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帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

【工事中】岡村寧次『陣中感想録』現代表記 1937.7.13~1945.11.21

1945年の日記から

    11月21日

 本日から鼓楼の日本総領事館の渉外部へ出務することにした。

 私は、北満出動の第2師団長に続き、第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官と歴任し、その間書き留めた陣中所感録は、すでに11冊に及んでいる。しかし今次、連合軍から歴史的文献の輸送を禁止され、日記などもこれに触れるとの申し渡しがあった。甚だ惜しいので、戦史や作戦用兵の事項を除き、所感の一部を抜萃し、陣中感想録として残すこととしたい。また昭和16年から19年に至る日記も、人の往来、自己の行動ぐらいの部分だけを摘記して残すこととし、本日からその作業を始めた。

 註 これら摘記した書類(5部)は幸いに持ち帰ることができ、防衛庁戦史室に寄贈し、多少お役に立っている。

 

岡村寧次大将回想録

靖國偕行文庫 受入番号:80277 図書記号 請求記号:390,281オ、オ


[表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将回想録

            昭和29年6月

            厚生省引揚援護局

 

[内表紙]

一切転載ならびに公表を禁ず。

(特別資料)

戦史資料その3

    岡村寧次大将陣中感想録

            昭和29年6月
            厚生省引揚援護局

【偕行社蔵書印】
        寄  平成10年9月28日

        贈  原 四郎 氏

 

[編集者(原四郎?)による註記]

 註

1.本書は昭和13年より大東亜戦争終戦に亘り中国戦線において第11軍司令官、北支那方面軍司令官、第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任せられた岡村寧次大将の陣中感想録を終戦後戦地において抜粋·摘記せられたものであって、誤植なきを保し難いが綴込および原文そのままの写しである。

 本書中、日付けの下方の英字符号の意味についての同大将の区分は、次の通りである。

A  戦場における軍紀·風紀

B  統帥(焼却せられあり)

C  統御

D  死生観

E  個人所見、他人評

F  日華関係

G  共産党関係

2.岡村大将軍歴の概要は次の通りである。

明治37,11 任 陸軍歩兵少尉

同         補 歩兵第1連隊補充隊附

明治38, 4 補 歩兵第49連隊附、

          日露戦役出征

明治43,12 陸軍大学校入校

大正 2, 8 補 歩兵第1連隊中隊長

大正 4, 2 補 参謀本部部員

大正 8, 7 補 兵器本廠附

大正11, 2 補 歩兵第14連隊大隊長

大正12, 3 補 参謀本部部員

昭和 2, 7 補 歩兵第6連隊長

昭和 3, 8 補 参謀本部課長

昭和 4, 8 補 陸軍省補任課長

昭和 7, 2 補 上海派遣軍参謀副長

昭和 7, 4 任 陸軍少将

昭和 7, 8 補 関東軍参謀副長

昭和10, 3 補 参謀本部第2部長

昭和11, 3 任 陸軍中将

同         補 第2師団長

昭和13, 6 補 第11軍司令官

昭和15, 3 補 軍事参議官

昭和16, 4 任 陸軍大将

昭和16, 7 補 北支那方面軍司令官

昭和19, 8 補 第6方面軍司令官

昭和19,11 補 支那派遣軍総司令官

 

A.戦場における軍紀·風紀

    昭和13.7.13(上海)

 中支戦場到着後、先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所によれば、従来、派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺するの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪·強姦多数ありしことは事実なるがごとし。最近湖口付近において捕獲せる中国将校は、我らは日軍に捕へらるれば殺され、後方に退却すれば督戦者に殺さるるにより、ただ頑強に抵抗するあるのみと言えりという。

 上海には相当多数の俘虜ありて苦役に就かしめあり、待遇必ずしも適良といい難し。

 予は討蔣愛民(註)の標語を設け、まつろわぬものは誅せるも、無辜の良民には仁慈をもってするの方針を立てたるも、右のごとき悪習に染まりたる部下将兵の統率には今後困難すべしと思う。断固方針を遂行せんのみ。

 〔註〕中国軍の骨幹は蔣介石直系軍にして、他の地方軍は戦力著しく劣るゆえに、この蔣直系軍を討滅するを主眼とせざるべからず、次いでの主眼は愛民にありとの、予の定めたる標語なり。

 

    昭和13.7.18(潜山)

 第6師団長稲葉中将は公正真率の士なり。自己師団の精神的欠陥を反省、指摘して曰く、「戦闘第一の主義に徹底し勇剛絶倫なるも、掠奪·強姦等の武徳損傷を軽視す。団結心強きも排他心強く、配属部隊に対し自己部隊と同様に遇するかごとき推量に乏し。云々」と。

 

    昭和13.8.6(九江)

 外国権益尊重は我が政府の屢〻声明し、軍においてもこれを下達し来たりし所なるが、未だ将兵に徹底せず、九江においても平然として英人所有家屋に宿営せるものあり、米人所有家屋に就宿せんとする連隊あり憲兵の制止により中止せり。本日、英米艦長等が我が承認の下に九江に上陸実視の結果、彼等の公私権益が大体維持せられあるを満足したる由なるが、憲兵の監視なかりせばその結果あるいは没常識のものありしならん。

 8.3記述の対外観念欠乏の一証なり。

 

    昭和13.8.3(九江)

 本日までに予の観たる日本軍将兵の精神的欠陥、概ね左のごとし。

(A) 掠奪·強姦等、神武精神に反する者なお後を絶たず。

(B) 事変の性質を弁えず、俘虜、良民に対しても敵意を有し、これを愛するの念に乏しき下士官·兵少なしとせず、予の方針たる愛民の実は挙がらず。

(C) 官物尊重心薄く、兵器·資材の欠損·放棄多く、携帯天幕は半年位にて破損、使用不可能となり、防毒面は枕代用とするため久しからずしてその機能を失う。

(D) 露営を厭い、家屋に入るを欲す。

 (A) (B) は我が国民が依然島国根性にして、国際観念、対外思想に貧弱にして、大陸発展の基礎性格の未完成を示すものなり。満州支那等における不良邦人の徒なる優越感もこれを証す。また (C) は国民性の従来よりの通弊たる公共道德の低劣なることを示すもの。(20.11.21追記、島国に閉じ込められたる日本人は今後益々島国根性となるべし。)

 

    昭和13.8.18(九江)

 本日、吉本参謀長が対岸巡視の結果によれば、小池口付近における台湾混成旅団(波田支隊)原田大隊は風紀紊乱し掠奪·強姦少からず、甚しきに至りては、付近村長を集めたるときその被服を奪い、これを着用して強姦せし者あり。また飛行場建設工事に従事中なる村長の妻娘を輪姦せしため、村長憤りて飛行場建設工事に一頓挫を来せることさへあり。飛行場工事苦力賃のあたまをはねしものもあり、九江にある兵にして窃かに渡江して対岸に到り暴状を働くものもあり、予の方針たる討蔣愛民の標語は到る処に揭けられあるも、その実は挙がらず。

 是において予は参謀長と協議し九江にある憲兵全部を対岸に派遣し、犯人を悉く逮捕して軍法会議に附せしめ、かつ九江特務機関の主力をも渡江して宣撫工事の立て直しをなさしめたり。

 

    昭和13.8.23

 五十嵐憲兵隊長来訪して曰く、小池口に於ける上等兵以下3名の輪姦事件を取調べたる所、娘は大いなる抵抗もせず、また告訴もなさざるにより申[→親]告罪たる強姦罪は成立せざるをもって、不起訴となすべき意見を述ぶ。軍法務部長も同一意見なり。

 予はこれに対し言を励して曰く、「強姦罪が申[→親]告罪なるがごときことは予もまたこれを知る。然れどもこれ平時内地における場合を予想せるものにして、戦場においては深く省慮せざるべからず。そもそも吾ら軍人は神武精神に徹するを要す。神武精神は戦場における軍人行為の根本たるべきものにして、断じて法律の上にあり。また被害者は後難を恐るるかゆえに、銃剣の前に心ならずも申告を敢てせざるなり。憲兵は須らく被害者の心情を洞察して申告せしむべし。しかして犯人は厳重に処分すべし」と。吉本参謀長も全く同一意見なり。南京攻略以来、いかに我が皇軍が愛民の徳を失いつつあるかを知り得べく、痛憤に堪えざるなり。名は聖戦というも、神武精神を失いたる聖戦いずくにかある。憲兵、法務官に至るまで大局的の神武精神を失しあり。

