Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれた。 石井光次郎『回想八十八年』より 1923.9.1深夜


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警視庁編『大正大震火災誌』(1925年)より
(三)震災当時の幹部
官房主事 正力松太郎
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1748933/41

 

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関東大震災に遭遇

 大正十二年 (1923 年) 九月一日、大震災が発生した。私は、滝山町(銀座六丁目)社屋の四階にいた。大変な揺れ方で、机につかまっていても倒れそうになる。外を見ると、大きな日本料理屋の屋根がわらが、ザーッと一気に落ちて行く。すさまじい光景だった。
 これは大変なことになったと思ったが、そのうち、地震は少し治まった。社内の様子を見ると、活字棚はみんな倒れ、機会は停電のため回らなくなっていた。新聞は出せそうもないが、ともかく、社を守らなくてはならない。私は、社内全員に「独身者だけ残れ。家族持ちは、家がどうなっているかわからないから、一応帰れ。無事であったなら、社に帰って来い。ただし、社屋が安全かどうかはわからない。この付近で一番安全なのは、二重橋の所であろう。社屋が危ないときには、二重橋のまん前に避難するから、そのあたりを捜せ」と指示し、家族持ちは帰した。
 独身者は、かなりいた。私は総大将として、その連中の指揮に当たった。
 そのうち火事が広がり始めた。斥候を出して、様子を見にやると、もう新橋のあたりまで燃えているという。夕方六時ごろには、朝日の周りまで、日の手が伸びてきた。かわらが落ちているものだから、屋根のあちこちに、ポッポッと火がつく。社の裏に、平屋の低い家が数件あった。私は、四階の屋根の上からメガホンで、下の若い者にどこに火がついたかと知らせる。こういうときは不思議なもので、若い者は、台もなにもないのに、ひさしにパッと飛び上がったものだ。そうして火をもみ消している。こっちについたぞというと、またそっちへ飛び上がって消す。こうして、懸命に消化作業を続けたが、ついに火に囲まれてしまった。見渡すと、銀座方面だけ火がない。新橋駅のほうから滝山町にかけては、ずっと火の海である。こうなっては銀座の通りに出て、どこかの橋から丸の内に入るよりほかにしようがないと思った。全員を集め、「もう危ないから、みんな引き上げよう。持てるだけのものは持って行け 」 と命じた。
 社屋を放棄して、一旦銀座に出て、読売新聞のそばの橋を通った。社屋から一番近い数寄屋橋は、もう焼けていて通れなかった。途中、いろんなものが捨ててあった。逃げるときに持ち出したものの、持ちきれなくなったのだろう、蒲団まで捨ててあった。まだ飲んでないサイダーのびんが、何本か転がっていたので、私はそれを両手に拾って、二重橋の前まで行った。若い者にも落ちているものを拾って来いと命じ、二重橋の前で布団を敷いて、ひと休みした。
 日が暮れようとするころ、陸軍がテントを持って来た。軍人のところへ行って、「朝日新聞です。テントを貸してください」と交渉し、もらい受けた。私は、そのなかへデンと構え込んでいた。そのうち、下村さんも駆けつけて来て、いろいろ指図をしてくれた。
 さっそく、大阪に通信を出さなくてはいけない。しかし、交通関係がどうなっているか、不明である。警視庁や、ないのになどに聞いてみても、どこまでどう行けるのか、全然わからない。とにかく、あらゆる機関を臨機応変につかまえて、大阪本社へ連絡員を出そうということになった。ところが、金がない。
 いつも、銀行にお昼ごろ取りに行っていたので、当日も、会計の者が出かけたのだが、その矢先に、地震にあったわけである。
 だれか金を持っていないかと聞くと、米田 [まいた] 実外報部長が、いくらか持っていた。一人が、ポケットから出したぐらいでは、とても足りない。どうしようもないので、下村さんが、旧藩主の紀州の殿様の家に行って、借りてきてくれた。そこで、東海道、中仙道、東北の三道を、それぞれ二人づつ組んで、大阪本社へ向かわせるようにし、それまでの震災の様子を書いた原稿と、金を持たせて、出発させた。
 まっさきに成功したのは、東海道を行った組であった。その組が、横浜まで行って、ふと気がついたのは、陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだ。港には、大きな船があるだろうということで、そこへ行き、船から通信を出した。これが大阪への詳しい第一報になった。他の組も、時間は遅れたが、なんとかして、大阪本社へ連絡することができた。
 次の仕事は、朝日の臨時本部を作ることだ。夜中の十二時ごろ、私は社がどうなったか、伴 [とも] を連れて見に出かけた。並木通りなどは、みんな焼けている。どういうわけか、水道の水は出ていた。落ちていた布団を拾い、水をいっぱいかけて、伴の者と二人で、それを頭から被った。並木通りは、両側からの火気で、そうしないと通れなかった。息がつまりそうになると、しばらくかがみこみ、息ができるようになると、また進むというふうにして、とうとう、社屋の所までたどりついた。
 窓からのぞくと、火がチラチラしていて、熱くてたまらない。さっと引き下がり、またしばらくしてのぞきこむ。なかでは、新聞の巻取紙がブスブス燃えており、機械は燃えて、たれ下がっていた。これはとてもいかん、巻取紙は、ほかから持ってくるとしても、機械の手配から始めなければならぬ、大変なことになったなと思った。
 帝国ホテルは焼けなかったので、一室を、早く借りたいと思った。夜中に、アサヒグラフの編集長、鈴木文四郎君を、使いにやって交渉させたところ、一番先に頼みに行った組だったから、幸いに、大きい部屋を二つ借りることができた。そこに編集、営業、庶務を入れることにきめ、その晩は、宮城前で夜を明かすことにした。
 記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。
「正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い」といいつけた。
