 俘虜を濫りに殺す悪傾向は、予の累次に亘る厳飭といわんよりも、部隊自身が弱兵の背囊や荷物を運搬せしむるの必要上、大機動後の今日は俘虜を同伴する傾向に転じ来たれり。形而上的に覚醒せしにあらずして、形而下的の必要より生じたるなり。


    昭和13.11.20

 漢口占領当時、支那人および外国人は、南京攻略時の我が軍大暴虐より推察して、我が軍の暴行を予期せしが、案外に軍紀厳肅なりしかば、民心、大いに安定せり。しかるに入城後2~3日にして第6師団その他に強姦事件2~3発生し謡言次いで起こり、市中、不安を招きたるは遺憾とする所なり。

 予は、武漢入城に際しては極力兵力を減少し、漢口に入れたるは第6師団の2大隊のみ。また第6師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも、1年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず。燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。

 被害者の多くは外人宣敎師の許に遁れて再難を防ぎたるため、これら外人より我が憲兵に告訴し来り、事件は世界的に喧伝せられるべし。予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み、改めてこれら非行厳戒の旨を訓示せり。

 

    昭和13.12.29

 戦場における公共心の欠乏、自分さえ良ければ他隊の迷惑など構わぬという利己的風習の横行少からざるはすでに述べたるが、なお最近におけるこれが実例を挙ぐれば左のごとし。

(イ) 馬盗多し。馬数欠乏すれば暗夜に乗じて他隊の馬を掠めるは、尋常茶飯事となれり。第2軍司令部にありては、軍司令官宮殿下の御乗馬正副二頭もまた盗まれ、厳に捜索中なるも未発見。軍紀全軍中最も厳然たる第9師団さえその馬廻嶺付近より他に転戦するに際しては第106師団の馬数頭を持ち去れり。甚だしきに至りては、兵力を以て馬監視兵を脅威して他隊の馬を強奪せるものあり。

(ロ) 小包、補給糧食品等の抜き取り多し。

(ハ) 通信隊は電柱に一本毎に「日本軍用」と札を掲げて、もって他隊の盗用を防ぎあるは、その例少なからざればなり。

(ニ) 警備体制に入りて以来、各部隊は宣撫愛民の必要上、自己分担区域内においては必要以上樹木抜採を慎しみあるも、一たび機動によりて他隊の区域に入る場合には遠慮なく樹木を採し、両部隊間に葛藤を生する例多し。

 要するに戦友愛は狭義的には美事なるも、広義的戦友愛には乏し。我が国民性の反映なり。

 

    昭和14.3.1

 米国のラッド博士は日露戦争後来朝し、華族会館において演説したる際、日本国民が戦時において発揮したる特質として、嘆賞すべき左の四点ありと指摘せり。

1. 勇気、殊に銃後の勇氣

2. 戦争に対する細心の準備

3. 国民全般の節制

4. 敵に対する寛容の精神

 右観察は当時に於ては概ね的中しあり。しかるに今日は如何。すなわち、

1は概ね変化なきも、多少の低下を認めざるを得ず。

2は準備不十分。

3節制はいかがかと思はる。

4この精神は大いに低下せり。


    昭和14.5.20(漢口第11軍司令部)

 5月17日、国民学校長団体、戦場訪問に来り、請はるるままに「戦場にて観たる国民精神」として、左の要旨を語る。

 内地にては、我が将兵が戦死に臨み、従容として天皇陛下万歳、日本帝国万歳を三唱すと一般にいわるるが、事実においては日本帝国万歳など叫ぶものはなく、ただ天皇陛下万歳のみなり。平時においては天皇陛下万歳も日本帝国万歳も同しことなるが、戦死の場合には必ず天皇陛下万歳のみなることを、深く認識せざるべからず。我が将兵はいよいよ総攻撃に向かうという前日には、郷土の父兄、校長さんらに最后の手紙を認め、戦前の一とき試みに今何を考へありやと問はば、郷里のことを考えありとほとんど全部は答う。しかして激戦の渦中に投ずれぱ最早郷土もなく家もなく、兵はただ上官を仰ぎ、上官はただ兵を視、夢中になって戦い、敢えて他事を思わず。しかして敵弾に中りていよいよ戦死に臨むや、自己に最近きものの代表たる天皇陛下の万歳を唱え、満足して死に赴くなり。

 右は日本人の血液に潜在せる伝統思想にして、科学的理論をもっては説明し得ず、国体明徴のごとき理論を戦わすよりも、この厳然たる一事実を再認識すれは足るなり。
 戦闘において我が将兵が勇敢にして、死を見る[ママ]帰するが如き精神を堅持しあることは、以前の戦役時代と毫も異らず、この点はあまり教育·指導せずとも心配なしと思わるる程なり。

 しかれども戦場に反映する国民道義に至りては、遺憾ながら、以前の戦役時代に比し著しく低下し来たりたることを認めざるを得ず。掠奪强姦の犯罪は昔はほとんど無かりしが今は頻々たり。まつろわぬ者は誅し、まつろう者は慈しむという神武以来の大精神は影を没せんとす。口には聖戦といい、八紘一宇というも、事実は神兵たるの実、毫も上がらず。敵は反抗する敵軍隊にして、住民は我が友とすべく、否、我が友とすべきための戦なりと言はるるも、この住民を虐ぐる行為に出づる者、比々たり。

 依然たる島国根性なり。大陸日本たるの精神的用意なくして、またこれが準備教育なくして、大陸に出動し来たりし将兵であり、居留民であるのである。

 昔からいわるる公共道德の欠乏は今もなお国民性の欠陥なり。否、却ってその程度を増加しあり。以上の悪傾向は軍隊内の事なりといえども、兵の大部分は郷土より直ちに出征せる召集者なれば、右のごときは軍隊の罪といわんよりも国民の罪なることに注意されたし。

 以上のごときはそもそも如何なる原因に出づるや、軽々に判断すべからずとするも、国民思想、国民教育にたずさわる人士の大いに考慮すべき問題なりと信ず。また我が国民の美点を助長する教導よりも、むしろその欠点を矯正し、かつ大陸雄飛準備の教導がさらに必要にならずやと考う。(後略)

 

    昭和14.5.6[ママ]

 前項に述べたると同様、小学校長団(前回は東部、今次は西部)来訪せしに由り、ほぼ前回と同じ説話を試みたるが、ただ前項美点の部分は少しく補正する所ありたり。即ち左のごとし。

(イ) 忠死の件、前に同じ。

(ロ) 協戮一体

 将と兵と一心同体、互助の精神強く現はることは平時と遥かに差異あり。その一例を挙ぐれば、漢口北方長軒嶺という部落にありし某部隊は郷土慰問演芸の到着を楽しみありしが、この当日の数日前、付近に敵の来攻あり、これが撃退に出動し、戦死者四名の遺屍を携えて当日帰還し来たりしところへ、慰問団到着す。部隊長は右の事情を述べて一旦は慰問演芸を謝絶したるが、暫くして戦死者に対し、生ける者に対するやうに謂って曰く、「お前達もこの慰問団を待ち焦がれていたのだから、矢張り行なって貰う」と。すなわちかねて準備せる粗末なる急造舞台にて慰問演芸を催したり。「永らく演芸に従事しあるも、死骸の前にてこれを演じたるは始めてなり」と慰問団の人々より後日、涙ながらの述懐を聴きたり。

(ハ) 誠意に徹したる虚言は多し。

 出征将兵は軽傷、病院等は家郷に報せずして、健全服務中なる旨を報す。家郷はまた近親の不幸等は出征者に報せず。互いに虚の吐き合いなり。尊き虚なる哉。顔容変調あり、受診を勧むるも、病なしと虚りて作戦目的地到達までは頑張る者、少なしとせず。

 右校長団にして帰国後予に礼状を寄せ感謝し来たりし者、僅かに1名のみ。
 

    昭和14.6.12

 前北平駐在AP特派員ハンソンがネーシヨン紙上に投稿せる記事の一節に、

支那人が遊撃隊として戦いおるは、国家を救うためにあらずして、彼らの村を自衛するためなり。自分は昨1938年の末に4ケ月間、北支ゲリラ隊とともに過ごし、何百人という者になぜ戦うかを訊ねたるに、せの答えは同じタイプのもので、例えば、

 自分の穀倉が掠奪された

 自分の村では女か强姦された

 牛が日本兵に掠奪された

といふがごときものなりき。

 もし日本軍が当初より人民の生命財産につき慎重なる注意を払ったならば、戦争の全過程は変わったものとなっていたであろう」

とあり、右の結論は全然、予と同一意見なり。もし我が軍にして民心把握を大作戦の計画実行と同様、否な、それ以上に重視して励行し来たらんには、事変は既に解決の緒につきありしやも知れずと思う。

 予は討蔣愛民を標榜し、聖戦本義に徹すべく部下を戒飭し来たれるも、未だ狂瀾を既倒に回すこと能わざるを深く恥ずるものなり。

 

    昭和14.6.16

 数日前来訪せし鹿児島県国民学校長連5名に対し、前述小学校長団に対して述べたると同様のこと、殊に中堅壮年者の道義の低下を申せしところ、彼らは共鳴して曰く、国民学校教員にありても大正7~8年ごろ風靡せしデモクラシー思想の青年で師範学校を卒業せし年輩の者どもが、現下、教員として最も不適当なる思想を持しありと。

 我が陸軍士官学校においても当時、一般世態の影響にや、一時、軟教育を行ないて失敗したることあり。

 要するに右の件は日本全般の国民思想上の問題なり。

 

    昭和14.6.30

 戦場においては、明日をも知れぬ生命観の下に人間性の実態を暴露し、従って我が国民思想の反映を観察するに便なり。

 以前の戦役時代と現時代と戦場における将兵の思想·道義にいかなる差異ありやは、すでにしばしば述べたる所なるが、さらに要点を総合比較すれば左のごとし。

(イ) 旧に比し優れる点

 文化の水準高くなりしにより、勇敢性のほか独断性の発達を見る。すなわち作戦に際し機宜の動作を敢行し、戦機を看破して独断、敵の一角に突入して功を奏し、地物を利用し潜行して我が突撃を妨ぐる敵の側防機関を奪取する等、下士官兵の活躍、見るべきものあり、これらは昔の下士官兵には極めて稀なるところなりき。統制下の自由主義の貴むべき一場面とも見るべし。

(ロ) 昔時に比し劣れる点

 既述の諸点(略)

 而して「不怖死」の忠誠心に到りては昔時に比し今の兵隊の方が少しく劣る感あるも、大体この点は民族性の美点として変化なしと断定し得べし。

 しからば一体、昔の兵と今の兵といずれが優れりやという問題に移ることとなるが、具に戦陣の実相を究明して結論すれば、今の兵は服従心、持久力、戦場内務において劣るも、個人戦力は優秀なるをもって、兵の強さにおいては大体、大差なきものと思う。されども勇敢性、剛毅性等の「狭義的强さ」においては、今の兵は昔の兵にやや劣るものありと認めらる。ことことは地方的性格上より見るも、東北兵、九州兵はやはり比較的強いと謂えるに似たり。

 

    昭和14.7.10

 七月号「文芸春秋牧野伸顕伯の松濤閑談の一節に曰く

 日本海海戦の済んた後、国際学士院委員会会長プロフェッサー、シューズという人大喜びでやってきて曰く、「日本の日露戦争における働きというものは実に予想以上にして、明治天皇は実に御偉い御方なり。欧米はキリスト教で愛が道徳観念の基になっているも、今後は日露戦争の経験によって愛のみでは不可。愛国心、パトリオチズムといふものを、少し今後の教育に浸み込ませなければならぬと考えさせられる。しかし自分はなお考えるに、日本はまだ封建時代より余り年数が経っておらぬから、日本の文武の指導者も献身的精神が極めて旺盛なることを示されたが、将来日本が物質的に一層の向上を見た暁には、この日本人の伝統的の志気、愛国心といふものがそのまま働くだろうか。物質的の進歩のためにそういうものが幾分、鈍るのじゃなからうかというようなことも考えさせられる云々」と。

 右観察の適否を現戦場において観るに、すでにしばしば述べたるがごとく志気、愛国心の点においては幾分、鈍った感はあるが、昔時と大差なしと認定し得るも、これら徳目と同等の価値を置くべき対住民道徳律においては、物質的進歩のために(多分それが最大原因ならん)大いに低下したと嘆ぜざるを得ず。