追記 15年2月、予は内地に帰還し、阿南陸軍次官に対し、強姦罪親告罪たるを改め戦地強姦罪(申[→親]告に関係なき)を設くべき意見を述べたるに、正義の士たる阿南次官は直ちに同意し、改正に着手すべきを約したり。その後、予の北支在任時代、陸軍刑法改正を見、戦地強姦罪制定せられたり、この間、実に2年を要したるは驚くべき不熱心と謂うべし。

 本日、予の宿舎に隣接せる丘阜に第九師団の部隊来たり、露営せるを見るに、先般、同じ場所に宿営せる波田支隊と比較し、北陸兵と南九州兵とかくも違うものかと驚く。すなわち後者は戦闘には頗る勇敢なるも、駐留間における軍風紀不良、掠奪·強姦少からず、背囊は遠く鎮江に残置したるまま、携帯天幕を背負袋に代用せるため、破損して雨露を凌ぐの用をなさず、防蚊帽は大部分破損、若しくは放棄し去りたれば、宿営は民家に入るを要し、しからざれば露天なり。

 しかるに前者は出征日数は後者より大なるも、軍·風紀、平時と大差なきまでに厳粛にして、修繕の跡正しき天幕を張りて露営し営中静粛·整然たること、また出発の行軍も整々たること等、到底前者の比にあらず。指揮官の措置によること勿論なるも、南九州と北陸との民情の差大なるを思う。

 戦場心理としては明日をも知れぬ命なれば、軍·風紀の厳粛を欠き、幹部もまた統率厳格ならず戦闘第一主義となり、犯罪を犯したる者も戦功ありたりとてこれを看過する悪習を生じ易き一般状態なるが、この間、依然として森厳なる軍·風紀を維持しある軍隊はまことに貴しというべし。

 

    昭和13.8.30

 6Dは剛勇、敵陣中にも轟き、その将兵の態度は厳然として敬礼も正しく、我が国最精鋭の一つなるには相違なきも、強姦罪の多きには困ったものなり。

 稲葉師団長、牛島旅団長等もこれが取締りに苦心しあり。兵の行衛不明の多くは、我が幹部の眼をのがれて付近の村へ女あさりに往きたるもの多しとのこと。またまず放火して人を騒がせ、しかして婦女子を求むるなど、悪辣の犯罪すらありとのことなり。

 同師団は30余名のいわゆる慰安婦を跟随せしめあり。慰安婦の跟随などは日露戦役時代には無かりしものなり。第1回上海事変の際、予は軍参謀副長たりしが、海軍の例に做[→倣]い慰安婦を設け(恐らく陣中公然これを設けたる最初ならん)、爾後、強姦罪皆無となりて喜びたることありしが、今の軍隊は慰安婦を同伴してなおかつ強姦罪少なからずいう有り様なり。慰安婦は第6師団に限りたることにはあらず、他の兵団も多くはこれを用いあり。

 本事変勃発後間もなく、満州にて聞きたる所によれば、北支の中国古老は団匪事件において歐米各国軍隊の掠奪·強姦·暴行の限りを尽くしたるに反し、独り我が日本軍が軍紀森厳·風紀粛然として秋毫も犯すところなきを感嘆·敬服せしことありしに、今次事変勃発後の日本軍将兵の行動は別人の感ありと嗟嘆する者ありとのことなり。

 

    昭和13.9.22

 憲兵報告に蚌埠における中国婦人(40歳)との問答の一節あり。曰く、

中国兵は掠奪するも強姦せず、日本兵は掠奪せざるも強姦す。可否いずれにかあらん。頼みとするはただ天主教会の神父あるのみと。

 日華両国民提携の前途は遼遠なり。宣撫工作を壊るものは日本の不良兵なり。
 

    昭和13.9.26

 憲兵総合報告によれば、刑罰の種目中、最も多きは上官暴行と強姦なり。しかして犯人の年齢別を見るに、33歳の者、最多数なり。この年輩の者は勿論、既教育兵なれば、その現役時代の軍隊教育不適当なりとの譏りを免れざるべきも、その軍を離れてすでに年久しきことにより推せば、社会の罪もまた免れざるべし。蓋し社会より召集せられて直ちに戦場に来たりしものなれば、軍の罪としてよりも国民の罪としてより反省するの要あり。

また甚だしきに至っては惨虐行為の写真を家郷に送付せるもの頻々これあるがごときは真に狂気の沙汰、神武の冒瀆というのほかなし。最近来陣せる中村軍務局長の言う所によれば、内地郵便局にて郵便法違反として没収せるこの種写真はすでに数百枚に達しありという。人の知らぬことを得意になって言ひたがる一種の好奇心はまた国民性の一つなり。批判好き、噂好きの性向もこれに同じ。誤れる自由主義の浸染、国民教育、社会教育の根本的改善を要すべし。

 

    昭和13.9.28

 戦地における郵便行囊の未回収総数四十万箇に及び、野戦郵便の配達に困難し、かつ新製にも至難なる旨、通牒あり。郵便は陣中最大の慰藉なりと称されながら、戦地各部隊の不仕末かくのごとし。

 公共心乏しき国民性の暴露、ここにも現わる。

 

    昭和13.10.2

 将兵の言動を観察·総合し、日露戦·北清事変当時に比し精神的に低下したりと思はるる点、概ね左のごとし。

 而して将兵の全部に近き大多数は非現役にして、召集後、直ちに出征したる者なれば、この事は軍隊の罪といわんよりは、むしろ国民の罪なりと断ぜさるを得ず。事実において刑·懲罰の大部は召集者なり。

(イ) 上官に対する服従心衰えたり。

   (犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道德の低劣。

   (強姦、慰安婦随伴)

(ハ) 公共心欠乏は元来の穴点なるが、益々甚だし。
   (貴重なる兵器を一寸の破損で遺棄し、これを修理補修機関へ送付せざるもの多し。他隊の馬を盗むこと流行。前送恤兵品等の途中紛失多し。)

(二) 幹部にして横領、収賄等の罪を犯すもの少なからず。

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺すの悪風あり。

 右の原因にも色々あるべきも、個人主義·自由主義の思想が悪用せられて国民道義が低下し、それが戦場にも反映したることが最大原因なりと思う。

 明治維新以来数十年にして一等国の斑に列し得たるは、欧米文化の輸入も確かにその一原因には相違なきも、余りに急ぎたる進展に伴い、輸入思想の弊害、その我が国情に適合せざるる部分をも咀嚼に暇なくしてこれを鵜呑みにし、我が伝統精神のごときは棚の上に放置したるの感なきに非ず、上世我祖先が輸入文化を克く咀嚼し我が伝統精神と融合せしめたるに比し、大いに劣れるものありと思う。

 政治道德、選挙道義を篤と呑み込ませずして選挙形式を作り、普通選挙を急ぎたるため、選挙を売品化せし嫌いなきや。

 性道德を重視せずして徒らに恋愛の自由を賛美せざりしや。対国家道徳、対家庭道徳においては、日本人は世界に冠絶するも、社会道徳、社会訓練においては大いに劣れり。社会的統制あり、社会的秩序あり、社会的組織ある所にデモクラシーを叫ぶは可ならんも、これなくして徒らに形式的にデモクラシーを強調せし学者·識者果たしてなかりしや。(20.11.24再記、本項は終戦後、今の内地の状況に対しても同一の感を懐かざるを得ず。)

 我が伝統精神を唱道する者といえども単に島国日本の優秀性を强調するのみにして、日本ならびに日本国民の欠陥を反省し、八紘一宇の大眼目の下に他民族愛慈を重視して子弟を教訓せしや否や。

 伝統精神、慣習、家族制度、米食、人口過剰等の我が特異性を顧みることなく、一向に輸入学問に基づきて政治、経済、文化を世界的に塗りつぶす傾向なかりしや。

 しかれども戦場にて視れば君国に対し、家庭に対し、郷土に対し、戦友に対する道義に至りては幸いに往時に比して決して低下しあらざるを認む故に、躍進日本はこれ等輸入思想と伝統精神とを再検討し、国民教育を改善し、社会教育を確立し、国民の自粛·自戒と国民道義の一大刷新とを必要なりとす。

