8月15日
8月15日には参謀副長上村大佐と協議。松井軍司令官、親任式後申告。その際、希望事項として述べられたるところ、次のごとし。
海軍、ことに航空隊との指揮関係。
現地外務省官吏に勝手なことをなさしめざる処置。
軍司令部嘱託または兼務者を置くこと。
この作戦は某時期に宣戦を布告し徹底的にやらざるば依然、禍根を残す。海岸封鎖も有効な手段。
各国軍隊と協調、リードするため英語に達者な少将級を部附としたし。
大使館附武官、特務期間との指揮関係は如何。
8月16日
さらに宣伝謀略のため海軍の犬塚大佐を兼務せしめ難きや。あるいは佐藤安之助少将を嘱託としてはいかん。安江はいかん。との相談あり。
すでに敵地にある幕僚のほか、本夜、芳村参謀、桜井第14碇泊場司令官先行す。
軍司令部兼海軍参謀、11D兼海軍参謀に会ふ。(根本参謀は11D附に決定して達して置いた。)
みどり筒に関する指示
3Dを11D大隊に併立上陸の件
下流より上流へ上陸点変更の件能否 先遣参謀集結の方法
企図秘匿·偽騙の方法·手段
陽動の件
催涙筒使用は別に指示すとあり、これに関し石原少将に意図を確かめたるに、結局、第一線にて適宜、発煙筒を混用する程度に使用やむを得ざるべし。
海軍は国際都市にてこれが使用を嫌ひあり。
なほ敵にはガスの準備ありやの情報あり。
我が催涙筒を使用したるため敵にガスを使用されては少々困る。
8月17日
午後、海軍松田参謀より上海方面戦況説明(司令官以下)。特陸4,500。本朝、旅順の2大隊、佐世保2大隊を急行せしむ。
海軍艦艇航空部隊の配備説明
5戦隊「足柄」三木少将
作戦主任代理、川上少佐より作戦要領説明
〈軍司令官の意見〉
軍司令部の編成。少将を長とする宣伝部、陸海軍より各2名位、ほかに軍人以外の嘱託。
海軍陸戦隊の指揮系統不明確なり。
将来の状況の変化は、爾後、陸軍を増派し徹底的の戦果を収めざるべからざるに至る公算大なり。北支にいかに兵力を送るも根本的·全面的に解決し得ず、結局、南京攻撃を有利とすべし。
これがため山東は放棄し、中支に兵力を増加し、南京攻略は兵力をもつてのみやるにあらず経済的に封鎖するを可とす。故に宣戦布告を必要とす。
教育総監、次官は同意。
明17[→18]日午後、次長、第1、第2部長、総務部長列席の上、意見を述ぶ。正規3師、新設2師にて可なるべし。航空は台湾のもの全部。
〈17日午後、部長会報の時〉
〈経理部長より〉
糧秣120D分を、28/8~9/9までに3回に分けて揚陸。
水に関する機材を9月上旬までに揚陸せらるるも、その数は不足を来すと考へらる。
防毒被服は22/8搭載。甲28,000、乙9,000覆面、手袋、厚底足袋等
熱地用天幕6個
建築は技師2名技術若干あり、現地にて雇傭。
6万坪バラツク用材。内3,000坪は第1次現地徴収を実施しつつあり(三井物産にて実施中)。
冬営準備も北支とともに進行す。
建築輸卒隊も7Dにて編成せらるるはず。飛行場に輸卒隊使用の要あるべし。
〈軍医部長〉
給水の方法を指導す。
各種の錠、携帯用酸素等新らしき物も追送せらる。
持病のある方のため予め準備したし。
全般の情況、海軍、敵情の概況説明
司令部の出発予定(3回に分かれる。)
〈総務部長注意〉
北支部隊の暗号使用悪し。すなはち平文のもの、例へば新聞発表と同文句を暗号にて送る等の例あり。
8月18日
午前 勅語伝達 軍司令官の部員に対する訓示。
3D参謀長、11D高級参謀来部。
一般状況説明
Ⅲ/43i、BA1中藤本中佐、3Dの上陸掩護部隊、駆逐艦4に乗艦。
5iB片山少将、6i倉永大佐、Ⅱ/68i、P2小、IA(2中)、D司令部「羽黒」。
先遣隊の残りを戦艦にて追及せしむる案、協定中。
3Dは小栗大尉残る。12Dは22i長残る。戦闘上の注意(別紙)を師団参謀に達す。3長官招宴の席上、司令官の挨拶中、軍の任務に不満なる意味あり。中島総務部長から、作戦命令も勅語も手続きは同様にて、勅語も作戦命令と同様、作戦命令も勅語と同様のものにて、これを批判するがごときは不謹慎なれば、克く言ふてくれとのこと。補佐の足らざりしが原因。吾らが注意し、なほ機を見て申し述ぶべし。