 

    昭和14.7.18

 去月中旬、我が南京総領事館において支配人ボーイが宴会開始の間際、酒の中に毒薬を投じて逃走し、これかため主客に死病者を出したる事件発生せしが、該ボーイが逃走先の上海より南京総領事に充てたる書信に、「自分は永年、日本総領事館に勤め、親切に取り扱われ感謝しあるものなるが、南京攻略戦のとき自分の家族らが強姦·暴行を受け、恨み骨髄に徹し、当日、日本軍司令官が来客中にあるを知りて報復せしものなり」云々とあり。

 

    昭和14.8.22

 神武天皇は御東征、大和に入らせ給ふに際し、国つ神をも天つ神とともに合祀せられ給えり。先住民族に対する差別感を持たせ給わざりしことを拝察すべし。また皇軍に抵抗したる饒速日命が一たび降伏するや、これを御許しになり、御親兵として採用せられ給えり。物部氏の先祖、すなわちこれなり。

 神皇功后の新羅征伐や、豊太閤の朝鮮役における戦地民心把握の制律は、聖戦本義の遵守と見るべし。

 中国の歴史を観るに、清の太祖[→ホンタイジ]は錦州招[→松]山の役に於て大いに明の大軍を破り明将洪承疇を捕へたるが誠意を以て之を説服し、後、大いにこれを用いて利あり、その他、清軍は不焚不犯不敎[→殺]の禁令に徹し、政治面に於ても多くの明人を登用し、民心を宣撫して王業を樹立せり。

 後漢光武帝前漢末の諸将を降し、赤心を推して人の服中に置きしかば、諸将も遂に心服して帝を補け、大業を成立せしめたり。

 また唐の太宗は至誠以て民心を把握し、王業燦として、白楽天をして即不独善戦善乗寺以心感人人心帰と詠はしむるに至れり。

 然るに今次の事変出兵は如何。民を敵とせず聖戦なりといいながら、民心把握に関する大経綸なく、伝統の神武精神も没却せられたり。大業の成り難き、宜なりと謂うべし。

 

    昭和14.11.23

 忠君は日本人の信仰なるの一例。歩第十三連隊某上等兵の手記の一節に曰く、「自分は何時も立哨する前、必す東は何方かと見廻し、暫く瞑目すると妙に心がせいせいする様だ。自分は信仰とては無いが、出征約二年これを続けて来て、東を拝することが信仰となつた。そして持場に立哨するときは、ここが墓場だ、いつも美しく潔めて置こう、そう心に決めてから、いつも陣地は清潔にしていた。云々」と。彼はその戦死に臨み、気息奄〻戦友に請い、東を拝ませて呉れ、俺は万歳を叫ぶぞとて、遂に瞑目せりという。


    昭和15.1.7

 来支那人居留民悪徳例(軍に跟髄せしもの)
 漢口にては勝手に支那商店を占拠し、その所有者帰還に際して保存料として多額の金を捲き上げ、あるいはせの金看板を隠し置き、三百元を受けて返戻せし者あり。

 上海虹口にても勝手に支那商店に浸入占拠し、一、二百円の雜作をなし、所有者帰来に際し数千元の雑作料を請求せし等の不法者少からず、各地にて恣に支那人住宅に入り込み、家主帰来後、極めて低廉なる家賃にて強制的にそのまま永く居住を継続せし者あり。

 かかる徒輩多くして聖戦本義に徹せんとするも得べからず。

 

    昭和一四、一一、一八

 新聞雑誌や内地より来訪せる人士の言を総合するに、内地における社会情勢裏面、概ね左のごとし。

(イ) 農村は一般に緊張しあるも、大都市においては戦時的緊縮を見ず。

【p.34→】

 百貨店、娯楽場、花柳界等は却って殷賑を極む。

(ロ) 経済統制物價価統制等により国民生活は相当窮屈となりしも、闇取引盛んにして、国家よりも自己の利に汲々たる奸商横行す。

(ハ) 戦争すでに二年半を経、財界、知識階級の内部には厭戦気分漸く盛んとなり、当局の事変解決能力を疑い、ノモンハン敗戦のデマと相俟って反陸軍風潮、漸く台頭し来たる。

(ニ) 国民の自主的結束運動は起こらず、国民精神動員の成果も挙がらず、政府が事の真相を国民に知らしめざるため、国民として協力の法無しと非難する者多し。

(ホ) 欧州戦勃発後の対外政策について、表面上はいまだ白紙状態なるも、裏面、底流としては英米接近を可とする伝統派と、ソ連と結んで事変を解決するに努むべしとする派と、独伊枢軸と合併せんと欲する派と、それぞれ対立しあり。

(ヘ) 各界、特に政界に卓越したる人物なく、内外情勢の緊迫に際しこれを打開すべき目途立たず、政治の現在ならびに将来を悲観する者多し。

 予ら第一線人として、まず下より盛り上がる国民の総団結を切望するものなるが、これなくしては困ったものと思う。

 

    昭和15.1.19

 満州事変以来、国民の表裏言論を通観するに、国民性欠陥の一つとして「批評好き」「当局者にけちをつけたがる」の弊あるを認めざるを得ず。而かもその批評は破壊的・悲観的にして、建設的のものなし。満州建国の際のごときも前途悲観の言論批評滔々たる有り様なりしも、事実、立派に建設せられたるにあらずや。

 本月号文芸春秋の「話の屑籠」の一節に、

最近海外から帰ってきた知人の話に、日本ぐらい新聞や雑誌が内閣のアラ捜しをやる国はないだろうといっていた。内閣がいくら変わってもそんなに有力内閣の出現しそうもない現状では、現在の内閣を支持鞭撻して事変の解決に当たる方が国策に順応する道ではないだろうか。事変中に内閣が幾度も変わることは、それ自体、日本の弱体を世界的にさらけ出すことではないだろうか。

とあり実に同感なり。


    昭和15.1.20

 上海渉外係、宇都宮中佐の報告によれば、最近上海において我兵の欧米人殴打四件に上り、対米折衝に悪影響を及ぼしありと。漢口においても数日前、我が歩哨が些々たる事にて日本留学出身の市政府建設局長を殴打し、同局長を憤慨せしめたる事件の発生あり。

 右は言語の不通、風俗習慣の差異等、多少斟酌すべき余地なきにあらざるも、要するに我が兵の国際観念の欠乏、神武精神の忘却によるものなり。第1回上海事変においても、毎日のごとく上海において我が兵の第三国人に対する不法事件起こり、我らをして日本兵は国際都市に駐屯するの資格なしと嘆ぜしめたることを回想す。

 そもそも軍隊の外征または邦人の海外進出に際しては、何を措きても神武以来の仁慈精神、敵国人愛撫、対第三国人心得等を十分に教育すること緊要なり。

 

【p.37→】
    昭和一五、二、二五(漢口㐧十一軍司令部)

 一昨廿三日師団参謀長会同の際某参謀長の報告に「縱令戦闘上の必要に基きたりとは云へ家屋を焚きたる土地にありては其后如何に宣撫に努むるも其効無く之に反し家屋を焚かす略奪强姦など皆無宣撫愛民の行き届きたる地方に在りては敵の攻勢作戦時と雖も住民は我に対する好意を続け我必要なる物資の運搬等手伝つてくれたり而して前者の場合には敵襲に際し住民は敵に通して作戦上我に不利を来せしこと勿論なり、今更ながら軍司令官の愛民方針を遵守すへき必要を痛感せり云〻」と

 昨廿四日某兵団に到りインテリ兵の感想談を聴く其結言に曰く斯くの如く戦つた一ケ月を顧みますと実に感慨無量であります純白なる雪に浄化された兵隊の心は戦友を思ふ涙ぐましい友情のみてありました私は一兵であります兵なるが故に総てを支へてゐる一分子であると思ひます厳粛なる使命の前には尊く逞しい日本人てあると思【p.38→】ひますどんな逆境にありとも出来ぬことはない神必す吾等を助け給ふといふ自信に似た信念を植え付けられた氣が致します 辛いとか悲しいとか嬉しいとか云ふ感情は無く唯一つの任務を終へますと心の底より湧き出る微笑を禁し得ませんでした幼稚な満足感かも知れませんがこれに十分満足していましたと

 

昭和一五、七、一二(東京)

 最近の某日東京駅にて出征兵を見送る二十数名の一団が軍歌を唱ひ萬歳を叫んで其行を壮んにする光景に接す然るに之を囲繞目撃する二、三百の民衆の態度は宛かも街頭の見世物を観るが如く唯見物するのみにして萬歳にも和せず軍歌にも加はらず眞に別世界の人間然たり、知らぬ顔の半兵衛なり、我国民性の缺陥たる公共道德社会道義の缺乏を如実に見せつけられたり

【p.39→】
    昭和一七、六、六(北京北支那方面軍司令部)

 頃日熟ら思ふに批判好き噂好きは実に日本国民性の欠陥の一つなり新聞雜誌は良い点のみ揚けあるは戦時なるが故に余儀なきことなるがそれ丈裏面に於ては事の眞相は斯〻なりとか、総理大臣の私行は斯〻だとか内地より来る旅行者の云ふ所は悉く一致しあり現地に於ても実相に通せさる者が知つたか振りに暗黒面のみ旅行者に語りて得〻たる有様なり斯くして内地のこと現地のこと悉く批判のために批判し噂は噂を生み広く伝播せられ為に国民の志氣は昂らぬといふ次㐧なり

一年此方来訪者の云ふ所は予に対し閣下には近く新京に御榮転の由と洩れ聞きたりとか南京御転任内定確実なりとか云ふ類のもの多し誠に片腹痛きことなり

批判は進歩に役立つものなるか故に批判殊に建設的批判は可なり然れとも批判せんがための批判、破壊的批判は取らさる所なり人誰か落度無からん、此国家の重大事に個人のことを一〻穿鑿するが如きは大国民の態度にあらず少しは抱容を必要とす批判にのみ傾けは対立を生す【p.40→】抱容に失すれは不公正になる大乗佛敎の平等即差別、差別即平等の理に倣ひて批判即抱容、抱容即批判の域に達せんことを必要なりと考ふ

本月廿五日毎日新聞に左の記事あり

十八春大行作戦の従軍を終へて太原に引上けるときのことある二等乗客が「さあ此列車はいつ太原へ着くかな、全く東潞線は乗つたら最后汽車任せだからね」から始まつて脱線は御手のものだとか、最后には歩いた方が早いとか云ひ出した、すると隣に雜誌を読んでゐた若い下士官が頭を上げて「そんなら歩いてお出てになつたらどうですか、この東潞線を日夜匪賊から守るために自分の戦友も死にましたし何人となく戦死者を出したことでせう、あまり悪口は云へないと思ひます」と静かに語つたそばに居た記者も内心はたと膝を打つた(中略)

悪口を言つた乗客はすぐ席から立つて「誠に相済まぬことを言ひました」と心から詫びて廻つてゐたが、その態度は実に立派だつた、汽車に乗るにも皆んな斯ういう事実を胸に秘めて感謝の氣持て乗る【p.41→】ならば旅は一段と明朗になるだらう

右と同類実例は枚挙に遑あらず

 

    昭和一九、六、六(北京北支方面軍司令部)E

 予は今次河南作戦開始后間も無く隷下に対し特に洛陽附近の古代文化を保護尊重すべきを命したるが戦后の視察に依れは洛陽城外の古蹟たる白馬寺、竜門石佛、古憤[ママ]等はみな無事なりしも洛陽城其者は敵将か我降伏勸告に応ぜず激戦を交へたる結果大破壊を蒙りありたり

 

    昭和一九、八、二五(北京北支方面軍司令部)A

 北支三年内地より来りし邦人より聞いたり新聞雜誌記事等を綜合するに今次大戦に於て暴露せられたる国民性の缺陥として指摘すべき点既に述へたると同様なるが再言すれば左の如し

(イ) 個人道德、家族道德は立派なり最近隣組組織に基つく隣組道德も先つ立派なり然れとも依然として大衆の構成分子としての道德は【p.42→】不良なり路傍の人に対する同胞愛は頗る薄し汽車電車内等に於ける公衆道徳は不十分なり闇の横行毫も改まず、国家の存亡を前にして自利を計るに汲〻たる者多し
(ロ) 噂好き批判好きの悪弊は依然たり小磯内閣成立し一時之を謳歌したるも忽ちにして木炭車内閣、短命内閣と噂す、此内閣を極力助けて国難を打開せんとする熱意あるもの極めて稀なり
(ハ) 鍊成ということ流行するも(予の意見)、鍊成とは日本精神の再鍛錬を目的とするが如く、若し日本人にして児童時代其儘の精神思想ならんには再鍛錬の必要なき道理にて汚れたるものを洗濯することあり即ち鍊成とは思想刑務所とも云ふへくか〻ることを表面堂〻乃至は自慢らしく表白するは寧ろ恥辱なりと思ふ