 

    昭和13.10.10(第11軍司令部)

 星子の兵站司令官、友清大佐の言によれば、同地付近の村長連名にて殺戮、強姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請し、これら条件容れらるれば他の要求にはすべて応ずへき旨、嘆願書を提出せりという。誠に憐むべし。

 同方面へ憲兵を急派、取り調べしめたる所によれば、すでに強姦約二十件ありて犯人未検挙。たまたま強姦現行直後の者を捕えたるに、その所属隊長は該犯人が歴戦者なるを理由として寛大の処置、釈放を請いたりという。統率厳正ならさる幹部少なからず、後方部隊、老兵部隊はことにしかり。

(20.11.24追記)当時はかくも甚だしく强姦·掠奪等行われたり。畢竟、南京攻略後暴行事件の余波なり。しかして予が極めて厳格に取り締まりたるため、翌年頃よりは漸減せり。また二、三年後は南北を通し全軍この点については面目を一新し、事件は稀に発生せしのみ。これが重大の原因は、軍紀刷新の効果といわんよりも、むしろ下士官兵の素質が老兵は皆無となり、現役兵ならびに若年の補充兵に改善されたるに存す。すなわち前者は、前に述べたる如く、個人主義旺盛の時代に成人したるものなるに反し、後者は満州事変勃発以来、潜在せる神武精神が国内を風靡せる時代に成人したるものなるを以てなり。

 然るに物には利害はつき物にして、一方においては満州事変を契機として軍国主義は盛んとなり、民主·平和の思想が低下したることは事実なり。終戦後の現在、連合軍の必要を越えたる統制指導により、内地にてはまたも再転して軍国主義の絶滅、民主主義の彌漫を見るに至れり。共産党の横行さえも公然行はれあり、この風潮は、一面、当然のこととも思はるるが、前記、戦場に反映せる国民道義の変遷──日清、日露、北清戦時代最良、支那事変勃発時代最不良、その2~3年後やや良──につきて深省し、国民思想の急激なる変転に伴う余弊を発生せざらんことに、政府も国民も大いに留意するの要あるべし。

 

    昭和13.11.4

 今日までの総合観察によれば、三十五、六才以上の老兵は戦意必ずしも強からず、二十七、八才以下の現役兵·補充兵は勇敢なり。これが原因として予の見る所、左のごとし。

前者は、

成人時代にデモクラシー、自由主義、民主主義の流潮に浴し、朝野を挙げて国際主義に堕し、大陸発展など意に介せざりし時代に人と成り、すでに妻子を養い専らその家庭に引かれ易し。

後者は、

国体明徴運動以来、満州事変に伴い、日本精神に蘇み返り来れる時代に人と成り、未だ無妻なるか、または一、二人の児子あるも、意気旺盛なり。

 また非違行為の大部分が三十四、五才の者なることも右と併せ考うべきことなり。

 一両日前、武昌にて某兵站自動車中隊の兵某等は、閉鎖しある外国人家屋に墻を越えて浸入し、家具を掠取せる事件あり。同中隊長を取り調べたる所によれば、入城前夜しばしば訓示を与えたる由なるも、なお監督不十分の罪を免るること能わず。

 国民の対外観念に乏しきこと既述の通りなるが、ここにも一例を示せり。

 

    昭和13.11.19

 諸情報を総合するに、我が軍将兵にして敵に捕へられ、その捕虜收容所に週容せられある者、相当多数に上ること確実なり。多くは負傷者なるも、健全者もまた少からざるがごとし。
 俘虜の多きことも昔の戦役時代に比し異る所なるが、さらに思想上昔時と異ることは、捕へらるるも我が軍の内情等一切言明せざりしものが、現時俘虜となれる者は我軍の編成、位置、指揮官等を平然と述べて、法律上のいわゆる利敵行為を敢てする者、少なしとせざること、これなり。欧米思想の浸潤をここにも見る

 俘虜を濫りに殺す悪傾向は、予の累次に亘る厳飭といわんよりも、部隊自身が弱兵の背囊や荷物を運搬せしむるの必要上、大機動後の今日は俘虜を同伴する傾向に転じ来たれり。形而上的に覚醒せしにあらずして、形而下的の必要より生じたるなり。


    昭和13.11.20

 漢口占領当時、支那人および外国人は、南京攻略時の我が軍大暴虐より推察して、我が軍の暴行を予期せしが、案外に軍紀厳肅なりしかば、民心、大いに安定せり。しかるに入城後2~3日にして第6師団その他に強姦事件2~3発生し謡言次いで起こり、市中、不安を招きたるは遺憾とする所なり。

 予は、武漢入城に際しては極力兵力を減少し、漢口に入れたるは第6師団の2大隊のみ。また第6師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも、1年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず。燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。

 被害者の多くは外人宣敎師の許に遁れて再難を防ぎたるため、これら外人より我が憲兵に告訴し来り、事件は世界的に喧伝せられるべし。予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み、改めてこれら非行厳戒の旨を訓示せり。

 

    昭和13.12.29

 戦場における公共心の欠乏、自分さえ良ければ他隊の迷惑など構わぬという利己的風習の横行少からざるはすでに述べたるが、なお最近におけるこれが実例を挙ぐれば左のごとし。

(イ) 馬盗多し。馬数欠乏すれば暗夜に乗じて他隊の馬を掠めるは、尋常茶飯事となれり。第2軍司令部にありては、軍司令官宮殿下の御乗馬正副二頭もまた盗まれ、厳に捜索中なるも未発見。軍紀全軍中最も厳然たる第9師団さえその馬廻嶺付近より他に転戦するに際しては第106師団の馬数頭を持ち去れり。甚だしきに至りては、兵力を以て馬監視兵を脅威して他隊の馬を強奪せるものあり。

(ロ) 小包、補給糧食品等の抜き取り多し。

(ハ) 通信隊は電柱に一本毎に「日本軍用」と札を掲げて、もって他隊の盗用を防ぎあるは、その例少なからざればなり。

(ニ) 警備体制に入りて以来、各部隊は宣撫愛民の必要上、自己分担区域内においては必要以上樹木抜採を慎しみあるも、一たび機動によりて他隊の区域に入る場合には遠慮なく樹木を採し、両部隊間に葛藤を生する例多し。

 要するに戦友愛は狭義的には美事なるも、広義的戦友愛には乏し。我が国民性の反映なり。

 

    昭和14.3.1

 米国のラッド博士は日露戦争後来朝し、華族会館において演説したる際、日本国民が戦時において発揮したる特質として、嘆賞すべき左の四点ありと指摘せり。

1. 勇気、殊に銃後の勇氣

2. 戦争に対する細心の準備

3. 国民全般の節制

4. 敵に対する寛容の精神

 右観察は当時に於ては概ね的中しあり。しかるに今日は如何。すなわち、

1は概ね変化なきも、多少の低下を認めざるを得ず。

2は準備不十分。

3節制はいかがかと思はる。

4この精神は大いに低下せり。


    昭和14.5.20(漢口第11軍司令部)

 5月17日、国民学校長団体、戦場訪問に来り、請はるるままに「戦場にて観たる国民精神」として、左の要旨を語る。

 内地にては、我が将兵が戦死に臨み、従容として天皇陛下万歳、日本帝国万歳を三唱すと一般にいわるるが、事実においては日本帝国万歳など叫ぶものはなく、ただ天皇陛下万歳のみなり。平時においては天皇陛下万歳も日本帝国万歳も同しことなるが、戦死の場合には必ず天皇陛下万歳のみなることを、深く認識せざるべからず。我が将兵はいよいよ総攻撃に向かうという前日には、郷土の父兄、校長さんらに最后の手紙を認め、戦前の一とき試みに今何を考へありやと問はば、郷里のことを考えありとほとんど全部は答う。しかして激戦の渦中に投ずれぱ最早郷土もなく家もなく、兵はただ上官を仰ぎ、上官はただ兵を視、夢中になって戦い、敢えて他事を思わず。しかして敵弾に中りていよいよ戦死に臨むや、自己に最近きものの代表たる天皇陛下の万歳を唱え、満足して死に赴くなり。