〈18日午後3:00〉
次長、総務、第1、第2部長集合。
司令官 全般的対支政策についても報告したしと考へあるも、さらに頭を整理し案をねり、上陸直後、軍司令官の意見として申し述ぶべきも、意志疎通のため、今考へ居るところを申し上ぐ。
局地解決·不拡大案は放棄されたるにつき、作戦も転移順応すべきものと考ふ。
国民政府存在する限り解決出来ず。従来通りの姑息にては不可との政府の声明なり。蔣下野、国民政府没落せざるべからず。英米ソ国の関係あるも対支目的に邁進するを必要と考ふ。
日清戦役、川上総長の説にも、支那をして日本の言ふことを聞かしめたる後、初めて対ソ戦を起し得とあり。今なほ同じ様な考へを持ち得。
以上に応ずる自分の考へを成るべく少数の兵力にて作戦するを要するは勿論なるも、ある程度、断乎として必要の兵力を用ひ、伝統的精神たる即戦即決、北支に主力を用ふるよりも南京に主力を用ふるを必要とす。これについては結末を何処にすべきやの議論あるも、大体南京を目標とし、この際、断乎として敢行すべし。その方法は大体5~6師団とし、宣戦布告し堂々とやるを可とす。宣戦を必要とする理由は、対国内、次に対支上有利なるにあり。
今度の事件の起因も、支那人は「日本人はいいが、軍部が侵略主義なり」と宣伝し、信ぜしめあることに存す。
次に、武力のみにてやるは不可。経済的に圧迫す。
これらは勿論、諸君のすでに研究せられあるところなるも、この際、白紙に立ち帰り考究せられたし。
首相、外相も敢て反対せざりき。
自分の考へを参考までに。
小さき問題なるも。
軍はある作戦目的を達するまでは作戦一方にて可なるも、この作戦を容易ならしむるため宣伝·謀略を必要とし、軍に特別の機関を設け、海軍、外務一体となりてやる様に上海占領直後に出来れば最も可。
軍に直接関係なき事は外務関係にてやるとの指示にて現在は適当なるも、将来は軍司令官の一手にて握りたし。作戦を容易ならしむるため、進んで渉外事項まで軍司令官の手に握る。
これは勿論、作戦目的の変化に伴ふてのことなり。
次に海軍との関係。総長殿下より非常に御懇篤なる御詞を頂戴し感激するとともに、これならば大丈夫、協同は良好に行くと認めあるも、陸上作戦に移りたるとき、海軍航空隊が果たして従来通り積極的になり得るや疑念あり。故に少くも陸上に在る海軍は指揮下に入れられたし。
第二部長 宣伝についても相当の人を派しあり、原田少将も軍司令部附兼とし、楠本もあり、大体動く様に考へあり。
石原 今の作戦目的を達せられたる後、南京を幾何の兵力をもつて幾何月にて攻略し得るかを研究されたし。本部にてはこれらの資料少なし。今のところにては、昨年以来全然変化し不可能と考へあり。情報も入り難きものと思ひあり。個人としては、永びけば全体の形勢が危いものと考へあり。
司令官 意見の相違なるも尚研究せん。
次長 南京攻略の着想は誰しも同様なるも、具体的に研究すれば困難ますます加はる。
蔣介石はいかなる情況にて下野するや。
司令官 南京を攻略せば下野すべし。
次長 出来ないからとて努力せざるちあらざるも、予想の外れることも考へざるべからず。
司令官 山東はこの際、兵力を用ふる必要なし。
特設師団にても可。
次長 特設師団ならず野戦師団の素質も予想以外に悪し。まして特設師団においてをや。
司令官 今はまだ移り変りの時期も判らず、ただ参考までに考へを述ぶ。
石原 書類は墨守さるる必要は絶対になし。
確実第一主義 山東に出兵するは政策的にて約束ずみなり。
中島 本班長木村も派遣す。宇都宮も帰さず留めあり。
午後、8月15日午前1:10発表の政府声明を陸軍次官より通牒を受く。
10月15日
昨夜は2機宛にて4回空襲あり、本暁爆弾4広大飛行場および陸航宿舎に命中。海軍機1損傷、人員死傷なし。 外人記者の談に依れば3D正面に於て敵19Dと督戦隊と同士討せりと。
大平橋に落下し噴煙中の迫撃砲弾を持参、各種試験検査の結果、発煙剤にホスゲンを混入せるものなることを明確にし、2:00ごろ実験部長来て説明せり。なほ一昨日、3D正面に破裂せず黄色煙を噴出する弾丸を認めたる等、他にもこの種弾薬使用の疑あるものあり。