 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰って来た者の報告では、正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
 そこにちょうど、下村さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正力さんが言ったのです」「それはおかしい」
 下村さんは、そんなことは絶対に有り得ないと断言した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことになりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こるということを予期して、そのときに暴動を起こすということを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」こう言って、下村さんは、みんなを制止した。
 私たちは、警察がそういうなら、なにかあるのかなと思っていたけれども、下村さんは断固としてそういわれた。これは下村さんの大きな見識であった。ふだんから、朝鮮問題や台湾問題を勉強し、経験を積んでいるから、そんなことはありうるはずはないという信念があったのだと思う。だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞の連中は、それをしなかった。
 しかし、食物だけはいろいろもらってきたので、私が、それを箱に入れておいた。「どこどこを視察して記事を書け」と命じ、それをちゃんとやって来た者には、ごほうびにサイダーとパンをやって、激励するというような事をしながら、一晩テントのなかで過ごした。その晩、政友会の森恪氏が自動車でやって来て、「震災見舞です」 といって、スイカを二つ持ってきた。余裕綽々 [シャクシャク] だなと思って、私は感心した。しかも和服だった。まるで別世界から着たような感じで、強く印象に残っている。
 私は一晩中編集の記者たちの指図もしていたが、翌日になると、編集の部長連中も出てきたので、このへんで交替してもらい、自分の家を見に行こうと思った。
 私の家は大森にあった。まだ水道管なく、私の家には井戸が一つあった。出が悪くなっていたので、井戸さらいをやっていた。だから当日は、家族の者は、黒門町の義母の所へ行っており、女中たちだけ残っていた。当時長女の京が満三歳、次女の好子はようやく満一歳で、ヨチヨチ歩きをしていた。女房のおなかには、長男の公一郎がいた。心配でしようがなかったが、営業局長代理で経理局長である私は、帰るわけにも行かないので、地震が起こるとすぐに秘書の内藤直茂君に、「自動車に乗って、行ける所まで行って捜しだし、大森の自宅に連れて帰ってくれ」 といって送り出した。内藤君は久留米商業の野球選手で、甲子園にも出場した元気者なので、こういうときには大いに役立った。彼は後に朝日をやめ、銀座に「いわしや」を作って成功した。彼が黒門町に行くと、久子たちは広い電車通りに避難していた。メガホンで呼んで、ようやく見つけ、車に乗せてなんとか抜け出し、大森海岸まで行った。ところが、海岸から先は、車が通れない。そこで、人力車を一台捜し出して、久子と好子を乗せ、内藤君が京を抱いて、海岸から大森の家まで歩いて帰った。家は幸い無事だったので、やっとそこへ落ち着いた。
 私は内藤君から、ここまでの報告を聞いていたから、社の者が二重橋前を引き上げ、帝国ホテルに移ったのを見とどけて、九月二日の夕方家へ帰った。
 家につくと、「朝鮮人が、六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」 ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、「こういうわけだから、今晩は帰社できない」 と言っておいた。
 下村さんの話を聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川に集まっているというから、われわらは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」 と叫んでいる。
 バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人々も、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。
 そのうち、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」 などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそう言ってるし、騎虎 [キコ] の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが、何事もなく、ときどき、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。
 翌日から、私は帝国ホテルに戾って、また指揮をとった。記事は、大阪へどんどん知らせた。しかし、機会は火事で全部使えなくなっている。活字もみんなだめになっている。そこで、東京市内の印刷屋を回らせ、活字を買い求めたところ、ある程度は集まった。また、よそからの注文を受けている機械だが、朝日新聞なら、先に回してやってもいいという印刷機械屋がいたので、マリノニ印刷機の予約をした。しかし、それも、月末ごろでないとできない。焼けたものを、なんとか修繕できないかと聞くと、月末ごろには直るかも知れないということとだった。みんなが、朝日新聞優先でやってくれたおかげで、九月末には、新しくできた二、三台の機械と、古いものを修繕した文とを、試運転するところまで漕ぎつけた。
 震災の日以後、それまではどうやったかというと、大阪本社は、高速度輪転機をもっていたし、紙数を増すことも自由だったから、全部大阪朝日が刷り、その分を、東京から北海道まで送った。一日遅れになる所もあったと思うが、とにかくこれでカバーした。震災後も新聞が読めるということで、読者から喜ばれた。

石井光次郎『回想八十八年』(1976年、カルチャー出版社)p.200-p.202