 右は日本人の血液に潜在せる伝統思想にして、科学的理論をもっては説明し得ず、国体明徴のごとき理論を戦わすよりも、この厳然たる一事実を再認識すれは足るなり。
 戦闘において我が将兵が勇敢にして、死を見る[ママ]帰するが如き精神を堅持しあることは、以前の戦役時代と毫も異らず、この点はあまり教育·指導せずとも心配なしと思わるる程なり。

 しかれども戦場に反映する国民道義に至りては、遺憾ながら、以前の戦役時代に比し著しく低下し来たりたることを認めざるを得ず。掠奪强姦の犯罪は昔はほとんど無かりしが今は頻々たり。まつろわぬ者は誅し、まつろう者は慈しむという神武以来の大精神は影を没せんとす。口には聖戦といい、八紘一宇というも、事実は神兵たるの実、毫も上がらず。敵は反抗する敵軍隊にして、住民は我が友とすべく、否、我が友とすべきための戦なりと言はるるも、この住民を虐ぐる行為に出づる者、比々たり。

 依然たる島国根性なり。大陸日本たるの精神的用意なくして、またこれが準備教育なくして、大陸に出動し来たりし将兵であり、居留民であるのである。

 昔からいわるる公共道德の欠乏は今もなお国民性の欠陥なり。否、却ってその程度を増加しあり。以上の悪傾向は軍隊内の事なりといえども、兵の大部分は郷土より直ちに出征せる召集者なれば、右のごときは軍隊の罪といわんよりも国民の罪なることに注意されたし。

 以上のごときはそもそも如何なる原因に出づるや、軽々に判断すべからずとするも、国民思想、国民教育にたずさわる人士の大いに考慮すべき問題なりと信ず。また我が国民の美点を助長する教導よりも、むしろその欠点を矯正し、かつ大陸雄飛準備の教導がさらに必要にならずやと考う。(後略)

 

    昭和14.5.6[ママ]

 前項に述べたると同様、小学校長団(前回は東部、今次は西部)来訪せしに由り、ほぼ前回と同じ説話を試みたるが、ただ前項美点の部分は少しく補正する所ありたり。即ち左のごとし。

(イ) 忠死の件、前に同じ。

(ロ) 協戮一体

 将と兵と一心同体、互助の精神強く現はることは平時と遥かに差異あり。その一例を挙ぐれば、漢口北方長軒嶺という部落にありし某部隊は郷土慰問演芸の到着を楽しみありしが、この当日の数日前、付近に敵の来攻あり、これが撃退に出動し、戦死者四名の遺屍を携えて当日帰還し来たりしところへ、慰問団到着す。部隊長は右の事情を述べて一旦は慰問演芸を謝絶したるが、暫くして戦死者に対し、生ける者に対するやうに謂って曰く、「お前達もこの慰問団を待ち焦がれていたのだから、矢張り行なって貰う」と。すなわちかねて準備せる粗末なる急造舞台にて慰問演芸を催したり。「永らく演芸に従事しあるも、死骸の前にてこれを演じたるは始めてなり」と慰問団の人々より後日、涙ながらの述懐を聴きたり。

(ハ) 誠意に徹したる虚言は多し。

 出征将兵は軽傷、病院等は家郷に報せずして、健全服務中なる旨を報す。家郷はまた近親の不幸等は出征者に報せず。互いに虚の吐き合いなり。尊き虚なる哉。顔容変調あり、受診を勧むるも、病なしと虚りて作戦目的地到達までは頑張る者、少なしとせず。

 右校長団にして帰国後予に礼状を寄せ感謝し来たりし者、僅かに1名のみ。
 

    昭和14.6.12

 前北平駐在AP特派員ハンソンがネーシヨン紙上に投稿せる記事の一節に、

支那人が遊撃隊として戦いおるは、国家を救うためにあらずして、彼らの村を自衛するためなり。自分は昨1938年の末に4ケ月間、北支ゲリラ隊とともに過ごし、何百人という者になぜ戦うかを訊ねたるに、せの答えは同じタイプのもので、例えば、

 自分の穀倉が掠奪された

 自分の村では女か强姦された

 牛が日本兵に掠奪された

といふがごときものなりき。

 もし日本軍が当初より人民の生命財産につき慎重なる注意を払ったならば、戦争の全過程は変わったものとなっていたであろう」

とあり、右の結論は全然、予と同一意見なり。もし我が軍にして民心把握を大作戦の計画実行と同様、否な、それ以上に重視して励行し来たらんには、事変は既に解決の緒につきありしやも知れずと思う。

 予は討蔣愛民を標榜し、聖戦本義に徹すべく部下を戒飭し来たれるも、未だ狂瀾を既倒に回すこと能わざるを深く恥ずるものなり。

 

    昭和14.6.16

 数日前来訪せし鹿児島県国民学校長連5名に対し、前述小学校長団に対して述べたると同様のこと、殊に中堅壮年者の道義の低下を申せしところ、彼らは共鳴して曰く、国民学校教員にありても大正7~8年ごろ風靡せしデモクラシー思想の青年で師範学校を卒業せし年輩の者どもが、現下、教員として最も不適当なる思想を持しありと。

 我が陸軍士官学校においても当時、一般世態の影響にや、一時、軟教育を行ないて失敗したることあり。

 要するに右の件は日本全般の国民思想上の問題なり。

 

    昭和14.6.30

 戦場においては、明日をも知れぬ生命観の下に人間性の実態を暴露し、従って我が国民思想の反映を観察するに便なり。

 以前の戦役時代と現時代と戦場における将兵の思想·道義にいかなる差異ありやは、すでにしばしば述べたる所なるが、さらに要点を総合比較すれば左のごとし。

(イ) 旧に比し優れる点

 文化の水準高くなりしにより、勇敢性のほか独断性の発達を見る。すなわち作戦に際し機宜の動作を敢行し、戦機を看破して独断、敵の一角に突入して功を奏し、地物を利用し潜行して我が突撃を妨ぐる敵の側防機関を奪取する等、下士官兵の活躍、見るべきものあり、これらは昔の下士官兵には極めて稀なるところなりき。統制下の自由主義の貴むべき一場面とも見るべし。

(ロ) 昔時に比し劣れる点

 既述の諸点(略)

 而して「不怖死」の忠誠心に到りては昔時に比し今の兵隊の方が少しく劣る感あるも、大体この点は民族性の美点として変化なしと断定し得べし。

 しからば一体、昔の兵と今の兵といずれが優れりやという問題に移ることとなるが、具に戦陣の実相を究明して結論すれば、今の兵は服従心、持久力、戦場内務において劣るも、個人戦力は優秀なるをもって、兵の強さにおいては大体、大差なきものと思う。されども勇敢性、剛毅性等の「狭義的强さ」においては、今の兵は昔の兵にやや劣るものありと認めらる。ことことは地方的性格上より見るも、東北兵、九州兵はやはり比較的強いと謂えるに似たり。

 

    昭和14.7.10

 七月号「文芸春秋牧野伸顕伯の松濤閑談の一節に曰く

 日本海海戦の済んた後、国際学士院委員会会長プロフェッサー、シューズという人大喜びでやってきて曰く、「日本の日露戦争における働きというものは実に予想以上にして、明治天皇は実に御偉い御方なり。欧米はキリスト教で愛が道徳観念の基になっているも、今後は日露戦争の経験によって愛のみでは不可。愛国心、パトリオチズムといふものを、少し今後の教育に浸み込ませなければならぬと考えさせられる。しかし自分はなお考えるに、日本はまだ封建時代より余り年数が経っておらぬから、日本の文武の指導者も献身的精神が極めて旺盛なることを示されたが、将来日本が物質的に一層の向上を見た暁には、この日本人の伝統的の志気、愛国心といふものがそのまま働くだろうか。物質的の進歩のためにそういうものが幾分、鈍るのじゃなからうかというようなことも考えさせられる云々」と。

 右観察の適否を現戦場において観るに、すでにしばしば述べたるがごとく志気、愛国心の点においては幾分、鈍った感はあるが、昔時と大差なしと認定し得るも、これら徳目と同等の価値を置くべき対住民道徳律においては、物質的進歩のために(多分それが最大原因ならん)大いに低下したと嘆ぜざるを得ず。