台湾飛行隊、本日午後到着。ただし軽爆1は途中不時着水せり。結局、到着せるは重爆6、軽爆9機なり。
上村副長101D司令部および102工藤旅団へ連絡、西部李宗橋に対し砲撃後突撃(午後3:00)したるも兵続かず、一旦退却せる敵兵再び陣地に就き50mの線に停止せり。本夜奪取を期す。103大隊長(吉川少佐)夜襲の際も大隊長およびその機関は難なく敵陣に入り、大隊長は煙草をふかし居たるも兵続かず、そのうちに敵より逆襲され、書記らが無理に大隊長を後退させたる途中、見失ひたり。したがつて屍体は彼我の中間にあるべしと。今日は全線、戦況発展せず。しかも特設隊の兵は指揮官の前進突撃に従はざること13Dも同様との話、慨嘆に堪えず。
10月16日
天候悪化するやに思はれたるも幸いに風強きのみにて大体晴。
朝会報のとき11D正面を攻勢に立たしむる件、および大体現在の線より総攻撃を開始するの必要あること、および近き将来にガス使用の必要を生ずるやも知れざるをもつて近日中にその意見を上申する考へなる旨を述べ、作戦指導については最初の案を放棄すべきを主張し、第1課長に更に研究を命ず。なほ本日、長中佐、11、13D、重藤支隊に実情調査と、13Dに老陸宅付近攻撃促進のため派遣、長中佐の性格および従来の行動より見て危険を冒す虞大なるをもつて、大体、師団司令部に止むべき注意を与ふ。
本日までに判明せる敵の総兵力70ヶ師に達せり。
新たに黄浦江内の警備に就きたる12戦隊参謀、内山旅団長、ガス厰長岡田宗弌、武官室に着任の士校中井中佐ら来たる。
101D、胡家庄南岸に占領せる敵を、四方よりクリークを渡り(午後4:00過ぎ)攻撃、1小隊にて突入し、午後10:00まで白兵戦を交へ、約300人を刺殺せり。その小隊長は予備少尉清水某にて、敵は疲労しヒヨロヒヨロなりしと。 中山旅団長は、大場攻撃は20日過ぎといふ判決を持参す。
長中佐帰来、荻洲中将の作戦上の意見·希望を聞き、司令官の御考へもありて、老陸宅付近攻撃に軍砲兵の協力、孟家宅攻略のためこれを13Dの地境内に入るること、および12Dの一部をもつて概ね現在線を守備し主力を集結する件の命令案を作ることを西原に命ず。近来西原は「どうでもせい」といふ様な気持になり、課長会報のときのことを課員にも伝へず、課員は課長会議にて作戦を決定せられあるがごとく勘違ひしありしとのこと。
今日も全線ほとんど進展せず。
12月9日 快晴
9Dの旅団司令部は高橋門に到着、砲兵も典開しあるも砲撃はなしあらず。第一線は正に飛行場を占領せんとする距離にあり。16Dの第一線は麒麟門付近において頑強に抵抗する敵を攻撃中。昨日3:30ごろ中島師団長負傷。腰部軟部貫通銃創にて、約2週間にて治癒見込。殿下より御見舞のブドー酒、煙草を持ち小出軍医を派遣さる。
芳村参謀より13Dを先に鎮江に渡河せしむるとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。
13Dに交代すべき12Dの民船数百隻は、13Dの受領遅しとして11Dはこれを全部解放せしめ、爾後の計画に非常なる齟齬を来しあり。非常も甚し。幕僚勤務上、大いに注意を要す。
芳村参謀、13Dの青津参謀と同伴帰部。江陰渡河および靖江攻略の概要を聞き、13D主力の爾後の渡江作戦等の打合せをなす。青津参謀はその予想渡河地点(儀徴対岸付近)の偵察および準備のため先行せるものなり。
1:30より作戦経過を第1課長より御説明。9Dの第一線は城壁の前方約千米内外に近接しあり。16Dは城壁より2里ないし4里の線に進出しあり。南京市街には高射砲、機関銃を配置し、市内主要道路には30m間隔位に兵を配置しありとのこと。
塚田少将一行来部。南京入城(攻略)法について、方面軍にては勧降状とか統制入城とか平時的気分濃厚なるため、軍司令官殿下の御気に入らず。
殿下の御意図として海軍に夜間の南京付近の支那船の爆撃要求(通信の関係上、間に合はざるべし)および16Dの有力なる部隊をもつて下関の退路遮断を処置す。
12月10日 曇り
9Dの36iは城壁外クリークの線に達しあるも、川幅広く壁高く、ついに昨夜は突撃できず。その他の正面はなほ外の陣地攻撃中。
