Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

松井石根『戦陣日誌』から(新漢字ひらがな表記) 1937.11.1~1938.2

昭和12年

   11月1日

《周宅に軍司令部移転》

 昨夜来、雨なりしも、今朝以来、漸次霽[は]る。
 午後1時、楊家宅司令所出発。新に大場鎮南方約2キロの周宅に移る。

《新司令部は上海市政府公立の助産教育学校および児童健康部にて、さきの呉淞水産学校はともに常に「産」に縁あるは端徴といふべし》

1.第9師団は朝来渡河を決行し、その右翼方面において、遠く上流屈曲点付近において漕渡により成功し、姚家宅、張家宅付近に向かひ、歩兵約3大隊をもつて地歩を獲得するを得たるも、左翼隊方面においては渡船、潮流に妨げられ、敵火の損害と相俟つてつひに中途に挫折す。

2.第3師団は右翼隊方面において歩兵3大隊注入し、漸次戦果を拡大しつつあるも、左翼方向の渡河はつひに断念のやむなき状勢にあり。

3.この日、飛行機の報告により、蘇州河対岸の敵軍退却の報あり。あるいは敵は上海放棄に決したるにあらずやとも考へらるるにより、第101師団をして蘇州河突破、およびその後における南市封鎖を準備せしむるとともに、新たに架橋材料1中隊を配属す。

4.右翼方面第13、第11師団変化なし。

 この日、方面軍幕僚を会し、派遣軍幕僚とともに方面軍今後の作戦指導方針につき研究す。大要、既往研究の範囲を出でざるも、第10軍の作戦方針は今後の情勢において多少とも変更せしむるの必要あるも、情勢未明なれば確定せず。

 しばらく第10軍司令官の注意を喚起せしむる程度に止むることとし、なほ研方針の決定も今後の情勢に応じ定むることとす。

 

昭和十二年

  十一月一日

《周宅ニ/軍司令部/移轉》

昨夜来 雨ナリシモ今朝以来 漸次 霽ル

午後一時 楊家宅司令所出発 新ニ大場

鎮南方約二吉ノ周宅ニ移ル

《新司令部ハ/上海市政府/公立ノ助產敎育/

 学校 及 児童/健康部ニテ/曩ノ呉淞/水產学校ハ/

 共ニ常ニ/「產」ニ緣/アルハ端徴/ト云フ可シ》

一、㐧九師団ハ朝来 渡河ヲ決行シ 其右翼方面

  ニ於テ 遠ク上流屈曲点附近ニ於テ漕渡ニ

  ヨリ成功シ 姚家宅、張家宅付近ニ向ヒ 歩兵

  約三大隊ヲ以テ地歩ヲ獲得スルヲ得タルモ 左

  翼隊方面ニ於テハ渡船 潮流ニ妨ケラレ

  敵火ノ損害ト相俟テ 遂ニ中途ニ挫折ス

ニ、㐧三師団ハ右翼隊方面ニ於テ歩兵三大隊

  注入シ 漸次 戦果ヲ拡大シツヽアルモ 左翼

  方向ノ渡河ハ遂ニ断念ノ已ムナキ状㔟

  ニ在リ

  此日 飛行機ノ報告ニ依リ 蘓州河対岸ノ敵軍

  退却ノ報アリ 或ハ敵ハ上海放棄ニ決シタ

  ルニ非スヤトモ考ヘラルヽニ依リ 㐧百一師団ヲシテ

  蘓州河突破 及 其後ニ於ケル南市封鎖ヲ

  準備セシムルト共ニ 新ニ架橋材料一中隊ヲ配属

  ス

四、右翼方面 㐧十三、㐧十一師団 変化ナシ

  此日 方面軍幕僚ヲ會シ 派遣軍幕僚ト共ニ

  方面軍今後ノ作戦指導方針ニ付 研究

  ス 大要 既往研究ノ範囲ヲ出テサルモ 㐧十軍

  ノ作戦方針ハ 今後ノ情㔟ニ於テ多少共 変更

  セシムルノ必要アルモ 情㔟未明ナレバ確定セス

  暫ク㐧十軍司令官ノ注意ヲ喚起セシムル程度ニ

  止ムルコトトシ 尚 研方針ノ決定モ今後ノ情

  㔟ニ応シ定ムルコトトス
 

 