 

    昭和14.7.18

 去月中旬、我が南京総領事館において支配人ボーイが宴会開始の間際、酒の中に毒薬を投じて逃走し、これかため主客に死病者を出したる事件発生せしが、該ボーイが逃走先の上海より南京総領事に充てたる書信に、「自分は永年、日本総領事館に勤め、親切に取り扱われ感謝しあるものなるが、南京攻略戦のとき自分の家族らが強姦·暴行を受け、恨み骨髄に徹し、当日、日本軍司令官が来客中にあるを知りて報復せしものなり」云々とあり。

 

    昭和14.8.22

 神武天皇は御東征、大和に入らせ給ふに際し、国つ神をも天つ神とともに合祀せられ給えり。先住民族に対する差別感を持たせ給わざりしことを拝察すべし。また皇軍に抵抗したる饒速日命が一たび降伏するや、これを御許しになり、御親兵として採用せられ給えり。物部氏の先祖、すなわちこれなり。

 神皇功后の新羅征伐や、豊太閤の朝鮮役における戦地民心把握の制律は、聖戦本義の遵守と見るべし。

 中国の歴史を観るに、清の太祖[→ホンタイジ]は錦州招[→松]山の役に於て大いに明の大軍を破り明将洪承疇を捕へたるが誠意を以て之を説服し、後、大いにこれを用いて利あり、その他、清軍は不焚不犯不敎[→殺]の禁令に徹し、政治面に於ても多くの明人を登用し、民心を宣撫して王業を樹立せり。

 後漢光武帝前漢末の諸将を降し、赤心を推して人の服中に置きしかば、諸将も遂に心服して帝を補け、大業を成立せしめたり。

 また唐の太宗は至誠以て民心を把握し、王業燦として、白楽天をして即不独善戦善乗寺以心感人人心帰と詠はしむるに至れり。

 然るに今次の事変出兵は如何。民を敵とせず聖戦なりといいながら、民心把握に関する大経綸なく、伝統の神武精神も没却せられたり。大業の成り難き、宜なりと謂うべし。

 

    昭和14.11.23

 忠君は日本人の信仰なるの一例。歩第十三連隊某上等兵の手記の一節に曰く、「自分は何時も立哨する前、必す東は何方かと見廻し、暫く瞑目すると妙に心がせいせいする様だ。自分は信仰とては無いが、出征約二年これを続けて来て、東を拝することが信仰となつた。そして持場に立哨するときは、ここが墓場だ、いつも美しく潔めて置こう、そう心に決めてから、いつも陣地は清潔にしていた。云々」と。彼はその戦死に臨み、気息奄〻戦友に請い、東を拝ませて呉れ、俺は万歳を叫ぶぞとて、遂に瞑目せりという。


    昭和15.1.7

 来支那人居留民悪徳例(軍に跟髄せしもの)
 漢口にては勝手に支那商店を占拠し、その所有者帰還に際して保存料として多額の金を捲き上げ、あるいはせの金看板を隠し置き、三百元を受けて返戻せし者あり。

 上海虹口にても勝手に支那商店に浸入占拠し、一、二百円の雜作をなし、所有者帰来に際し数千元の雑作料を請求せし等の不法者少からず、各地にて恣に支那人住宅に入り込み、家主帰来後、極めて低廉なる家賃にて強制的にそのまま永く居住を継続せし者あり。

 かかる徒輩多くして聖戦本義に徹せんとするも得べからず。

 

    昭和一四、一一、一八

 新聞雑誌や内地より来訪せる人士の言を総合するに、内地における社会情勢裏面、概ね左のごとし。

(イ) 農村は一般に緊張しあるも、大都市においては戦時的緊縮を見ず。

【p.34→】

 百貨店、娯楽場、花柳界等は却って殷賑を極む。

(ロ) 経済統制物價価統制等により国民生活は相当窮屈となりしも、闇取引盛んにして、国家よりも自己の利に汲々たる奸商横行す。

(ハ) 戦争すでに二年半を経、財界、知識階級の内部には厭戦気分漸く盛んとなり、当局の事変解決能力を疑い、ノモンハン敗戦のデマと相俟って反陸軍風潮、漸く台頭し来たる。

(ニ) 国民の自主的結束運動は起こらず、国民精神動員の成果も挙がらず、政府が事の真相を国民に知らしめざるため、国民として協力の法無しと非難する者多し。

(ホ) 欧州戦勃発後の対外政策について、表面上はいまだ白紙状態なるも、裏面、底流としては英米接近を可とする伝統派と、ソ連と結んで事変を解決するに努むべしとする派と、独伊枢軸と合併せんと欲する派と、それぞれ対立しあり。

(ヘ) 各界、特に政界に卓越したる人物なく、内外情勢の緊迫に際しこれを打開すべき目途立たず、政治の現在ならびに将来を悲観する者多し。

 予ら第一線人として、まず下より盛り上がる国民の総団結を切望するものなるが、これなくしては困ったものと思う。

 

    昭和15.1.19

 満州事変以来、国民の表裏言論を通観するに、国民性欠陥の一つとして「批評好き」「当局者にけちをつけたがる」の弊あるを認めざるを得ず。而かもその批評は破壊的・悲観的にして、建設的のものなし。満州建国の際のごときも前途悲観の言論批評滔々たる有り様なりしも、事実、立派に建設せられたるにあらずや。

 本月号文芸春秋の「話の屑籠」の一節に、

最近海外から帰ってきた知人の話に、日本ぐらい新聞や雑誌が内閣のアラ捜しをやる国はないだろうといっていた。内閣がいくら変わってもそんなに有力内閣の出現しそうもない現状では、現在の内閣を支持鞭撻して事変の解決に当たる方が国策に順応する道ではないだろうか。事変中に内閣が幾度も変わることは、それ自体、日本の弱体を世界的にさらけ出すことではないだろうか。

とあり実に同感なり。


    昭和15.1.20

 上海渉外係、宇都宮中佐の報告によれば、最近上海において我兵の欧米人殴打四件に上り、対米折衝に悪影響を及ぼしありと。漢口においても数日前、我が歩哨が些々たる事にて日本留学出身の市政府建設局長を殴打し、同局長を憤慨せしめたる事件の発生あり。

 右は言語の不通、風俗習慣の差異等、多少斟酌すべき余地なきにあらざるも、要するに我が兵の国際観念の欠乏、神武精神の忘却によるものなり。第1回上海事変においても、毎日のごとく上海において我が兵の第三国人に対する不法事件起こり、我らをして日本兵は国際都市に駐屯するの資格なしと嘆ぜしめたることを回想す。

 そもそも軍隊の外征または邦人の海外進出に際しては、何を措きても神武以来の仁慈精神、敵国人愛撫、対第三国人心得等を十分に教育すること緊要なり。

 

【p.37→】
    昭和一五、二、二五(漢口㐧十一軍司令部)

 一昨廿三日師団参謀長会同の際某参謀長の報告に「縱令戦闘上の必要に基きたりとは云へ家屋を焚きたる土地にありては其后如何に宣撫に努むるも其効無く之に反し家屋を焚かす略奪强姦など皆無宣撫愛民の行き届きたる地方に在りては敵の攻勢作戦時と雖も住民は我に対する好意を続け我必要なる物資の運搬等手伝つてくれたり而して前者の場合には敵襲に際し住民は敵に通して作戦上我に不利を来せしこと勿論なり、今更ながら軍司令官の愛民方針を遵守すへき必要を痛感せり云〻」と

 昨廿四日某兵団に到りインテリ兵の感想談を聴く其結言に曰く斯くの如く戦つた一ケ月を顧みますと実に感慨無量であります純白なる雪に浄化された兵隊の心は戦友を思ふ涙ぐましい友情のみてありました私は一兵であります兵なるが故に総てを支へてゐる一分子であると思ひます厳粛なる使命の前には尊く逞しい日本人てあると思【p.38→】ひますどんな逆境にありとも出来ぬことはない神必す吾等を助け給ふといふ自信に似た信念を植え付けられた氣が致します 辛いとか悲しいとか嬉しいとか云ふ感情は無く唯一つの任務を終へますと心の底より湧き出る微笑を禁し得ませんでした幼稚な満足感かも知れませんがこれに十分満足していましたと