 

    昭和一九、一一、一〇(漢口第六方面軍司令部)A、E

 予の漢口着任後、隷下指揮下部隊の軍紀、風紀上の失態頗る多きを聞きしが、その状態は支那事変勃発以来の通弊的非違を繰り返しあるものなる【p.43→】に由り、単なる訓示にては効果少しと思ひパンフレツト式標語式の訓示を印刷配布して座右に揭け毎日読誦せしむることとせり即ち左の如し

 統集団司令官五訓

一、 撃米愛民に徹し焼く犯す殺すを三戒とせよ

二、 衛生軍紀を守れ意到らすして病むは不忠なり

三、 行衛不明は最大の恥辱なり兵器を喪い鞍傷を作るも亦恥と知れ

四、 德義は無形の戦力なり友軍部隊には情誼を尽せ

五、 資材弾薬を愛護節用せよ、強き部隊には無駄弾なし

 

    昭和二〇、九、一八 (南京総司令官)

 環境の激変に際会して暴露せらせるる日本国民性の缺陥とも云ふへきことを此頃考へさせられる

(イ) 日本国民は統制ある軍隊と雖も環境の激変に際してはパニツクの感受性相当大なり先月十五日乃至十七日内地陸軍に於ては米軍直に上陸し来るとの謠言盛んに起りて一大パニツクとなり大本營の【p.44→】衛兵憲兵等数百名は勝手に解散し(其大部分は后日帰来す)省部各課員はあわて〻極秘機密書類を焼きたる為後日復員等の為に必要なる兵籍等までをも消失す此パニツクが如何なる範囲に及ひしやは明らかならさるも確実に其影響を受けたるは㐧六航空軍なり即ち同軍参謀は急遽各地部隊に飛んて復員解散を命したるに由り騒きは一層甚しくなり将兵は勝手に自動車を操縱して帰郷し糧食被服の大量を同時に持去りしものもあり、飛行機の部分品を盗み出せるもののもあり各部隊は自然に解散し飛行場の機能は停止せられ一部堅確なる部隊長は敢然として耺に留まりしも其耺を続くること能はず、要するに航空軍なるものは命令に基かずパニツクに基きて自然に復員するに至れり
海軍側に於ても一部此パニツクによる自然解散ありしが如し

それにつけても関東震災に於ける所謂鮮人来襲云〻の大パニツクを囘想せさるを得す、当時予は東京戒厳司令部参謀なりしが九月二、三日頃より鮮人武装蜂起来襲の謠言横浜方面に起り忽ち関東【p.45→】一面に伝播して一大パニツクとなり東京市民は全く無秩序無統制となりめいめい勝手に武装し最寄の鮮人を捕へて殺傷し街頭到る処交通遮断して拔き身の刀を提けて夜警に当るといふ状態を予は目撃せり

世田ケ谷の市民は大挙して同地野砲兵旅団長を訪問し多摩川方面に対し鮮人拒止威嚇の目的のために空砲を発射し以て人心を安んせんことを迫り旅団長は再三拒絶したるも民衆の暴動的要求に堪へす遂に空砲を空射せり、然るに世田ケ谷附近の人心は是に由りて一安心したる代りに青山方面の人心は此砲声を聞いて鮮人来襲の謠言の眞実化となり騒ぎは一層甚しくなりしなり

軍部に於ても右の外立川航空隊の連絡将校が陸軍省に出頭して八王子方面より来攻する鮮人部隊に対し防禦するため兵隊の急援を眞顔にて請求するを見たり又習志野に在りし騎兵旅団長は「旅団は市川の線に於て敵を拒止せんとす」といふ作戦命令を下達せること后に至り判明せり

【p.46→】

予は九月四日市中巡視の結果事の容易ならさるを認め意見を具申し翌五日を以て市民の所有する一切の武器を一時警察に取上する戒厳命令を見るに至れり

警視庁は市中の善良なる鮮人二百名余をトラツクに乗せて遠く群馬県方面に避難せしめたるに埼玉、群馬両県境に於て群馬県警察官は県令により鮮人の入県を極力阻止し埼玉県側は東京府よりの転送を主張し荏苒時間を費やしある間、忽ち附近の農村は排鮮人暴動を起し手に手に鋤鍬その他の兇器を携へて此等鮮人を急襲し埼玉県警察官は之を制止すること能はず、激昂したる暴民は次て敵に加担したりとて熊ケ谷警察署を包囲するに至れり当時長野県方面より東京へ転送中なりし部隊の歩兵一中隊は偶〻熊ケ谷駅に達して以上の事実を知]→り急き電話を以て東京戒厳司令部に急報し来りしに由り電話に出てたる予は直に同中隊長に即時下車警察署を急援すへき旨を命したり、本件(詳細省略)は事余りに重大なるに付内務省、司法省と連絡したる上暗より暗に葬ることとせり

【p.47→】

戦場に於ても我軍は戦闘に大敗せること無きを以てパニツクの実例はなきも小パニツクは屢〻其例を見たり「敵襲」云〻のパニツクが暗夜部隊を混乱に陥れたる如きことは少しとせす

(ロ) 次に今次終戦に際する居留民の淺ましき態度に就きては数限りなく見聞きする所なるか今日までに知得せる主なる事項左の如し

(A) 満州より数百の居留民南京に引揚け来り金子に困るとの事なりしに由り総領事館より計数億元の儲備券を支給せしに此等居留民は内地へ送金手続開始と聞くや銀行、郵便局に殺到せり、持つてゐながら持たぬと言ふ者淺ましき者多し

(B) 軍より約三ケ月分の糧食其他を居留民に交付せしに之を市中に賣却せし居留民あり、現に上海虹口に於ては中国人にして街頭に我陸海軍需品たること明瞭なる物品を鬻くもの少なしとせすと云ふ

(C) 上海、南京の一流料理店に今尚ほ日本人の出入りする者相当あり、酔餘俗歌を高唱する故の如し、中国人中に日本人の誠意なきを【p.48→】罵るものあるは無理からぬ次㐧なり

(D) 最近上海の街頭にて傲然たる某日本人の態度を米兵に発見せられ裸にされて着用衣服を見物の中国人に頒与せられたる事例あり

(E) 在上海財界老先輩にして親日家たる周善培はその信頼せる某邦人に漏らして曰く終戦となるや日本の中小会社社長連 陸続として来訪しその会社を予の名義に書き換えて運営を継続し利益は之を折半せんと申し込む者多きも予は悉くこれを謝絶せり多年親日を標榜する予も今日ほど日本人を見下けたることなし云〻と

(F) 北京方面には邦人にして重慶側先遣の参謀、小役人等に運動して残留の耺を求め中には従来の我軍の措置を非難してまて中国人の甘心を買はんとするものあり

(G) 張家口を急遽撤退の際我公使館員は最先に脱出し而かも天津附近終結后尚ほ營業中なりし日本料理店に連夜此等館員が思[ママ]出したりとて引上居留民は大いに憤慨し形勢不利となり此等館員雲隠【p.49→】れするに至る

(H) 南京民団の相談所に来る居留民の相談事項は悉く利己一点張のことのみにして此際一銭にても損をせざる方法を相談に来るもののみなり之がため同所当局は聊か愛想をつかして誠意も乏しくなり又相談申込の居留民側は当局が不親切でありと罵り見苦しき泥仕合を演しあり

(I) 南京某妓楼主は商賣止みたりたりとて四名の妓を街に放逐し此際一食分の携行も許さず、忽ち路頭に迷いし妓等は総領事館、民団に泣付きたるもあまり相手にせられず乞食同様となるとの投書あり

(J) 航空会社南京出張員は終戦と共に会社の大型機にて家族、家具等を内地に運ふに専念し公務を怠りたり而して出張所宿舎建物を引払ふ最后の夜は痛飲放歌、借家なる家屋を破壊せり

(K) 南京居留民の一部 鉄道により上海へ引上げの際並残りの居留民全部か下関集中營へ移転の際の状況を見聞きするに公共道德は【p.50→】零にして「自己さへよければ」の態度に出つるも比〻として皆然り

 

    昭和一三、九、二七(㐧十一軍司令部)

 㐧百六師団か先般德安西方馬鞍山附近に於て優勢なる中国軍に包囲せられ悪戦苦闘し多大の損害を生したるが戦場掃除の結果に依るに孤立全滅せる我歩兵一中隊の将兵の遺骸は中国軍の手に於て武装其儘鄭重に埋葬せられ将校の軍刀も其儘納められありたり、近く我と対 戦続行中此措置に出てたる中国軍の東亜道義は敬服すべきものあり

満州事変長城戦后古北口附近に於て我歩兵㐧十七聯隊は中国軍将兵の遺骸を鄭重に葬り中国将士之墓と表示し置きたるが後年中国軍某旅長は現地に至りて其部下の遺骸に対する日本軍の好誼に感激し当時既

に内地に帰還せる歩兵㐧十七聯隊を遙々と秋田に訪ひて其好意を感謝せることあり、双方とも其行為嘆賞すへし

【p.51→】

    昭和一四、二、二〇(㐧十一軍司令部)

 十月初㐧二十七師団が箬渓附近占領の際敵郵便物を押收点檢したるに其将兵の家族知友に充てたる親書の内 容は我日本軍の状況、一死報国の覚悟等を述ぶるもの多く私事に亘るものは少かりきといふ、又今次大㐧百一師団に反攻し来りし敵将兵戦死者の遺骸に就き其家郷よりの来信を檢したるに父母が出征者を激励し国家民族の為に勇奮死に就くへきことを諭ふること我軍と異らすといふ

中国人の国家愛に就いて決して侮るへからすと考へさせらるるものあり

追記

一、「敗戦原因は結局誤られたる敎育にあり」「国民に何の欠陥もなし悪い軍閥に誤られたる也」などと云ふも事は爾く単純なるものにあらず敎育も軍閥も関係なき本質的欠陥に胚胎するなり

二、日淸戦役、日露戦争に於て我軍が東[ママ]紀森厳なりしことは英国宣敎師の「奉天三十年」に記述する所なり

【p.52→】

三、明治三十三年華北義和団事変に於て毆州諸国の軍隊か軍紀を紊して掠奪暴行至らざるなき醜態を示した間に独り我軍のみは秋毫の犯す所なく常に仁慈親愛の態度を以て中国の一般民衆に臨み彼等の衷心からの感謝をかち得たことは多くの外国人の実見に成る記述其ものが明白に立証する所なり(ウイール著淸見記[ママ]、北京落城)

四、北淸事変実見記(歐米人の手に成れる)多き中に代表的のものはB.L.Putnam Weale の Indiscreet Letters from Peking. George Lynch の The War of the Civilisations.