   11月21日  曇小雨

 連日の悪天候のため両軍とも戦線の行動すこぶる困難を極め、後方補給の停滞と相俟つて一般に戦況の進捗せざるはやむを得ざるところなり。

 しかれども第10軍の湖州占領部隊は鋭意前進を継続し、この夕、その先頭をもつてすでに湖州当方10余キロの地に進出し、これに後続する第114師団も主力をもつて南潯鎮付近に達したるごとし。

 派遣軍諸師団の状況は不明。

 この日、予は原田少将をして協同租界局および仏国租界当局に対し左の要求をなさしむ。

1.軍は租界当局が租界内における拝日·侮日および共産主義の諸策動に対し充分なる取締りを行ふことを要求す。

2.当局の処置にして我が軍の意に満たざるものあるときは、軍は作戦の要求上、所要の措置を執ることあるべし。

 右に関し協同租界当局は大要、予の要求を容れ、機宜の措置を執るべきを約し、仏国租界当局(仏国総領事)の態度は明瞭ならず、保留的回答をなしたるも、ある程度は軍の要求に遵ふのやむなきを自覚しあるごとし。

 よつて仏国租界に対してはさらに我が大使館より仏国大使に軍の希望を告げ、機宜の措置を講ぜしむることとせり。

 なほ岡本総領事をして協同租界に対し、前記要求に関し具体的に諸問題を協議せしむることとせり。

 

    11月22日  晴

 10日振りに好天を拝し気宇晴朗、譬ふるに物なし。あたかもこの日、一昨20日下賜せられたる勅語写しを飛行便によりて携へ来たるあり、午後5時、方面軍司令部員一同を会して厳粛なる捧読式を行ひ、なほこれに対する予の奉答文を披露す。感慨胸に迫り、筆舌をもつて到底予の、皆の感情を露す能はず。勅語を捧読し、聖慮、戦死傷者に及ぶの御語に至りて、予はつひに涕泣、声なく、これを捧読する能はざりしは、老の身の少なからず感傷的に陥りし感なきにはあらざれど、また予の胸が何としても包み得ざる至誠赤心の発露なり。聞く司令部員、いかにこれを感得せしやを知らず。

 両軍戦況、大なる変化なし。漸次無錫、湖州に肉薄しあるも、未だこれを奪取するに至らず。

 両軍の補給は連日の追撃前進に伴はず、やむなく飛行機をもつて空中より糧食、弾薬を投下し、 その急を救ふの状なりしが、今日の晴天も御蔭し、今後逐日その状勢を回復することを得ん。

《軍司令官の意見具申》

 この日、軍今後の作戦に関する予の意見を参謀総長に具申す。その要領、すでに先日参謀本部陸軍省の派遣員に述べたるところのものに同じ。要は速やかに軍容を整へ、12月中旬以降、南京に向かふ攻撃を開始せんとするに在りて、遅くも2ヶ月以内にその目的を達成し得るの見込みなることを付言せり。

 

  十一月二十二日

十日振ニ好天ヲ拜シ氣宇晴朗

譬フルニ物ナシ 恰モ此日 一昨二十日

下賜セラレタル勅語写ヲ飛行便ニヨリ

テ携来ルアリ 午後五時 方面軍司令

部員一同ヲ會シテ厳粛ナル捧讀式

ヲ行ヒ 尚 之ニ對スル予ノ奉答文ヲ披露

ス 感慨 胷ニ迫リ 筆舌ヲ以テ到底

予ノ 皆ノ感情ヲ露ス能ハス 勅語

ヲ捧讀シ 聖慮 戦死傷者ニ及フノ御

語ニ至リテ予ハ遂ニ涕泣 聲ナク 之ヲ

捧読スル能ハタリシハ、老ノ身ノ不少

感傷的ニ陥リシ感ナキニハアラサレト

亦 予ノ胷カ何トシテモ包ミ得サル

至誠赤心ノ発露ナリ 聞ク司

令部員 如何ニ之ヲ感得セシヤヲ知ラス

両軍戦況 大ナル変化ナシ 漸次

無錫、湖州ニ肉薄シアルモ 未タ之

ヲ奪取スルニ至ラス

両軍ノ補給ハ連日ノ追擊前進ニ伴

ハス 已ムナク飛行機ヲ以テ空中ヨリ糧

食 弾薬ヲ投下シ 其急ヲ救フノ状

ナリシカ 今日ノ晴天モ御蔭シ今後 逐

日 其状㔟ヲ恢復スルコトヲ得ン

《軍司令官ノ/意見具申》

此日 軍今後ノ作戦ニ関スル予ノ意見

ヲ参謀總長ニ具申ス 其要領 既

ニ先日 参謀本部陸軍省ノ派遣員ニ述

ヘタル所ノモノニ仝シ 要ハ速ニ軍容ヲ整ヘ

十二月中旬以降 南京ニ向フ攻撃ヲ開始

セントスルニ在リテ 遅クモ二ヶ月以内ニ其目

的ヲ達成シ得ルノ見込ナルコトオ附言セリ

 