 

昭和一五、七、一二(東京)

 最近の某日東京駅にて出征兵を見送る二十数名の一団が軍歌を唱ひ萬歳を叫んで其行を壮んにする光景に接す然るに之を囲繞目撃する二、三百の民衆の態度は宛かも街頭の見世物を観るが如く唯見物するのみにして萬歳にも和せず軍歌にも加はらず眞に別世界の人間然たり、知らぬ顔の半兵衛なり、我国民性の缺陥たる公共道德社会道義の缺乏を如実に見せつけられたり

【p.39→】
    昭和一七、六、六(北京北支那方面軍司令部)

 頃日熟ら思ふに批判好き噂好きは実に日本国民性の欠陥の一つなり新聞雜誌は良い点のみ揚けあるは戦時なるが故に余儀なきことなるがそれ丈裏面に於ては事の眞相は斯〻なりとか、総理大臣の私行は斯〻だとか内地より来る旅行者の云ふ所は悉く一致しあり現地に於ても実相に通せさる者が知つたか振りに暗黒面のみ旅行者に語りて得〻たる有様なり斯くして内地のこと現地のこと悉く批判のために批判し噂は噂を生み広く伝播せられ為に国民の志氣は昂らぬといふ次㐧なり

一年此方来訪者の云ふ所は予に対し閣下には近く新京に御榮転の由と洩れ聞きたりとか南京御転任内定確実なりとか云ふ類のもの多し誠に片腹痛きことなり

批判は進歩に役立つものなるか故に批判殊に建設的批判は可なり然れとも批判せんがための批判、破壊的批判は取らさる所なり人誰か落度無からん、此国家の重大事に個人のことを一〻穿鑿するが如きは大国民の態度にあらず少しは抱容を必要とす批判にのみ傾けは対立を生す【p.40→】抱容に失すれは不公正になる大乗佛敎の平等即差別、差別即平等の理に倣ひて批判即抱容、抱容即批判の域に達せんことを必要なりと考ふ

本月廿五日毎日新聞に左の記事あり

十八春大行作戦の従軍を終へて太原に引上けるときのことある二等乗客が「さあ此列車はいつ太原へ着くかな、全く東潞線は乗つたら最后汽車任せだからね」から始まつて脱線は御手のものだとか、最后には歩いた方が早いとか云ひ出した、すると隣に雜誌を読んでゐた若い下士官が頭を上げて「そんなら歩いてお出てになつたらどうですか、この東潞線を日夜匪賊から守るために自分の戦友も死にましたし何人となく戦死者を出したことでせう、あまり悪口は云へないと思ひます」と静かに語つたそばに居た記者も内心はたと膝を打つた(中略)

悪口を言つた乗客はすぐ席から立つて「誠に相済まぬことを言ひました」と心から詫びて廻つてゐたが、その態度は実に立派だつた、汽車に乗るにも皆んな斯ういう事実を胸に秘めて感謝の氣持て乗る【p.41→】ならば旅は一段と明朗になるだらう

右と同類実例は枚挙に遑あらず

 

    昭和一九、六、六(北京北支方面軍司令部)E

 予は今次河南作戦開始后間も無く隷下に対し特に洛陽附近の古代文化を保護尊重すべきを命したるが戦后の視察に依れは洛陽城外の古蹟たる白馬寺、竜門石佛、古憤[ママ]等はみな無事なりしも洛陽城其者は敵将か我降伏勸告に応ぜず激戦を交へたる結果大破壊を蒙りありたり

 

    昭和一九、八、二五(北京北支方面軍司令部)A

 北支三年内地より来りし邦人より聞いたり新聞雜誌記事等を綜合するに今次大戦に於て暴露せられたる国民性の缺陥として指摘すべき点既に述へたると同様なるが再言すれば左の如し

(イ) 個人道德、家族道德は立派なり最近隣組組織に基つく隣組道德も先つ立派なり然れとも依然として大衆の構成分子としての道德は【p.42→】不良なり路傍の人に対する同胞愛は頗る薄し汽車電車内等に於ける公衆道徳は不十分なり闇の横行毫も改まず、国家の存亡を前にして自利を計るに汲〻たる者多し
(ロ) 噂好き批判好きの悪弊は依然たり小磯内閣成立し一時之を謳歌したるも忽ちにして木炭車内閣、短命内閣と噂す、此内閣を極力助けて国難を打開せんとする熱意あるもの極めて稀なり
(ハ) 鍊成ということ流行するも(予の意見)、鍊成とは日本精神の再鍛錬を目的とするが如く、若し日本人にして児童時代其儘の精神思想ならんには再鍛錬の必要なき道理にて汚れたるものを洗濯することあり即ち鍊成とは思想刑務所とも云ふへくか〻ることを表面堂〻乃至は自慢らしく表白するは寧ろ恥辱なりと思ふ

 

    昭和一九、一一、一〇(漢口第六方面軍司令部)A、E

 予の漢口着任後、隷下指揮下部隊の軍紀、風紀上の失態頗る多きを聞きしが、その状態は支那事変勃発以来の通弊的非違を繰り返しあるものなる【p.43→】に由り、単なる訓示にては効果少しと思ひパンフレツト式標語式の訓示を印刷配布して座右に揭け毎日読誦せしむることとせり即ち左の如し

 統集団司令官五訓

一、 撃米愛民に徹し焼く犯す殺すを三戒とせよ

二、 衛生軍紀を守れ意到らすして病むは不忠なり

三、 行衛不明は最大の恥辱なり兵器を喪い鞍傷を作るも亦恥と知れ

四、 德義は無形の戦力なり友軍部隊には情誼を尽せ

五、 資材弾薬を愛護節用せよ、強き部隊には無駄弾なし

 

    昭和二〇、九、一八 (南京総司令官)

 環境の激変に際会して暴露せらせるる日本国民性の缺陥とも云ふへきことを此頃考へさせられる

(イ) 日本国民は統制ある軍隊と雖も環境の激変に際してはパニツクの感受性相当大なり先月十五日乃至十七日内地陸軍に於ては米軍直に上陸し来るとの謠言盛んに起りて一大パニツクとなり大本營の【p.44→】衛兵憲兵等数百名は勝手に解散し(其大部分は后日帰来す)省部各課員はあわて〻極秘機密書類を焼きたる為後日復員等の為に必要なる兵籍等までをも消失す此パニツクが如何なる範囲に及ひしやは明らかならさるも確実に其影響を受けたるは㐧六航空軍なり即ち同軍参謀は急遽各地部隊に飛んて復員解散を命したるに由り騒きは一層甚しくなり将兵は勝手に自動車を操縱して帰郷し糧食被服の大量を同時に持去りしものもあり、飛行機の部分品を盗み出せるもののもあり各部隊は自然に解散し飛行場の機能は停止せられ一部堅確なる部隊長は敢然として耺に留まりしも其耺を続くること能はず、要するに航空軍なるものは命令に基かずパニツクに基きて自然に復員するに至れり
海軍側に於ても一部此パニツクによる自然解散ありしが如し

それにつけても関東震災に於ける所謂鮮人来襲云〻の大パニツクを囘想せさるを得す、当時予は東京戒厳司令部参謀なりしが九月二、三日頃より鮮人武装蜂起来襲の謠言横浜方面に起り忽ち関東【p.45→】一面に伝播して一大パニツクとなり東京市民は全く無秩序無統制となりめいめい勝手に武装し最寄の鮮人を捕へて殺傷し街頭到る処交通遮断して拔き身の刀を提けて夜警に当るといふ状態を予は目撃せり

世田ケ谷の市民は大挙して同地野砲兵旅団長を訪問し多摩川方面に対し鮮人拒止威嚇の目的のために空砲を発射し以て人心を安んせんことを迫り旅団長は再三拒絶したるも民衆の暴動的要求に堪へす遂に空砲を空射せり、然るに世田ケ谷附近の人心は是に由りて一安心したる代りに青山方面の人心は此砲声を聞いて鮮人来襲の謠言の眞実化となり騒ぎは一層甚しくなりしなり

軍部に於ても右の外立川航空隊の連絡将校が陸軍省に出頭して八王子方面より来攻する鮮人部隊に対し防禦するため兵隊の急援を眞顔にて請求するを見たり又習志野に在りし騎兵旅団長は「旅団は市川の線に於て敵を拒止せんとす」といふ作戦命令を下達せること后に至り判明せり