五、右前者の著者序に曰く、ヨーロツパの兵士等による北京掠奪の迫眞的な容赦なき描写は鉄の統制力にして一たび弛緩せんかすべての軍隊が陥る にきまつてゐる軍紀の頽敗を示すものであり(中略)軍事警察の絞架にしてすぐさま立てられない限り掠奪はそれに伴ふ凡ゆる暴行と共になほ兵士等の無上権として認められてゐることを思はずにはゐられないだらう

同しく曰く動乱の最后の一幕─全的な北京の掠奪─の描寫は、いかに【p.53→】劫掠への欲望があらゆる人間を有頂天にさせるものであるか、さうしてそれと手を組み合つて根こそぎの凌辱や殺戮の如き恐るべき行為へと人〻を駆り立てるものであるかを明確に示すものである

「右淸原陸郎訳 北京籠城下巻を読む要あり」

六、日淸戦役に於ける一例

大山㐧二軍司令官は軍紀の振肅に深く注意を払ひ、初めて遼東半島に上陸するや土民に対する略奪禁止の戒告と共に徴発心得十箇条を全軍に発し一面敵国民を綏撫する為には漢文の告諭を掲示し旅順口占領后は直に行政庁を置いて規則を発し更に施米規則を定めて窮民を救恤する等

 

【p.54→】

    昭和一三、七、一四(南京㐧十一軍司令部)C

 戦場に於ける人と人との折衝は㐧一印象か大切なり、平時に於ては㐧一印象か不良にても時を経るに従い互に性格を知り合い諒解を深めて却て親密になることもあるも、否な日本人間にては斯くの如き場合の方か多く且貴はれている程なるも戦場に於ては必しも然らず、それも同一司令部内、同一部隊内に於て起居を共にする間柄なれば概ね右と同一ならんも、上下各司令部耺員、他隊の者に対しては一たび会見して相ふれたる后は電話、電報や稀に会談する位なれは若し㐧一印象が不良なればそれか先入主となり容易に諒解に進み得るものに非す公務の折衝も円滑に行かさることとなる、㐧一印象は大切なりと云ふ所以なり

我等の上級司令部たる中支那派遣軍司令部主脳者が新しく動員して戦場に来れる我㐧十一軍司令部に対する心構えは右に述べたる点に於て敬服すへきものあり即ち我等上陸の㐧一歩にて戦務倥偬たる幕僚幹部の大部は予等を出迎へて「待つていました」と誠意ある態度を示し、【p.55→】「岡㐧何号」と貼紙せる自動車四輛を準備し派遣軍司令官畑大将以下に面会しても同じく誠意を以て懇切に談してくれたり

予は右の趣を直に予の部下幕僚に告け之を将来見做[→倣]うへきを命したり

 

    昭和一三、八、二五(九江㐧十一軍司令部)C、E

  部下や他人の働らきの眞相を公正に認むるということは活眼と経験とを要するものなり、昨日波田支隊より瑞昌を占領せる旨電話報告ありて、我幕僚は右に関する上司への報告案を特に予の決済を仰きしに来りしにより元来予は事務上大綱主義を秉り公文書などに筆を加えたること皆無に近きにも拘らず「波田支隊は㐧九師団の一部と協力し」と十一字加筆せしめたり、蓋し波田支隊に続いて㐧九師団か前進し一週間前より瑞昌附近の攻撃続行中にして既に波田支隊は瑞昌附近の要点たる某東方高地並北方高地を攻略したるを以て一小城瑞昌の占領の如き問題になすに足らさるも現時の通弊として㐧一線将兵も銃後の国民も兎角都市占領を重大視し一番槍部隊などと喧伝せられ相当の影響を及ほす状況に在り、又電話直通の便ある波田支隊の報告に隣接㐧九師【p.56→】団の活動を併述して来らざるは日本軍の日露戦争以来の惡習の一つなりとも認めめ[ママ]られさるに非すと思い加之㐧九師団の担任方面のことなども考えてかく修正せしめたるものなり

 然るに後に至り果して瑞昌城は㐧九師団歩兵第三十五聯隊の一部が占領したることを確認せり

 人の働らき殊に二人以上の同一目的に対する働らきの真相を究むるということは人の上に立つ者として必要にして且困難なることなり

 

    昭和一三、九、七(九江㐧十一軍司令部)C、E

 予は聯隊長時代以来部下運に惠まれ大故無く昇進し来りて今日に到りしが、此間統御の骨(コツ)に就て多少会得したる所ありと信す、部下が醉余の直言、その感謝の辭や或は間接に予の耳に入れる所を綜合し自惚れながら大体に於て今日まで到る処部下の信頼を贏ち得たりと確信す、

右に関して予の統御上に於ける体験を追想し尚ほ他人の言動や読書修養に依りて得たる所等を綜合し統御上必要なる性格、德目を挙けて今後の参考となさば左の如し

【p.57→】

(一) 廣量 

部下の言を容れ、其立案は細部に干渉せず

(二) 忍耐と恕

但し人事に関しては時として細部に注意を要す

(三) 誠意と熱情

感謝の念、同情思い遣り、人の和を重んず、

公私の別を明らかにす、率先苦樂を共にす

(四) 明朗闊達

(五) 決断と勇氣

(六) 対局に立つ識見

部下幕僚は事務多忙を常とするを以て大局を顧みる暇無きか常なり上に立つ者は特に此点に就て修養練磨を要す
 

    昭和一三、九、一二(九江㐧十一軍司令部)

 統御に細部干渉は禁物なることは既に述べたるところなるが、補佐者は事務多忙なるため人情の機微に関することは細部の事と雖も統御に大影響ありといふことに思い及はさるものなり此点に関しては統御者は自ら細部なりとて指示し実行せざるへからす

【p.58】

九江に於ても左の如く既に二、三の例を挙げ得べし

1  遺骨参拝、病院患者の見舞等補佐者の提言を待つていては時機を失すること多し自ら発言するを要す

2  糧秣收蒐補給担当者は現地に於て得たる生野菜、鷄卵等を優先的に病院患者に供給するという同情心に乏しきを指摘せり

3  出張の際必す先つ傷病者を見舞はんとする計画は補佐者の氣着かさること多し
 

    昭和一六、一二、二九(北京北支方面軍司令部)

 一方の部下の為には大に悲しむへき事か起り、他の部下の為には大に祝ふへきことがありと云うようなことが同時に同一場所に生じ悲喜交〻 至るとき如何にすへきやと一寸迷うことのあるは多数の部下を有する者の屢〻 遭遇する統率的悲哀なり、予は屢〻 斯くの如き心的場面に遭遇したるか十二月四日徐州に於ても同様のことを經験せり、

即ち嘗て三たひ予の直接部下たりし楠山少将か昨三日此徐州にて飛行【p.59】機事故の為突如陣沒し本日予は陸軍病院に到りて其英靈を拜し又是日此地に於て櫻井兵団の合同慰靈際ありて之にも列席燒香せしか抑〻此兵団は創設時中支に於て予の隷下たりまた最近は北支に於て予の直属隷下たり 其戦功赫々たるものありて今特に支那戦線を去つて遠く南方に転戦せんとす緣故深き予としては大盃を挙けて其行を壮んにさせるへからさる感情に満つ、さりとて悲しみの本日を避けて祝いを明日に延期することは予の公務上の時間之を許さす、是に於てか予は是日夜櫻井兵団の幹部を招き祖道の宴を設け「我等は暫く戦友に対する悲哀の情を忘れ大に前途を祝うへし」との挨拶をなして愉快に彼らを見送ることを得たり

 

 

    昭和一四、四、二一(漢口㐧十一軍司令部)F

 近来の中国青年思想動向に関し予の見る所左の如し
淸末に於いて独善化、化石化せる儒敎思想は阿片戦争以来歐米物質文明の威力の前に其権威を失し爾後輸入思想の汎濫に彷徨せしか孫文三民主義は一応封建制より資本主義制への移行期に於ける思想の混乱を統一せる観あり

然れども其后国民党は三民主義を適正に運用すること無く専ら排他的民族主義を强調して国内統一の方便となせり此間に乗し㐧三インターは巧みに日本帝国主義打倒の看板を揭けて頭を抬け来れるなり

抗日主義は国民党に於ては幾分の三民主義中の民族主義適用を見るも共產党に於ては党勢拡張の方便として最大の目途を有す

然るに支那事変以来は和平地区に於ては勿論抗戦地区に於ても徒なる【p.80→】排他的民族主義を反省し孫文の大亜細亜主義を囘顧するの傾向となれり重慶に於てすら其同盟国たる英国に氣兼することなく公然東亜民族の解放に関する論議を呈し印度に同情の態度を示すものあるに至れり抗日に徹底せる青年将校の俘虜に就て見るも傲然として抗日の主張を改めさるも事一たび東亜解放の問題に及へは即ち歐米の桎梏より脱し中国の植民地状態を復興すへしという点に於ては我に共鳴するもの比々として皆然り
要するに現代青年は排他的民族主義の旧殻より観念的に禪脱し得さるも東亜解放を意図するの方向を取りつゝあることを看取せられ当分尚ほ思想的混迷を継続すべきか

 

原文:

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/07/135529

極東国際軍事裁判所判決より 南京暴虐と松井石根·武藤章·広田弘毅 1948.11

JUDGMENT

INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST

PART B

CHAPTER Ⅴ

JAPANESE AGGRESSION AGAINST CHINA

極東國際軍事裁判所判決

B部

第五章

日本の中國に對する侵略

SECTION  Ⅳ

FROM  THE  MARCO  POLO  BRIDGE  INCIDENT  (7  JULY  1937)  TO  THE  KONOYE  DECLARATION  OF  16  JANUARY  1938

第四節 蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)から一九三八年一月十六日の近衞聲明まで より

【p.707→】

    THE  ATTACK  ON  NANKING

  When MATSUI was appointed Commander of the Shanghai Expeditionary Forces and left Tokyo for the fighting area, he already had thoughts of pushing on to Nanking after the intended capture of Shanghai.  He requested five divisions for the Shanghai Expeditionary Force before leaving Tokyo. Actual preparations for the advance upon China’s capital were made, for he had previously made a study of the topography in the vicinity of Shanghai and Nanking.  On 8 October 1937, MATSUI issued statement in which he said “the devil-defying sharp bayonets were just on the point of being unsheathed so as to develop their devine influence, and that the mission of the Army was to fulfill all its duties of protecting Japanese residents and interedts, and to chastise the Nanking Government and the outrageous Chinese.”  As the area of hostilities around Shanghai was likely to expand, MATSUI was appointed Commander of in Chief of the Central China Expeditionary Forces.

    南京攻擊

 松井が上海派遣軍の司令官に任命され、戦地に向つて東京を出發したときに、豫定の上海を攻略した後には、南京に向つて兵を進める考えをかれはすでに抱いていた。東京を去る前に、上海派遣軍のために、かれは五箇師團を要請した。中國の首都に對する侵攻のために、現實の準備がなされた。というのは、かれはこれより前に上海と南京との附近の地形の調査を行つていたからである。一九三七年十月八日に、松井は聲明を發して、『降魔の利劍は今や鞘を離れてその神威を發揮せんとしている。また軍の使命は日本の居留民及び權益を保護する任務を完全に果し、南京政府及暴戾支那を膺懲するにある』と述べた。上海の周辺の戰鬪地域は擴大するものと思われたので、松井は中支派遣軍[ママ]司令官に任命された。

  MUTO, Akira, was appointed MATSUI’s vice-chief of staff in late November 1937.  Approximately one month after the capture of Shanghai, the Japanese Army arrived outside the city of Nanking.  MATSUI issued an order to the effect that as Nanking was the capital of China, its capture was an International event and careful studies should be made so as to dazzle China with Japan’s military glory.  The Japanese demand for surrender was ignored by the Chinese Government.  Bombardment started and the city fell on 13 December 1937.  The Japanese Army that entered Nanking was a newly-formed organization, but it was composed of experienced troops. 【p.708→】MATSUI made his triumphant entry on December 1937. From 13 December onward, there occured what has come to be known the “Rape of Nanking” which will be dealt with in a later phase.

 一九三七年十一月下旬に、武藤章は松井の参謀副長に選ばれた。上海が攻略されてから一ヶ月を經て、日本軍は南京郊外に到着した。松井は、南京は中國の首都であるから、その占領は国際的事件であり、日本の武威を發揚して中國を畏服させるように、周到な研究をしなければならないという意味の命令を発した。日本側の降伏要求は、中國政府によつて無視された。爆撃が始まり、同市は一九三七年十二月十三日に陷落した。南京に入場した日本軍は、新編成の部隊ではあったが、經驗のある部隊から成り立つていた。一九三七年十二月十七日に、松井は意氣揚々と入場した。十二月十三日から後に『南京暴虐事件』として知られるようになつた事件がおこつた。これは追つて取り上げることにする。

  On 1 January 1938, a provisional self-governing body was set up, flying the old discarded five-coloured Chinese flag instead of the blue Sky and White Sun which is the official national flag of China.