勧降状は昨日正午ごろ撒き、本日正午が期限なり。
午前、第2、3課長の後方状況報告。
正午に至るも軍使来たらず、方面軍より攻撃命令下る。
5:00、36i第1中隊、城門に突入せり。さらに電話あり、第4中隊も突入し日章旗を振りつつあり。
3日間ばかり押田大尉と共にともに常州飛行場に到り、押田の操縦にて偵察に従事したる大内大尉[→大佐]帰来、南京付近の彼我の状況、および江北の地形、敵情を聞く。11D等の第5軍戦闘序列の命令下る(書簡)。 夜、衆議院慰問団11名来たり、殿下に拝謁仰せ付けらる。
12月14日 快晴
照空隊全滅の報は果たして虚報。若干の死傷ありたるに過ぎず。ただし昨日の司令部付近の先頭における我が死傷は、戦死、准尉2、その他10名ばかり、負傷、中隊長1、その他20名弱なり。
本朝、なほその残敵500、司令部東北側にあるを知り、19i主力をもつて全く包囲、投降せしめつつあり。
13Dの山田支隊は途中、約1,000の敗残兵を掃討し、4:30烏竜山砲台占領、高射砲および重砲10余門を鹵獲せり。
支那船5を爆沈せりと思惟せしうち、4隻は米国砲艦なりとして、艦隊長官、我が司令官に抗議を申し込れたりと。なほ英船1も砲撃により撃沈されたりといふ。
戦車大隊、麒麟門付近通過のとき、敵500ばかり南下するに会し、通信兵らを指揮し掃蕩せり。また南京東方地区より約1,000宛の捕虜2群、下関方向に移しあるを飛行機にて視たりと。
下関において独工1は機関車3、客車6、貨車38を鹵獲す。完全なり。
3:00ごろ佐々木支隊の1中隊は南京東北方において約2万を捕虜とせりと。また別に4列側面縦隊にて長径8kmにわたる捕虜を南京城北側に向かひ護送しあるを飛行機にて視認せりとの報告あり。
方面軍参謀長より電話にて17日入城式をなす考へにて、掃討せられたき希望ありしも、当軍としては殿下の御意図により無理せざるごとく掃討中にて、現況にては17日は不可能なる旨、返答せり。
天谷支隊は午後2:00楊州南門占領、数百の敵は東、北、西の各方面に退却中。山田旅団は午前11:00幕府山砲台を占領せり。
19iは軍司令部付近の総蕩を終わり(百数十名を掃蕩す)明15日、1大隊と戦車1中隊を残し帰還せしめらる。
人見大佐、掃蕩を終わり帰るにあたり拝謁、賜物あり。
12月15日
一部の兵力を大本営の使用に供し得ること
航空隊をもつてする要地の爆撃
101Dをもつて上海警備(方面軍直轄)
南翔(含む)以西を派遣軍}
~方面軍参謀長来部の話
以上の件および方面軍が入城式を17日と主張しあり、軍としては早くも18日を希望の旨、申し上ぐ。
殿下は入城式については無理をせぬこと、外国人に対し入場式の日時を知らせざること、防空を十分にすべきことを注意せらる。
野戦建築部長、木崎主計大佐来部、今回、方面軍直轄となる。
山田支隊の俘虜、東部上元門付近に1万5~6千あり、なお増加の見込みと。よつて取り敢へず16Dに接収せしむ。
4:00ごろ松井方面軍司令官、湯水鎮着、殿下に代わり報告に行く。このとき、入城式は17日に決定された旨、聞く。
13Dの状況、本日2:00ごろ先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第2梯団は揚州に入らんとするところ、第3梯団は渡江を終わり先進中、師団司令部は明日渡江。(電話本日開通)
六合占領部隊、58iの1大、山砲1中基幹は、明日、小発[小発動艇]20にて出発、明日午後6:30クリーク入口に到着、クリークを六合に向かふ予定。山田旅団(3大基幹)は19日、南京にて渡江。
長参謀、16Dと連絡した結果、同師団にては掃蕩の関係上、入城式は20日以後にせられたき申し出ありと、重ねて方面軍に事情を説明せしむ。(3D兵器、軍医、獣医部長、天王寺付近にて約500の敗残兵に襲はれ安否不明とか、草場少将、紫金山に登りたるときトチカ内より残敵出で来たりたるとかの事例あり。)なほ10:30過ぎ方面軍参謀長を訪ひ話したるも、頑として変更の意思なし。
↑南京戦史資料集Ⅰ(偕行社、1993年増補改訂)より