【p.46→】

予は九月四日市中巡視の結果事の容易ならさるを認め意見を具申し翌五日を以て市民の所有する一切の武器を一時警察に取上する戒厳命令を見るに至れり

警視庁は市中の善良なる鮮人二百名余をトラツクに乗せて遠く群馬県方面に避難せしめたるに埼玉、群馬両県境に於て群馬県警察官は県令により鮮人の入県を極力阻止し埼玉県側は東京府よりの転送を主張し荏苒時間を費やしある間、忽ち附近の農村は排鮮人暴動を起し手に手に鋤鍬その他の兇器を携へて此等鮮人を急襲し埼玉県警察官は之を制止すること能はず、激昂したる暴民は次て敵に加担したりとて熊ケ谷警察署を包囲するに至れり当時長野県方面より東京へ転送中なりし部隊の歩兵一中隊は偶〻熊ケ谷駅に達して以上の事実を知]→り急き電話を以て東京戒厳司令部に急報し来りしに由り電話に出てたる予は直に同中隊長に即時下車警察署を急援すへき旨を命したり、本件(詳細省略)は事余りに重大なるに付内務省、司法省と連絡したる上暗より暗に葬ることとせり

【p.47→】

戦場に於ても我軍は戦闘に大敗せること無きを以てパニツクの実例はなきも小パニツクは屢〻其例を見たり「敵襲」云〻のパニツクが暗夜部隊を混乱に陥れたる如きことは少しとせす

(ロ) 次に今次終戦に際する居留民の淺ましき態度に就きては数限りなく見聞きする所なるか今日までに知得せる主なる事項左の如し

(A) 満州より数百の居留民南京に引揚け来り金子に困るとの事なりしに由り総領事館より計数億元の儲備券を支給せしに此等居留民は内地へ送金手続開始と聞くや銀行、郵便局に殺到せり、持つてゐながら持たぬと言ふ者淺ましき者多し

(B) 軍より約三ケ月分の糧食其他を居留民に交付せしに之を市中に賣却せし居留民あり、現に上海虹口に於ては中国人にして街頭に我陸海軍需品たること明瞭なる物品を鬻くもの少なしとせすと云ふ

(C) 上海、南京の一流料理店に今尚ほ日本人の出入りする者相当あり、酔餘俗歌を高唱する故の如し、中国人中に日本人の誠意なきを【p.48→】罵るものあるは無理からぬ次㐧なり

(D) 最近上海の街頭にて傲然たる某日本人の態度を米兵に発見せられ裸にされて着用衣服を見物の中国人に頒与せられたる事例あり

(E) 在上海財界老先輩にして親日家たる周善培はその信頼せる某邦人に漏らして曰く終戦となるや日本の中小会社社長連 陸続として来訪しその会社を予の名義に書き換えて運営を継続し利益は之を折半せんと申し込む者多きも予は悉くこれを謝絶せり多年親日を標榜する予も今日ほど日本人を見下けたることなし云〻と

(F) 北京方面には邦人にして重慶側先遣の参謀、小役人等に運動して残留の耺を求め中には従来の我軍の措置を非難してまて中国人の甘心を買はんとするものあり

(G) 張家口を急遽撤退の際我公使館員は最先に脱出し而かも天津附近終結后尚ほ營業中なりし日本料理店に連夜此等館員が思[ママ]出したりとて引上居留民は大いに憤慨し形勢不利となり此等館員雲隠【p.49→】れするに至る

(H) 南京民団の相談所に来る居留民の相談事項は悉く利己一点張のことのみにして此際一銭にても損をせざる方法を相談に来るもののみなり之がため同所当局は聊か愛想をつかして誠意も乏しくなり又相談申込の居留民側は当局が不親切でありと罵り見苦しき泥仕合を演しあり

(I) 南京某妓楼主は商賣止みたりたりとて四名の妓を街に放逐し此際一食分の携行も許さず、忽ち路頭に迷いし妓等は総領事館、民団に泣付きたるもあまり相手にせられず乞食同様となるとの投書あり

(J) 航空会社南京出張員は終戦と共に会社の大型機にて家族、家具等を内地に運ふに専念し公務を怠りたり而して出張所宿舎建物を引払ふ最后の夜は痛飲放歌、借家なる家屋を破壊せり

(K) 南京居留民の一部 鉄道により上海へ引上げの際並残りの居留民全部か下関集中營へ移転の際の状況を見聞きするに公共道德は【p.50→】零にして「自己さへよければ」の態度に出つるも比〻として皆然り

 

    昭和一三、九、二七(㐧十一軍司令部)

 㐧百六師団か先般德安西方馬鞍山附近に於て優勢なる中国軍に包囲せられ悪戦苦闘し多大の損害を生したるが戦場掃除の結果に依るに孤立全滅せる我歩兵一中隊の将兵の遺骸は中国軍の手に於て武装其儘鄭重に埋葬せられ将校の軍刀も其儘納められありたり、近く我と対 戦続行中此措置に出てたる中国軍の東亜道義は敬服すべきものあり

満州事変長城戦后古北口附近に於て我歩兵㐧十七聯隊は中国軍将兵の遺骸を鄭重に葬り中国将士之墓と表示し置きたるが後年中国軍某旅長は現地に至りて其部下の遺骸に対する日本軍の好誼に感激し当時既

に内地に帰還せる歩兵㐧十七聯隊を遙々と秋田に訪ひて其好意を感謝せることあり、双方とも其行為嘆賞すへし

【p.51→】

    昭和一四、二、二〇(㐧十一軍司令部)

 十月初㐧二十七師団が箬渓附近占領の際敵郵便物を押收点檢したるに其将兵の家族知友に充てたる親書の内 容は我日本軍の状況、一死報国の覚悟等を述ぶるもの多く私事に亘るものは少かりきといふ、又今次大㐧百一師団に反攻し来りし敵将兵戦死者の遺骸に就き其家郷よりの来信を檢したるに父母が出征者を激励し国家民族の為に勇奮死に就くへきことを諭ふること我軍と異らすといふ

中国人の国家愛に就いて決して侮るへからすと考へさせらるるものあり

追記

一、「敗戦原因は結局誤られたる敎育にあり」「国民に何の欠陥もなし悪い軍閥に誤られたる也」などと云ふも事は爾く単純なるものにあらず敎育も軍閥も関係なき本質的欠陥に胚胎するなり

二、日淸戦役、日露戦争に於て我軍が東[ママ]紀森厳なりしことは英国宣敎師の「奉天三十年」に記述する所なり

【p.52→】

三、明治三十三年華北義和団事変に於て毆州諸国の軍隊か軍紀を紊して掠奪暴行至らざるなき醜態を示した間に独り我軍のみは秋毫の犯す所なく常に仁慈親愛の態度を以て中国の一般民衆に臨み彼等の衷心からの感謝をかち得たことは多くの外国人の実見に成る記述其ものが明白に立証する所なり(ウイール著淸見記[ママ]、北京落城)

四、北淸事変実見記(歐米人の手に成れる)多き中に代表的のものはB.L.Putnam Weale の Indiscreet Letters from Peking. George Lynch の The War of the Civilisations.