 一九三八年一月一日に、臨時の自治団体が設立され、中國の正式の國旗である靑天白日旗の代りに、廃止されていた昔の中國の五色旗を揭げた。

↑A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.162)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071272100 63~64/200

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307400 187~188/316

 

PART  B

CHAPTER  Ⅷ

CONVENTIONAL  WAR  CRIMES

(Atrocities)

B部

第八章

通例の戰爭犯罪

(殘虐行爲)

【p.1,011→】

    THE  RAPE  OF  NANKING

  As the Central China Expeditionary Force under command of MATSUI approached the city of Nanking in early December 1937, over one-half of its million inhabitants and all but a few neutrals who remained behind to organize an International Safety Zone, fled from the city.  The Chinese Army retreated, leaving approximately 50,000 troops behind to defend the city.  As the Japanese Forces stormed the South Gate on the night of 12 December 1937, most of remaining 50,000 troops escaped through the North and West Gates of the city.  Nearly all the Chinese soldiers had evacuated the city or abandoned their arms and uniforms and sought refuge in the International Safety Zone and all resistance had ceased as the Japanese Army entered the city on the morning of 13 December 1937.  The Japanese soldiers swarmed over the city and committed various atrocities.  According to one of eyewitnesses they were let loose like a barbarian horde to desecrate the city.  It was said by eyewitnesses that the city appeared to have fallen into the hands of Japanese as captured prey, that it had not merely been taken in orgsnized warfare, and that members of the victorious Japanese Army had set 【p.1,012→】upon the prize to commit unlimited violence.  Individual soldiers and groups of two or three roamed over the city murdering, raping, looting, and burning.  There is no discipline whatever.  Many soldiers were drunk.  Soldiers went through the strests indiscriminately killing Chinese men, women and children without apparent provocation or excuse until in places the streats and arrays were littered with the bodies of their victims.  According to another witness Chinese were hunted like rabbits, everyone seen to move was shot.  At least 12,000 non-combatant Chinese men, women and children met their deaths in these indiscriminate killings during the first two or three days of the Japanese occupation of the city. 

    南京暴虐事件

 一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百萬の住民の半數以上と、國際安全地帶を組織するために殘留した少數のものを除いた中立國人の全部とは、この市から避難した。中國軍は、この市を防衞するために、約五萬の兵を殘して撤退した。一九三七年の十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、殘留軍五萬の大部分は、市の北門と西門から退却した。中國兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨てて國際安全地帶に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいつたときには、抵抗は一切なくなつていた。日本兵は市内に群がってさまざまな殘虐行爲を犯した。目擊者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蠻人の一團のように放たれたのであつた。目擊者達まによつて、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に歸したこと、同市は單に組織的な戰鬪で占領されただけではなかつたこと、戰いに勝つた日本軍は、その獲物に飛びかかつて、際限のない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々に、または二、三人の小さい集團で、全市を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行つた。そこには、なんの規律もなかつた。多くの兵は醉つていた。それらしい挑發も口實もないのに、中國人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散亂したほどであつた。他の一人の證人によると、中國人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られるたものはだれでも射擊された。これらの無差別な殺人によつて、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一萬二千人の非戰鬪員である中國人男女子供が死亡した。

  There were many cases of rape. Death was a frequent penalty for the slightest resistance on the part of a civtion[→victim?] or the members of her family who sought to protect her.  Even girls of tender years and old woman were raped in large numbers throughout the city, and many cases of abnormal and sadistic behavior in connection with these rapings occured.  Many woman were killed after the act and their bodies mutilated.  Approximately 20,000 cases of rape occured within the city during the first month of the occupation.

 多くの強姦事件があつた。犠牲者なり、これを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしぱしば殺されてしまつた。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に關連して、變態的と嗜虐的な行爲の事例が多數あつた。多數の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一ヵ月の間に、約二萬の強姦事件が市内に発生した。

  Japanese soldiers took from the people everything they desired.  Soldiers were observed to stop unarmed civilians on the road, search them, and finding nothing of value then to shoot them. Very many residential and commercial properties were entered and looted.  Looted stocks were carried away in trucks. After looting shops and warehouse, the Japanese soldiers frequently set fire to them.  Teiping Road, the most important 【p.1,013→】shopping streat, and block of the commercial section of the city were destroyed by fire. Soldiers burned the homes of civilians for no apparent reason.  Such burning appeared to follow a prescribed pattern after a few days and continued for six weeks.  Approximately one-third of the city was thus destroyed.

 日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪つた。兵が道路で武器を持たない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラツクで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあつた。最も重要な商店街である太平路が家事で焼かれ、さらに市の商業區域が一劃一劃と相次いで燒き拂われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は燒き拂つた。このような放火は、數日後になると一貫した計畫に從つているように思われ、六週間も續いた。こうして全市の三分の一が破壞された。

  Organized and wholesale murder of male civilians was conducted with the apparent sanction of the commanders on the pretense that Chinese soldiers had removed their uniforms and were mingling with the population.  Groups of Chinese civilians were formed bound with their hands behind their backs, and marched outside the the wall of the city where they were killed in groups by machine gun fire and with bayonets.  More than 20,000 Chinese men of military age are known to have died in this fashion.

 男子の一般人に対する組織立つた大量の殺戮は、中國兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口實で、指揮官らの許可と思われるものによつて行われた。中國の一般人は一團にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機關銃と銃剣によつてそこで集團ごとに殺害された。兵役年齢にあつた中國人男子二萬人はこうして死んだことがわかつている。

  The German Government was informed by its representatives about “atrocities and criminal acts not of an Individual but of an entire Army, namely, the Japanese”, which Army, later in the Report, was gualified as a “bestial machinery.”

 ドイツ政府は、その代表者から、『個人ではなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行爲』についての報告を受けた。その報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

  Those outside the city fared little better than those within. Practically the same situation existed in all the communities eithin 200 li (about 66 miles) of Nanking.  The population had fled into the country-side in an attempt to escape from the Japanese soldiers.  In places they had grouped themselves into fugitive camps.  The Japanese captured many of these camps and visited upon the fugitives treatment similar to that accorded the inhabitants of Nanking.  Of the civilians who had fled Nanking over 57,000 were overtaken and interned.  These were starved and tortured in captivity until a large 【p.1,014→】number died.  Many of the survivors were killed by machine gun fire and by bayoneting.

 城外の人々は、城内のものよりややましであつた。[「ややまし」は誤訳。 “little better” は「ましとは言い難い」「ほとんど変わらない」という意味。]南京から二百中國里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で彼らは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占據し、避難民に對して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで五萬七千人以上が追いつかれて收容された。收容中にかれらは飢餓と拷問に遭つて、ついには多數の者が死亡した。生き殘つた者のうちの多くは、機關銃と銃劍で殺された。

  Large portions of Chinese soldiers laid down their arms and surrendered outside Nanking; within 72 hours after their surrender they were killed in groups by machine gun fire along the Yangtze River.  【p.1,015→】Over 30,000 such prisoners of war were so killed.  There was not even a pretense of trial of those prisoners so massacred.

 中國兵の大きな幾團かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機關銃掃射によつて、かれらは集團的に射殺された。このようにして、右のような捕虜三萬人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の眞似事さえ行われなかつた。

  Estimates made at a later date indicate that the total number of civilians and prisoners of war murdered in Nanking and its vicinity during the first six weeks of the Japanese occupation was over 200,000.  That these estimates are not exaggerated is borne out by the fact that burial societies and other organizations counted more than 155,000 bodies which they buried.  They also reported that most of those were bound with their hands tied behind their back. These figures do not take into account those persons whise bodies were destroyed by burning or by throwing them into the Yangtze River or otherwise disposed of by Japanese. 

 後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の總數は、二十万以上であつたことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の團体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって説明されている。これらの團体はまた死体の大多數がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの數字は、日本軍によつて、死体を燒き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で處分されたりした人々を計算に入れていないのである。

  Japanese Embassy officials entered the city of Nanking with the advance elements of the Army; and on 14 December an official of the Embassy informed the International Committee for the Nanking Safety Zone that the “Army was determined to make it bad for Nanking, but that the Embassy officials were going to try to moderate the action”.  The Embassy officials also informed the members of the Committee that at the time of the occupation of the city no more than 17 military policeman were provided by the Army commanders to maintain order within the city.  When it transpired that complaints to the Army officials did not have any result, those Japanese Embassy officials suggested to the foreign missionaries that the latter should try and get publicity in Japan, so that the Japanese Government would be forced by public opinion to curb the Army.

 日本の大使館員は、陸軍の戦闘部隊とともに、南京へ入城した。日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻擊する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京國際安全地帶委員會に通告した。大使館員はまた委員に對して、同市を占領した當時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によつて配置された憲兵の數は、十七名にすぎなかったことを知らせた。軍當局への抗議が少しも效果のないことがわかつたときに、これらの大使館員は、外國の宣敎師たちに對して、宣敎師たちの方で日本内地に實情を知れわたらせるように試み、それによつて、日本政府が世論によつて陸軍を抑制しないわけに行かなくなるようにしてはどうかといつた。

  Dr. Bates testified that the terror was intense for two and one-half to three weeks, and was serious six to seven weeks following the fall of the city.

 ベーツ博士の證言によると、同市の陷落後、二週間半から三週間にわたつて恐怖[「テロル」と訳すべきか]は極めて激しく、六週間から七週間にわたつては深刻であつた。

  Smythe, the secretary of the Int. Committee for the Safety Zone, filed two protests a day for the first six weeks.

 國際安全地帶委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。

  MATSUI, who had remained in a rear area until 17 December, made a triumphal entry into the city on that day and on 18 December held a religious service for the dead, after which he issued a statement in the course of which he said: I extend my sympathy to millions of innocent people in the Kiangpei and Chekiang districts, who suffered the evils 【p.1,017→】of war.  Now the flag of the rising sun is floating high over Nanking, and the Imperial Way is shining in the southern parts of the Yangtze-Kiang.  The dawn of the renaissance of the East is on the verge of offering itself.  On this occasion, I hope for reconsideration of the the situation by the 400 million people of China”. MATSUI remained in the city for nearly a week.

 松井は十二月十七日まで後方地區にいたが、この日に入場式を行い、十二月十八日に戰歿者の慰靈祭を催し、その後に聲明を發し、その中で次のように述べた。『自分は戰爭に禍せられた幾百万の江淅地方無辜の民衆の損害に對し、一層の同情の念に堪へぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亞復興の曙光將に來らんとす。この際特に支那四億万蒼生に對し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市内に滯在した。

  MUTO, then a colonel, had joined MATSUI’s staff on 11 November 1937 and was with MATSUI during the drive on Nanking and participated in the triumphal entry and occupation of the city.  Both he and MATSUI admit that they heard of the atrocities being committed in the city during their stay at rear haedquarters after the fall of the city.  MATSUI admits that he heard of that foreign governments were protesting against the commission of these atrocities.  No effective action was taken to remedy the situation.  Evidence was given before the Tribunal by an eye witness that while MATSUI was in Nanking on the 19th of December the business section of the city was in flames.  On that day the witness counted forteen fires in the principal business street alone. After the entry of MATSUI and MUTO into the city, the situation did not improve for weeks.

 當時大佐であつた武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この日の入場式と占領に參加した。南京の陷落後、後方地區の司令部にあつたときに、南京で行われている殘虐行爲を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの殘虐行爲に對して、諸外国の政府が抗議を申し込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような效果的な方策は、なんら講ぜられなかつた。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業區域は燃え上つていたという證據が、一人の目撃者によつて、本法廷に提出された。この證人は、その日に、主要商業街だけで、十四軒の火災を目擊した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかつた。

  Members of Diplomatic Corps and Press and the Japanese Embassy in Nanking sent out reports detailing the atrocities being committed in and around Nanking.  The Japanese Minister-at-Large to China, Ito, Nobumori, was in Shanghai from September 1937 to February 1938.  He received reports from the Japanese Embassy in Nanking and from members of the Japanese troops and 【p.1,018→】sent a resume of the reports to the Japanese Foreign Minister, HIROTA.  These reports as well as many others giving information of the atrocities committed at Nanking, which were forwarded by members of the Japanese diplomatic officials in China, were forwarded by HIROTA to the War Ministry of which UMEZU was Vice-Minister.  They were discussed at Liaison-Conferences, which were attended by the Prime Minister, War and Navy Ministers, Foreign Minister HIROTA, Prince Minister KAYA, and the Chiefs of the Army and Navy General Syaffs.