五、右前者の著者序に曰く、ヨーロツパの兵士等による北京掠奪の迫眞的な容赦なき描写は鉄の統制力にして一たび弛緩せんかすべての軍隊が陥る にきまつてゐる軍紀の頽敗を示すものであり(中略)軍事警察の絞架にしてすぐさま立てられない限り掠奪はそれに伴ふ凡ゆる暴行と共になほ兵士等の無上権として認められてゐることを思はずにはゐられないだらう

同しく曰く動乱の最后の一幕─全的な北京の掠奪─の描寫は、いかに【p.53→】劫掠への欲望があらゆる人間を有頂天にさせるものであるか、さうしてそれと手を組み合つて根こそぎの凌辱や殺戮の如き恐るべき行為へと人〻を駆り立てるものであるかを明確に示すものである

「右淸原陸郎訳 北京籠城下巻を読む要あり」

六、日淸戦役に於ける一例

大山㐧二軍司令官は軍紀の振肅に深く注意を払ひ、初めて遼東半島に上陸するや土民に対する略奪禁止の戒告と共に徴発心得十箇条を全軍に発し一面敵国民を綏撫する為には漢文の告諭を掲示し旅順口占領后は直に行政庁を置いて規則を発し更に施米規則を定めて窮民を救恤する等

 

【p.54→】

    昭和一三、七、一四(南京㐧十一軍司令部)C

 戦場に於ける人と人との折衝は㐧一印象か大切なり、平時に於ては㐧一印象か不良にても時を経るに従い互に性格を知り合い諒解を深めて却て親密になることもあるも、否な日本人間にては斯くの如き場合の方か多く且貴はれている程なるも戦場に於ては必しも然らず、それも同一司令部内、同一部隊内に於て起居を共にする間柄なれば概ね右と同一ならんも、上下各司令部耺員、他隊の者に対しては一たび会見して相ふれたる后は電話、電報や稀に会談する位なれは若し㐧一印象が不良なればそれか先入主となり容易に諒解に進み得るものに非す公務の折衝も円滑に行かさることとなる、㐧一印象は大切なりと云ふ所以なり

我等の上級司令部たる中支那派遣軍司令部主脳者が新しく動員して戦場に来れる我㐧十一軍司令部に対する心構えは右に述べたる点に於て敬服すへきものあり即ち我等上陸の㐧一歩にて戦務倥偬たる幕僚幹部の大部は予等を出迎へて「待つていました」と誠意ある態度を示し、【p.55→】「岡㐧何号」と貼紙せる自動車四輛を準備し派遣軍司令官畑大将以下に面会しても同じく誠意を以て懇切に談してくれたり

予は右の趣を直に予の部下幕僚に告け之を将来見做[→倣]うへきを命したり

 

    昭和一三、八、二五(九江㐧十一軍司令部)C、E

  部下や他人の働らきの眞相を公正に認むるということは活眼と経験とを要するものなり、昨日波田支隊より瑞昌を占領せる旨電話報告ありて、我幕僚は右に関する上司への報告案を特に予の決済を仰きしに来りしにより元来予は事務上大綱主義を秉り公文書などに筆を加えたること皆無に近きにも拘らず「波田支隊は㐧九師団の一部と協力し」と十一字加筆せしめたり、蓋し波田支隊に続いて㐧九師団か前進し一週間前より瑞昌附近の攻撃続行中にして既に波田支隊は瑞昌附近の要点たる某東方高地並北方高地を攻略したるを以て一小城瑞昌の占領の如き問題になすに足らさるも現時の通弊として㐧一線将兵も銃後の国民も兎角都市占領を重大視し一番槍部隊などと喧伝せられ相当の影響を及ほす状況に在り、又電話直通の便ある波田支隊の報告に隣接㐧九師【p.56→】団の活動を併述して来らざるは日本軍の日露戦争以来の惡習の一つなりとも認めめ[ママ]られさるに非すと思い加之㐧九師団の担任方面のことなども考えてかく修正せしめたるものなり

 然るに後に至り果して瑞昌城は㐧九師団歩兵第三十五聯隊の一部が占領したることを確認せり

 人の働らき殊に二人以上の同一目的に対する働らきの真相を究むるということは人の上に立つ者として必要にして且困難なることなり

 

    昭和一三、九、七(九江㐧十一軍司令部)C、E

 予は聯隊長時代以来部下運に惠まれ大故無く昇進し来りて今日に到りしが、此間統御の骨(コツ)に就て多少会得したる所ありと信す、部下が醉余の直言、その感謝の辭や或は間接に予の耳に入れる所を綜合し自惚れながら大体に於て今日まで到る処部下の信頼を贏ち得たりと確信す、

右に関して予の統御上に於ける体験を追想し尚ほ他人の言動や読書修養に依りて得たる所等を綜合し統御上必要なる性格、德目を挙けて今後の参考となさば左の如し

【p.57→】

(一) 廣量 

部下の言を容れ、其立案は細部に干渉せず

(二) 忍耐と恕

但し人事に関しては時として細部に注意を要す

(三) 誠意と熱情

感謝の念、同情思い遣り、人の和を重んず、

公私の別を明らかにす、率先苦樂を共にす

(四) 明朗闊達

(五) 決断と勇氣

(六) 対局に立つ識見

部下幕僚は事務多忙を常とするを以て大局を顧みる暇無きか常なり上に立つ者は特に此点に就て修養練磨を要す
 

    昭和一三、九、一二(九江㐧十一軍司令部)

 統御に細部干渉は禁物なることは既に述べたるところなるが、補佐者は事務多忙なるため人情の機微に関することは細部の事と雖も統御に大影響ありといふことに思い及はさるものなり此点に関しては統御者は自ら細部なりとて指示し実行せざるへからす

【p.58】

九江に於ても左の如く既に二、三の例を挙げ得べし

1  遺骨参拝、病院患者の見舞等補佐者の提言を待つていては時機を失すること多し自ら発言するを要す

2  糧秣收蒐補給担当者は現地に於て得たる生野菜、鷄卵等を優先的に病院患者に供給するという同情心に乏しきを指摘せり

3  出張の際必す先つ傷病者を見舞はんとする計画は補佐者の氣着かさること多し
 

    昭和一六、一二、二九(北京北支方面軍司令部)

 一方の部下の為には大に悲しむへき事か起り、他の部下の為には大に祝ふへきことがありと云うようなことが同時に同一場所に生じ悲喜交〻 至るとき如何にすへきやと一寸迷うことのあるは多数の部下を有する者の屢〻 遭遇する統率的悲哀なり、予は屢〻 斯くの如き心的場面に遭遇したるか十二月四日徐州に於ても同様のことを經験せり、

即ち嘗て三たひ予の直接部下たりし楠山少将か昨三日此徐州にて飛行【p.59】機事故の為突如陣沒し本日予は陸軍病院に到りて其英靈を拜し又是日此地に於て櫻井兵団の合同慰靈際ありて之にも列席燒香せしか抑〻此兵団は創設時中支に於て予の隷下たりまた最近は北支に於て予の直属隷下たり 其戦功赫々たるものありて今特に支那戦線を去つて遠く南方に転戦せんとす緣故深き予としては大盃を挙けて其行を壮んにさせるへからさる感情に満つ、さりとて悲しみの本日を避けて祝いを明日に延期することは予の公務上の時間之を許さす、是に於てか予は是日夜櫻井兵団の幹部を招き祖道の宴を設け「我等は暫く戦友に対する悲哀の情を忘れ大に前途を祝うへし」との挨拶をなして愉快に彼らを見送ることを得たり

 

 

    昭和一四、四、二一(漢口㐧十一軍司令部)F

 近来の中国青年思想動向に関し予の見る所左の如し
淸末に於いて独善化、化石化せる儒敎思想は阿片戦争以来歐米物質文明の威力の前に其権威を失し爾後輸入思想の汎濫に彷徨せしか孫文三民主義は一応封建制より資本主義制への移行期に於ける思想の混乱を統一せる観あり

然れども其后国民党は三民主義を適正に運用すること無く専ら排他的民族主義を强調して国内統一の方便となせり此間に乗し㐧三インターは巧みに日本帝国主義打倒の看板を揭けて頭を抬け来れるなり

抗日主義は国民党に於ては幾分の三民主義中の民族主義適用を見るも共產党に於ては党勢拡張の方便として最大の目途を有す

然るに支那事変以来は和平地区に於ては勿論抗戦地区に於ても徒なる【p.80→】排他的民族主義を反省し孫文の大亜細亜主義を囘顧するの傾向となれり重慶に於てすら其同盟国たる英国に氣兼することなく公然東亜民族の解放に関する論議を呈し印度に同情の態度を示すものあるに至れり抗日に徹底せる青年将校の俘虜に就て見るも傲然として抗日の主張を改めさるも事一たび東亜解放の問題に及へは即ち歐米の桎梏より脱し中国の植民地状態を復興すへしという点に於ては我に共鳴するもの比々として皆然り
要するに現代青年は排他的民族主義の旧殻より観念的に禪脱し得さるも東亜解放を意図するの方向を取りつゝあることを看取せられ当分尚ほ思想的混迷を継続すべきか

 

原文:

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/07/135529