 南京における外交團の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた殘虐行爲の詳細を報告した。中國へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行爲について、かれは南京の日本大使館、外交團の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣廣田に、その報告の大要を送つた。南京で犯されていた殘虐行爲に關して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中國にいた日本の外交官から送られ、廣田はそれらを陸軍省に送つた。その陸軍省では梅津が次官であつた。これらは連絡會議で討議された。その会議には、總理大臣、陸海軍大臣外務大臣廣田、大藏大臣賀屋、參謀總長及び軍令部長が出席するのが通例であつた。

  News reports of the atrocities were widespread. MINAMI, who was serving as Governor-General of Korea at the time, admits that he read these reports in the Press.  Following these unfavorable reports and the pressure of public opinion aroused in nations all over the world, the Japanese Government recalled MATSUI and approximately 80 of his officers but took no action to punish sny of them. MATSUI, after his return to Japan on 5 March 1938, was apointed a Cabinet Councillor and on 29 April 1940 was decorated by the Japanese Government for “meritorious services” in the China War.  MATSUI, in explaining his recall, says that he was not replaced by HATA because the atrocities committed by his troops at Nanking but because he considered his work ended at Nanking and wished to retire from the Army. He was never punished.

 殘虐行爲についての新聞報道は各地にひろまつた。當時朝鮮總督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で讀んだことを認めている。このような不利な報道や、新世界で巻き起された世論の壓迫の結果として、日本政府は松井とその部下の將校八十名を召還したが、かれらを處罰する措置は何もとらなかつた。一九三八年三月五日に日本に帰つてから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戰爭における「功労」によつて叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が殘虐行爲を犯したためではなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隱退したいと思つたからであると述べている。かれは遂に處罰されなかつた。

  The barbarous behavior of the Japanese Army cannot be excused as the acts of a soldiery which had temporarily gotten out of hand when at last a stubbornly defended pisition had capitulated ― rape, arson and murder continued to be committed on a large scale for at least six week after the city had taken and for at least 【p.1,019→】four weeks after MATSUI and MUTO had entered the city.

 日本陸軍の野蠻な振舞いは、頑强に守られた陣地が遂に陷落したので、一時手に負えなくなつた軍隊の行爲であるとして免責することはできない。强姦、放火及び殺人は南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたつて、引續き大規模に行われたのである。

  The new Japanese Garrison Commander at Nanking, General Amaya, on 5 February 1938, at the Japanese Embassy in Nanking made a statement to the Foreign diplomatic corps criticizing the attitude of foreigners who had been sending abroad reports of Japanese atrocities at Nanking and upbraiding them for encouraging anti-Japanese feeling.  This statement by Amaya reflected the attitude of the Japanese Military toward foreigners in China, who were hodtile to the Japanese policy of waging an unrestrained punitive war against the people of China.

 一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少將は、南京の日本大使館で外國の外交團に對して、南京における日本人の殘虐について報告を諸外國に送つていた外國人の態度をとがめ、またこれらの外國人が中國人に反日感情を煽動していると避難する聲明を行つた。この天谷の聲明は、中國の人民に對して何物にも拘束されない膺懲戰を行うという日本の方針に敵意をもつていたところの、中國在住の外国人に對する日本軍部の態度を反映したものである。

    戰爭、廣東と漢口に擴大

 一九三七年十一月十二日に上海が陷落し、松井が南京への前進を始めたときに、蔣介石大元帥のもとにあつた國民政府は、その首都を放棄して重慶に移り、中間司令部を漢口に設置して抵抗を續けた。一九三七年十二月十三日に南京を攻略した後に、日本政府は北平に傀儡政府を設立した。

 この占領地區の住民を『宣撫』し、かれらを『皇軍に賴らしむべく』、また中國國民政府を『反省』させようという計畫は、上海と南京で採用され、南京で松井によつて布告されたものであるが、それは旣定方針を示すものであつた。[中略]

 上海周邊地區の住民の多くは、南京とその他の華北の地方の者と同樣な憂目を見た。上海で戰鬪が終つた後に、上海郊外の農家の焼跡で、農民とその家族たちの死体がうしろ手に縛られて、背に銃劍の傷跡のあるものを發見した目擊者がある。松井の部隊は、南京への進軍中に、村落をあとからあとからと占據して、住民の物を掠奪し、かれらを殺害し、恐怖させた。蘇州は一九三七年十一月に占領され、進擊中の軍隊から逃げなかつた多數の住民が殺された。

↑A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.163) https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/3327729 174~182/299

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307600 170~179/303

 

【p.1,145→】

PART C

CHAPTER Ⅹ

VERDICTS

C部 第十章 判定

  The Tribunal will proceed to render its verdict in the case of each of the accused.

 本裁判所は、これから、個々の被告の件について、判定を下すことにする。

  Article 17 of the Charter requires that the judgment shall give the reason on which it is based. These reasons are stated in the recital of facts and the statement of findings the reading of which has just been completed.  Therein the Tribunal has examined minutely the activities of each of the accused connected in relation to the matters in ussue.  Consequently, the Tribunal does not propose in the verdicts now to be read to repeat the many particular findings on which the verdicts are based.  It will give its reasons in general term for its findings in respect of each accused, such reasons being based on the particular statements and findings in the recital already reffered to.

 裁判所條例第十七條は、判決にはその基礎となつている理由を附すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗讀を終つた事實の叙述と認定の記述との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係爭事項に關して、關係各被告の活動を詳細に檢討した。従つて、本裁判所は、これから朗讀する判定の中で、これらの判定の基礎となっている多數の個々の認定を繰返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に關する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに擧げた叙述の中における個々の記述と認定とに基いているものである。 

 [中略]

【p. 1,185→】

    HIROTA,  Koki
  HIROTA is indicted under Counts 1, 27, 29, 31, 32, 33, 35, 54, and 55.

    廣田弘毅

 廣田は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四で起訴されている。

  HIROTA was Foreign Minister from 1933 until March 1936 when he became Prime Minister.  From the fall of his Cabinet in February 2
1937, for four months he held no public office.  He was Foreign Minister again in the first Knoye Cabinet until May 1938. 

 廣田は、一九三三年から、一九三六年三月に總理大臣になるまで、外務大臣であつた。一九三七年二月に、かれの内閣が倒れてから四ヶ月の間、公職に就いていなかつた。一九三八年五月まで、第一次近衞内閣において、再び外務大臣であつた。[中略]

【1,160→】

  With regret to War Crimes there is no evidence of HIROTA's having ordered, authorized, or permitted the commission of the crimes as alleged in Count 54.

 戰爭犯罪については、訴因第五十四に主張されるような犯罪の遂行を、廣田が命令し、授權し、または許可したという證據はない。

  As to Count 55 the only evidence relating him to such crimes deals with the atrocities at Nanking in December 1937 and January and February 1838.  As Foreign Minister he received reports of these atrocities immediately after the entry of the entry of the Japanese forces into Nanking.  According to the Defence evidence credence was given to these reports and the matter was taken up with the War Ministry.  Assurance were accepted from War Ministry that That the atrocities would be stopped.  After these assurance had been given reports of atrocities continued to come in for at least a month.  The Tribunal is of opinion that HIROTA was derelict in his duty in not insisting before the Cabinet that immediate action to put an end to the atrocities, failing any other action open to him to bring about the same result.  He was content to rely on assurance to bring about the same result.  He was content to rely on assurances which he knew were not being imple-【1,161→】mented while hundreds of murder s, violation of woman, and other atrocities were being committed daily.  His inaction amounted to criminal negligence.

 訴因第五十五については、かれをそのような犯罪に結びつける結一の證據は、一九三七年十二月と一九三八年一月及び二月の南京における殘虐行爲に關するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの殘虐行爲に關する報告を受け取つた。辯護側の證據によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照會されたということである。陸軍省から、殘虐行爲を中止させるという保證が受取られた。この保證が與えられた後も、殘虐行爲の報告は、少なくとも一ヶ月の間、引續いてはいつてきた。本裁判所の意見では、殘虐行爲をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかつたということで、廣田は自己の義務に怠慢であつた。何百という殺人、婦人に隊する暴行、その他の殘虐行爲が、毎日行われていたのに、右の保證が實行されていなかつたことを知つていた。しかも、かれはその保證にたよるだけで滿足していな。かれの不作爲は、犯罪的な過失に達するものである。

  The Tribunal finds HIROTA guilty under Counts 1, 27, 55.  He is not guilty under Counts 29, 31, 32, 33, 35, and 54.

 本裁判所は、訴因第一、第二十七お呼び第五十五について、廣田を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第五十四似ついては、彼は無罪である。

【p.1,180→】

     MATSUI,  Iwane

  The accused MATSUI is charged under Counts 1, 27, 29, 31, 32, 35, 36, 57 54 and 55.

     松井石根

 被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。

  MATSUI was a senior Officer in the Japanese Army and attained the rank of General in 1933.  He had a wide experience in the Army, including service in the Kwantung Army and in and in the General Staff.  Although his close association with those who conceived and carried out the cinspiracy suggests that he must have been aware of the purposes and policies of the conspirators, the evidence before the Tribunal dose not justify a finding that he was a conspirator.

 松井は日本陸軍の高級將校であり、一九三三年に大將の階級に進んだ。かれは陸軍において廣い經驗をもつており、そのうちには、關東軍と參謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを實行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知つていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された證據は、かれが共同謀議者であつたという認定を正當化するものではない。

  His military service in China in 1937 and 1938 cannot be regarded, of itself, as the waging of an aggressive war.  To justify a conviction under Count 27 it was the duty of the prosecution to tender evidence which would justify an inference that he had knowledge of the criminal character of that war.  This has not been done.

 一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戰爭の遂行と看做すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正當化するためには、檢察側の義務として、松井がその戰爭の犯罪的性質を知つていたという推論を正当化する證據を提出しなければならなかつた。このことは行われなかつた。

  In 1935 MATSUI was placed on the retired list but in 1937 he was recalled to active duty to command the Shanghai Expeditionary Force.  He was then appointed Commander-in-Chief of the Central China Area Army, which included the Shanghai Expeditionary Force and the Tenth Army.  With these troops he captured the city of Nanking on 13th December 1937.

 一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復活した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。

  Before the fall of Nanking the Chinese forces withdrew and the occupation was of a defenceless city.  Then followed a long succession of most horrible atrocities committed by the Japanese Army upon the helpless cittizens.  Wholesale massacres, individual murders, 【p.1,181→】rape, looting and arson were committed by Japanese soldiers.  Although the extent of the atrocities was denied by Japanese witnesses the contrary evidence of neutral witnesses of different nationalities and undoubted responsibility is overwhelming.  This orgy of crime started with the capture of the city on the 13th December 1937 and did not cease until early February 1938.  In this period of six or seven weeks thousands of woman were raped upwards of 100,000 peiple were killed and untold property was stolen and burned.  At the highest of these dreadful happenings, on 17 December, MATSUI made a triumphal entry into the city and remained there from five to seven days.  From his own observations and from the reports of his staff he must have been aware of what was happening.  He admits he was told of some degrea of misbehaviour of his Army by the Kempeitai and by Consular Officials.  Daily reports of these atrocities were made to Japanese diplomatic representatives in Nanking who in turn reported them to Tokyo.  The Tribunal is satisfied that MATSUI knew what was happening.  He did nothing, or nothing efective to abate these horrors.  He did issue orders before the capture of the City enjoining propriety or confuct upon his troops and later he issued further orders to the same purport.  These orders were of no effect as is now known and as he must have known.  It was pleaded in his behalf that at this time he was ill.  His illness was not sufficient to prevent his conducting the military operations of his command nor to prevent his visiting the city for days while these atrocities were occuring.  He was in command of the Army responsible for these happenings.  He knew of them.  He had the power as he had the duty to control 【p.1,182→】his troops and to protect the the unfortunate citizens of Nanking.  He must be held criminally responsible for his failure to discharge this duty.

 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であつた。それに續いて起つたのは、無力の市民に對して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい殘虐行爲の長期にわたる連續であつた。日本軍人によつて、大量の虐殺、個人に對する殺害、强姦、掠奪及び放火が行われた。殘虐行爲が廣く行われたことは、日本人證人によつて否定されたが、いろいろな國籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的證人の反對の證言は、壓倒的に有力である。この犯罪の修羅の騷ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占據されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかつた。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万人以上の人々が殺害され、無數の財產が盗まれたり燒かれたりした。これらの恐ろしい出來事が最高潮にあつたときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の觀察と幕僚の報告によつて、かれはどのようなことが起つていたかを知つていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あつたと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に對して、これらの殘虐行爲に關する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起つていたかを松井が知つていたという充分な證據があると認める。これらの恐ろしい出來事を緩和するために、かれは何もしなかつたか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかつた。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に對して、行動を嚴正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかつているように、またかれが知つていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかつた。かれのために、當事かれは病氣であつたということが申し立てられた。かれの病氣は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの殘虐行爲が起つている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかつた。これらの出來事に對して責任を有する部隊を、彼は指揮していた。これらの出來事をかれは知つていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもつていたとともに、その權限をももつていた。この義務の履行を怠つたことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

  The Tribunal holds the accused MATSUI guilty under Count 55 and not guilty under Counts 1, 27, 29, 31, 32, 35, 36 and 54.

 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十ニ、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

【p. 1,185→】

     MUTO,  Akira

  The accused is indicted under Counts 1, 27, 29, 31, 32, 33, 36, 54, 55, and 55.

     武藤 章

 被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。

[中略]

     War Crimes

  MUTO was an officer on the Staff of MATSUI from November 1937 to July 1938.  It wss during this period that shocking atrocities were committed by the Army of MATSUI in and about Nanking.  We have no doubt that MUTO knew, as MATSUI knew, that these atrocities were being committed over a period of many weeks.  His superior took no adequate steps to stop them.  In our opinion 【p. ?1,186→】MUTO, in his subordinate pisition, could tske no steps to stop them.  MUTO is not responsible for this dreadful affair.

     戦争犯罪

 武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで松井の參謀將校であつた。南京とその周縁で、驚くべき殘虐行爲が松井の軍隊によつて犯されたのたは、この期間においてであつた。多くの週間にわたつて、これらの殘虐行爲が行われていたことを、松井が知つていたのと同じように、武藤も知つていたことについて、われわれはなんら疑問ももつていない。かれの上官は、これらの行爲をやめさせる充分な手段をとらなかつた。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかつたのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。 

  From April 1942 to October 1944 MUTO commanded the Second Imperial Guards Division in Northern Sumatra.  During this period in the area occupied by his troops widespread atrocities were committed for which MUTO shares responsibility.  Prisoners of war and civilian internees were starved, neglected, tortured and murdered, and civilians were m assacred.

 一九四二年四月から一九四四年十月まで、武藤は北部スマトラて近衞第二師團を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で殘虐行爲が廣く行われた。これについては武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に與えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。

  In October 1944 MUTO became Chief-of-Stuff to Yamashita in the Philippines.  He held that post until the Surrender.  His position was now very different from that he held during the so-called "Rape of Nanking".  He was now in a position to influence policy.  During his tenure of office as such Chief-of-stuff a campaign of massacre, torture and other atrocities was waged by the Japanese troops on to he civilian population, and prisoners of war and civilian internees were starved, tortured and murdered.  MUTO shares responsibility for these gross breaches of the Laws of War.  We reject his defence that he knew nothing of these occurrences.  It is wholly incredible.  The Tribunal finds MUTO guilty on Counts 54 and 55. 

 一九四四年十月に、フイリツピンにおいて、武藤は山下の參謀長になつた。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる『南京暴虐事件』のときに、かれが占めていた地位とはまつたく異なつていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあつた。職に就いていた期間において、日本軍は連續的に虐殺、拷問、その他の殘虐行爲を一般住民に對して行つた。捕虜と一般抑留者は、食物を充分に與えられず、拷問され、殺害された。戰爭法規に對するこれ等のはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出來事について、まつたく知らなかつたというかれの辯護を却下する。これはまつたく信じられないことである。本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、武藤を有罪と判定する。

↑A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.164)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071272500 12, 47~49, 52~53/215

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 16, 30, 32~33, 52~54, 58/240

 

  Under the Charter the Judgement I have read is the Judgment of the Tribunal.

 本官が朗読した判決は、裁判所條例に基き、本裁判所の判決である。

 [中略]

◯裁判長 極東國際軍事裁判所は、本件の起訴狀について有罪の判定を受けた被告に対して、裁判所條例第十五條チ号に從つて、ここに刑を宣告する

  Accused ARAKI, Sadao, on the Counts of the Indictment on which you have been convicted, the International Military Tribunal for the Far East sentences you to imprisonment for life.

被告 荒木貞夫

被告が有罪の判定を受けた起訴狀中の訴因に基いて、極東國際軍事裁判所は、被告を終身の禁固刑に処する。

 [中略]

  Accused HIROTA, Koki, on the Counts of the Indictment on which you have been convicted, the International Military Tribunal for the Far East sentences you to death by hanging.

被告 廣田 弘毅

被告が有罪の判定を受けた起訴狀中の訴因に基いて、極東國際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

 [中略]

  Accused MATSUI, Insane, on the Counts of the Indictment on which you have been convicted, the International Military Tribunal for the Far East sentences you to death by hang.

被告 松井 石根

被告が有罪の判定を受けた起訴狀中の訴因に基づいて、極東國際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

 [中略]

  Accused MUTO, Akira, on the Counts of the Indictment on which you have been convicted, the International Military Tribunal for the Far East sentences you to death by hanging.

被告 武藤  章
被告が有罪の判定を受けた起訴狀中の訴因に基いて、極東國際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

↑A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.11~昭和23.11.12(第49497~49858頁) https://www.digital.archives.go.jp/img/3273826 369~370/376
↑A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決) https://www.digital.archives.go.jp/img/3339692 118/135

[以下参考資料]

ANNEX NO. A−5
JUDGMENT
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST

CHARTER
OF THE INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST

附屬書A─五 極東國際軍事裁判所條例 より

SECTION Ⅱ
JURISDICTION AND GENERAL PROVISION

第二章 管轄及ビ一般規定

  ARTICLE 5.  Jurisdiction Over Persons and Offenses.  The tribunal shall have the power to try and punish Far Eastern war criminals who as individuals or as members of organizations are charged with offenses which include Crimes agenst Peace.  The following acts, or any of them, are crimes coming within the jurisdiction of the Tribunal for which there shall be individual responsibility:

  第五條 人並ニ犯罪ニ關スル管轄

本裁判所ハ、平和ニ對スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ團體員トシテ訴追セラレタル極東戰爭犯罪人ヲ審理シ處罰スルノ權限ヲ有ス。

左ニ揭グル一又ハ數個ノ行爲ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ屬スル犯罪トス。  

  a. Crimes against Pease:  Namely, the planning, preparation, initiation or waging of a declared or undeclared war of aggression, or a war in violation of international law, treaties, agreements or assurances, or participation in a common plan or conspiracy for the accomplishment of any of the foregoing:

(イ) 平和ニ對スル罪 卽チ、宣戰ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戰爭、若ハ國際法、條約、協定又ハ誓約ニ違反セル戰爭ノ計畫、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行爲ノ何レカヲ達成スル爲メノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ヘノ參加。

  b. Conventional War Crines: Namely, violation of the laws or customs of war.

(ロ) 通例ノ戰爭犯罪 卽チ、戰爭ノ法規又ハ慣例ノ違反。

  c. Crimes against Humanity:  Namely, murder, extermination, enslavement, deportation, and other inhumane acts committed before or during the war, or persecutions on political or racial grounds in execution of or in connection with any crime within the jurisdiction of the Tribunal, whether or not in violation of the domestic law of the country where perpetrated.

(ハ) 人道ニ對スル罪 卽チ、戰前又ハ戰時中爲サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行爲、若ハ犯行地ノ國内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ屬スル犯罪ノ遂行トシテ 又ハ之ニ關聯シテ爲サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行爲。

  Leaders, organizers, instigators, and accomplices participating in the formulation or exsecution of a common plan or conspiracy to commit any of the foregoing crimes are responsible for all acts perfirmed by any person in exsecution of such plan.

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ參加セル指導者、組織者、敎唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上爲サレタル一切ノ行爲ニ付、其ノ何人ニ依リテ爲サレタルヲ問ハス、責任ヲ有ス。

  ARTICLE 6Responsibility of Accused.  Neither the official pisition, at any time of an accused, nor the fact that an accused acted persuant to order of his government or of a superior shall, of itself, be sufficient to free such accused ftom responsibility for any crime with which he is charged, but such circumstances may be considered in mitigation of punishment if the Tribunal determines thst justice so requires.

  第六條 被告人ノ責任

何時タルヲ問ハズ被告人ガ保有セル公務上ノ地位、若ハ被告人ガ自己ノ政府又ハ上司ノ命令ニ從ヒ行動セル事實ハ、何レモ夫レ自體右被告人ヲシテ其ノ起訴セラレタル犯罪ニ對スル責任ヲ免レシムルニ足ラザルモノトス。但シ斯カル事情ハ本裁判所ニ於テ正義ノ要求上必要アリト認ムル場合ニ於テハ、刑ノ輕減ノ爲メ考慮スルコトヲ得。

↑A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.164)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071272500 第103~104画面

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 第109~110画面

 

ANNEX NO. 6
JUDGMENT
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST
INDICTMENT

付属書A─六 起訴状 より

    GROUP  ONE:  CRIME  AGAINST  PEACE.
  The following counts charge Crime against Peace, being acts for which it is charged that the persons named and each of them are individually responsible in accordance with Article 5 and particularly Article 5(a) and (b) of the Charter of the International Military Tribunal for the Far East, and in accordance with Intetnstional Law, or either of them.

  第一類 平和ニ對スル罪

下記訴因ニ付キテハ平和ニ對スル罪ヲ問フ

該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ夫々ガ極東国際軍事裁判所條例第五條特ニ第五條(イ)及ビ(ロ)並ニ國際法又ハ其ノ孰レカノ一ニヨリ個々ニ責任アリト主張セラレ居ル行爲ナリ

      COUNT  1.

  All the Defendants together with divers other persons, between the 1st January, 1928 and the 2nd September, 1945, participated as leaders, organizers, instigators, or accomplices in the formulation or exsecution of a common plan or conspiracy, and are responsible for all acts performed by themselves or by any person in exsecution of such plan.

    訴因 第一

全被告ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九二八年(昭和三年)一月一日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ一個ノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ指導者、敎唆者又ハ共犯者トシテ參畫シタルモノニシテ斯カル計畫ノ實行ニ付キ本人自身ニヨリ爲サレタルト他ノ何人ニヨリ爲サレタルトヲ問ハズ一切ノ行爲ニ對シ責任ヲ有ス

  The subjedts of such plan or conspiracy was that Japan should secure the military, naval, political and economic domination of East Asia and of the Pacific and Indian Oceans, and of all countries and islands therein and bordering thereon and for that purpose should alone or in combination with other countries having similar objects, or who could be indused or coerced to join therein, wage declared or undeclared war or wars of aggression, and war or wsrs in violation of International law, treaties, agreements and assurances, against any country or countries which might oppose that purpose.

斯カル共同謀議ノ目的ハ日本ガ東「アジア」並ニ太平洋及ビ「インド」洋並ニ右地域内及ビ之ニ隣接セル凡テノ國家及ビ島嶼ニ於ケル軍事的及ビ經濟的支配ヲ獲得スルニ在リ而シテ其ノ目的ノ爲メ獨力ヲ以テ、又ハ同様ノ目的ヲ有スル他ノ諸國ト共同シテ、若クハ右計畫乃至共同謀議ニ誘致又ハ强制的ニ加入セシメ得ル他ノ諸國ト共同シテ、其ノ目的ニ反対スル國又ハ國々ニ對シ宣戰ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ制約ニ違反スル戰爭ヲ行フニ在リ

  The whole of the Particulars in Appendix A, of the Treaty Articles in Appendix B, and of the Assurances in Appendix C, relate to this Count.

附屬書Aノ細目、附屬書Bノ條約條項及ビ附屬書Cノ誓約ノ各全部ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  25.

  The Defendants ARAKI, DOHIHARA, HATA, HIRANUMA, HIROTA, HOSHINO, ITAGAKI, KIDO, MATSUOKA, MATSUI, SHIGEMITSU, and SUZUKI, during July and August, 1938, initiated a war of aggression and a war in violation of international law, treaties, agreements and assurance by attacking the Union of Shirt Socialist Republics in the Lake Khasan.

    訴因 第二十五

被告荒木、土肥原、畑、平沼、廣田、星野、板垣、木戶、松岡、松井、重光及ビ鈴木ハ一九三八年(昭和十三年)七、八月中ニ於テ「ハーサン」湖區域ニ於テ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ヲ攻擊スルコトニ依リ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ開始セリ

  The same Particulars, Treaty Articles and Assurances as in Count 17, relate to this COUNT. 

訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  26.

  The Defendants ARAKI, DOHIHARA, HATA, HIRANUMA, ITAGAKI, KIDO, KOISO, MATSUI, MATSUOKA, MUTO, SUZUKI, TOGO, TOJO and UMEZU, during the summer of 1939, initiated a war of aggression and a war in violation of international law, treaties, agreements and assurance, by attacking the territory of the Mongolian People's Republic in the area of the Khalkhin-Gol River.

    訴因 第二十六

被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戶、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東鄕、東條及ビ梅津ハ一九三九年(昭和十四年)ノ夏期中「ハルヒン・ゴール」河區域ニ於テ蒙古人民共和國ノ領土ヲ攻擊スルコトニ依リ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ開始セリ

  The same Particulars, Treaty Articles and Assurances as in Count 17, relate to this Count.

訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  27.

  All the Defendants between the 18th September 1931 and the 2nd September, 1945, waged a war of aggregation and a war in violation of International law, treaties, agreements and assurance against the Republic of China.

    訴因 第二十七

全被告ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ中華民国ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The same Particulars, Treaty Article and Assurance as in Count 2, relate to this Count.

訴因第二於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  29.

  All the Defendants between the 7th December, 1941 and the 2nd September, 1945, waged a war of aggression and s war in violation of international law, treaties, agreements and assurance, against the United States of America.

    訴因 第二十九

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ「アメリカ」合衆国ニ對シ侵略侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The following Sections of to the  Particulars in Appendix A, Nos. 4 to 10 inclusive; and the same Treaty Articlte and Assurance as in Count 20, relate to this Count.

附屬書Aノ細目中下記節卽チ第四乃至第十並ニ訴因第二十ニ於ケルト同一ノ條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  31.

  All the Defendants between the 18th September 1931 and the 2nd September, 1945, waged a war of aggregation and a war in violation of International law, treaties, agreements and assurance, against the British Commonwealth of Nations.

    訴因 第三十一

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ全「イギリス」聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The following Sections of to the  Particulars in Appendix A, Nos. 4 to 10 inclusive; and the same Treaty Articlte and Assurance as in Count 20, relate to this Count.

附屬書Aノ細目中下記節卽チ第四乃至第十並ニ訴因第二十ニ於ケルト同一ノ條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  32.

  All the Defendants between the 18th September 1931 and the 2nd September, 1945, waged a war of aggregation and a war in violation of International law, treaties, agreements and assurance, against the Kimgdom of Netherlands.

    訴因 第三十二

全被告ハ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ「オランダ」王国ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The Particulars, Treaty Article and Assurance as in Count 14, relate to this Count.

訴因第十四ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  35.

  The same Defendants as in CIUNT 25, during the summer of 1938, waged a war of aggression and a war in violation of international law, treaties, agreements and assurance, against the Union of Soviet Socialist Republics.

    訴因 第三十五

訴因第二十五ニ於ケルト同一ノ被告ハ一九三八年(昭和十三年)ノ夏期中「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The same Particulars, Treaty Articles and Assurances as in Count 17, relate to this Count.

.訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

      COUNT  36.

  The sane Defendants as in CIUNT 26, during the summer of 1939, waged a war of aggression and a war in violation of international law, treaties, agreements and assurance, against the Mongolian People's Republic and Union of Soviet Socialist Republics.

    訴因 第三十六

訴因第二十六於ケルト同一ノ被告ハ一九三九年(昭和十四年)ノ夏蒙古人民共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ニ對シ侵略戰爭並ニ國際法、條約、協定及ビ誓約ニ違反スル戰爭ヲ行ヘリ

  The same Particulars, Treaty Articles and Assurances as in Count 17, relate to this Count.

訴因第十七ニ於ケルト同一ノ細目、條約條項及ビ誓約ハ本訴因ニ關係アリ

    GROUP  TWO:  MURDER

  The following Counts charge the crimes of murder, and conspiracy to murder, being acts for which it is charged that the persons named and each of them are individually responsible, being at the same time Crimes against Peace, Conventional War Crimes, and Crimes against Humanity, contrary to all the paragraphs of Article 5 of the said Charter, to International Law, and to the domestic laws of all the countries where committed, including Japan, or to one or more of them.

  第二類 殺人

下記訴因ニ就キテハ殺人罪及ビ殺人ノ協同謀議ノ罪ニ問フ 該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ各自ガ個々ニ責任アリトセラレ居ル行爲ナルト共ニ旣述ノ裁判所条例第五條ノ全項、國際法及ビ日本ヲ含ム犯罪ノ行ハレタル國々ノ国内法又ハ其等ノ一若クハ二以上ニ違反シタル平和ニ對スル罪、通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ對スル罪ナリ

       COUNT  45.
  The Defendants ARAKI, HASHIMOTO, HATA, KAYA, KIDO, MATSUI, MUTO, SUZUKI, and UMEZU, on the 12th December, 1937, and ingredients days, by unlawfully ordering, causing and permitting the armed forces of Japan to attack the City of Nanking in breach of the Treaty Articles mentioned in Count 2 hereof and to slaughter the inhabitants contrary to International law, unlawfully killed and murdered many thousands of civilians and disarmed soldiers of the Republic of China, whose names and number are at present unknown.

    訴因 第四十五

被告荒木、橋元、畑、平沼、廣田、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木及ビ梅津ハ一九三七年(昭和十二年)十二月十二日及ビ其ノ後引續キ本件訴因第二記載ノ條約條項ニ違反シテ南京市ヲ攻擊シ且國際法ニ反シテ住民ヲ鏖殺スルコトヲ日本軍ニ不法ニ命ジ爲サシメ且許スコトニ依リ不法ニ目下其ノ氏名及ビ員數不詳ナル數萬ノ中華民國ノ一般人及ビ武裝ヲ解除セラレタル兵員ヲ殺害シ殺戮セリ

  第三類 通例ノ戰爭犯罪及ビ人道ニ對スル罪

下記訴因ニ付キテハ通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ對スル罪ヲ問フ該罪ハ茲ニ記載セラレタル者及ビ其ノ各自ガ極東國際軍事裁判所條例第五條特ニ第五條(ロ)及ビ(ハ)並ニ國際法又ハ其ノ孰レカノ一ニ依リ個々ニ責任在リト主張セラレ居ル行爲ナリ

    訴因 第五十三

被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ一個ノ共通ノ計畫又ハ共同謀議ノ立案又ハ實行ニ指導者、組織者、敎唆者トシテ參畫シタルモノニシテ斯カル計畫ノ實行ニ付気本人自身ニ依リ爲サレタルト他ノ何人ニ依リ爲サレタルトヲ問ハズ一切ノ行爲ニ對シテ責任ヲ有ス

斯カル計畫又ハ共同謀議ノ目的ハ當時日本ガ從事セル諸作戦地ノ各々ニ於ケル日本陸海軍ノ最高司令官、日本陸軍省職員、日本領土又ハ其ノ占領地ノ俘虜及ビ一般收容者ノ收容所及ビ勞務班ノ管理當事者、並ニ日本ノ憲兵及ビ警察ト其ノ夫々ノ部下トニ「アメリカ」合衆國、全「イギリス」聯邦、「フランス」共和國、「オランダ」王國「フイリツピン」國、中華民國、「ポルトガル」共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ノ軍隊ニ對シ並ニ當事日本ノ權力下ニ在リシ此等諸國ノ數千ノ俘虜及ビ一般人ニ對シ附屬書Dニ於テ述ベラレタル條約、誓約及ビ慣行中ニ含マレ且之ニ依リ證明セラレタル戰爭ノ法規慣例ノ頻繁ニシテ且常習的ナル違反行爲ヲ行フコトヲ命令シ授權シ且ツ許可スルコト、

而カモ亦日本國政府ニ於テ上記條約及ビ誓約竝ニ戰爭ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保シ且其ノ違反ヲ防止スル爲メ之ニ準據シテ適當ナル手段ヲ執ルコトヲ差控フベキコトニ在リタリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該計畫又ハ共同ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マリ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ參畫セリ

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

    訴因 第五十四

被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ訴因第五十三ニ於テ述ベタル者ト同一ノ人々ニ同訴因中ニ於テ述ベタル違反行爲ヲ行フコトヲ命令シ授權シ且許可シ以テ戰爭法規ニ違反セリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該命令、授權及ビ許可ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マル期間ニ發セラレタルモノニシテ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ責任ヲ有ス

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

      COUNT 55.
  The Defendants DOHUIARA, HATA, HOSHINO, ITAGAKI, KAYA, KIDO, KIMURA, KOISO, MUTO, NAGANO, OKA, OSHIMA, SATO, SHIGEMITSU, SHIMADA, SUZUKI, TOGO, TIJO and UMEZU, between the 7th December, 1941 and the 2nd September, 1945, being by virtue of their respective offices responsible for securing the observation of the said Convensions and assurances and the Laws and Customs of War in respect of the armed forces in the countries hereinafter named and in respect of many thousands of prisoners of war and civilians then in the power of Japan belonging to the United States of America, the British Commonwealth if Nations, the Republic if France, the Kingdom of the Netherland, the Commonwealth of the Philippines, the Republic of China, the Republic of Portugal and Union of Soviet Socialist Republics, deliberately and recklessly disregarded their legal duty to take adequate steps to secure the observation and prevent breaches thereof, and thereby violated the law of war.
  In the cases of the Republic if China, the said offense  began on the 18th September, 1931, and the following Defendants were responsible for the same in addition to those named above: ARAKI, HASHIMOTO, HIRAYAMA, HIROTA, MATSUI, MATSUOKA, MINAMI.

    訴因 第五十五

被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及ビ梅津ハ他ノ諸多ノ人々ト共ニ一九四一年(昭和十六年)十二月七日ヨリ一九四五年(昭和二十年)九月二日ニ至ル迄ノ期間ニ於テ夫々ノ官職ニ因リ「アメリカ」合衆國、全「イギリス」聯邦、「フランス」共和國、「オランダ」王國「フイリツピン」國、中華民國、「ポルトガル」共和国及ビ「ソビエツト」社會主義共和國聯邦ノ軍隊並ニ當時日本ノ權力下ニ在リシ此等諸國ノ數千ノ俘虜及ビ一般人ニ關シ上記條約及ビ誓約並ニ戰爭ノ法規慣例ノ遵守ヲ確保スル責任ヲ有シタルモ、其ノ遵守ヲ確保シ違反ヲ防止スルニ適當ナル手段ヲ執ル可キ法律上ノ義務ヲ故意又ハ不注意ニ無視シ以テ戰爭法規ニ違反セリ

中華民國ノ場合ニ於テハ該違反行爲ハ一九三一年(昭和六年)九月十八日ニ始マリ上記指名ノ者ノ外下記被告モ亦之ニ責任ヲ有ス

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南

    APENDIX  A.
Summarized Particulars showing the principal Matters and Events upon which the Prosecution will rely in support of the Several Counts of the Indictment in group One.

    [起訴狀]附屬書A

 檢察當局ガ本起訴狀第一類中ニ含マレタル數個ノ訴因ノ支持ノタメ依據セントスル主要ナル事實及ビ出来事ヲ表示セル要約的細目

    SECTION  2.
MILITARY  AGGRESSION  IN  THE  REST  OF  CHINA.

  Japanese aggression against China entered a new phase on July 7th, 1937, when her army invaded China south of Great Wall, and her government adopted, supported and continued the aggression.  All subsequent Japanese Government did the same.

  Subseqent major events in this phase were:

  About 19th to 25th September, 1937, Japanese forces bombed Nanking and Canton, and deliberately killed large numbers of civilians.

  About 13th December, 1937, Japanese forces captured Nanking, slaughtered many, thousands of civilians and committed other outrages.

    第二節
  中華民國ノ他ノ部分ニ於ケル軍事的侵略

 中華民國ニ對スル日本ノ侵略ハ一九三七年(昭和十二年)七月七日新ナル段階ニ入リタリ其ノ日日本國軍隊ハ長城以南ノ中華民国領土ニ侵入シ、日本政府モ亦右侵略ヲ採用シ、支持シ且繼續セリ其ノ後ノ日本政府ハ孰レモ同一政策ヲ踏襲セリ

 一九三七年(昭和十二年)九月十九日ヨリ二十五日ニ至ル頃日本軍ハ南京及ビ廣東ヲ爆撃シ故意ニ多数ノ一般人ヲ殺害セリ

 一九三七年(昭和十二年)十二月十三日頃日本軍ハ南京ヲ攻略シ、數萬ノ一般人ヲ鏖殺シ且其ノ他非道ナル行爲ヲ行イタリ。

[以下略]

↑A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.164)

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071272500 第111画面、第114~115画面、

↑A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071307800 126~127, 140~144, 155~156, 159, 161~162/240