 

   11月23日  曇

 昨日1日の快晴に今日ははや曇天となり、今後の天候を危ぶむも、幸ひに風西北なれば間もなく妖雲を払拭することを得ん。

 この日、派遣軍司令部に至り、昨日同様の勅語奉読式を行ひ報読み聞かせ、さらに一同会食して、大元帥陛下の万歳を三唱せり。なほこの機会において予の上陸以来の感想を述べ、一同に対し三月間の勤労を感謝し、今後さらに将兵一同、皇道の精神に精進して出兵の最終目的を達成するに努むるの緊要なるを訓示せり。なほ明日、速やかに全派遣軍に対する訓示を与ふべくその起案を命ぜり。

 派遣軍、第10軍の無錫、湖州攻撃は漸次に進捗しあるも、無錫の陣地は敵軍なほ容易にこれを放棄せざるもののごとく、今後これを奪取するためには努めて第9師団の太湖を利用する水路機動等により正面における力攻を避くべきを可なりとし、今後の戦況に応じしかるべく措置すべきを命ず。

   11月24日  晴

 第10軍は今朝、湖州を占領せり。湖州を占領する敵の兵力多からず、一時宜興方面より増加の模様ありしも、我軍の爆撃に妨げられこれを中止したるもののごとし。

 派遣軍は続いて無錫を攻撃中なり。この方面またその後、敵の抵抗力増大の模様なきをもつて、近く無錫も我が軍の有に帰すべしと判断せらるるも、なほ余り油断せざるを可とす。

《仏国陸軍司令官との初度会見》

 この日、仏国陸軍司令官、来訪す。その態度慇懃なり。予はこれに対し、上海地方の治安を維持するためには列国軍の協力を根本原則として必要なりと認むること、なほ目下南市にある我が陸軍部隊の補給、連絡のため仏租界バンドの交通の必要なるを述べ、仏国官憲が能く前記の精神によりこれを我が軍に許容せんことを勧告し、仏軍にして我が誠意を解せず飽くまで仏国租界の特権を主張するにおいては、南市付近に現在する仏国軍に対しても我が方の執るべき手段ありと語り、暗にその撤去を諷してその反省を促したるに、司令官は能く予の意をし、大使にしかるべく進言すべきを約し去れり。

 

   11月25日  晴

《無錫占領》

1.派遣軍はこの朝、第9、第11師団の一部をもつて無錫を占領し、第16師団の部隊もこれに伴ひ市内を清掃中なりとの報あり。これによつて江陰要塞の背面はつひに我が有に帰し、爾後、南京方面に対する作戦を容易ならしむるを得たり。

2.第10軍は昨日湖州を占領したる後、第114師団および国崎支隊をもつて西方に敵を追撃し、湖州西方約2キロの高地にある敵を続いて攻撃中。その兵力多からず。

 この日、蕪湖方面より広徳に向かひ敵軍約1万、鉄道により東進し来たるを知り、我が陸海飛行機をもつてこれを爆撃す。

参謀本部決定の不明瞭》

 この日、参謀総長より伝宣電あり。かねて方面軍の作戦区域を蘇州~嘉興の線に制限せられたるを解除すとの意なり。なほ次長より参謀長あて電によれば、軍は依然、蘇州~嘉興付近の線にありて、一部をもつて無錫(あるいはその西方若干地域)湖州の線を占領するも、爾後さらに西方に作戦を拡大せしめざる中央部の意向なるを告げ、また12月上旬までに重藤支隊および第11あるいは第18師団を他に転用するの予定なる旨、通じ来たる。その意、明瞭ならざるも、中央部はなほ南京に向かふ作戦を決定しあらざることは明瞭にして、その因循姑息、誠に不可思議なり。しかもかねて申し入れある軍特務機関の拡大につきては、何ら指示するところなし。その真意いずれにある了解し能はざるところなり。よつてさらにこの旨、参謀長より次長あて督促せしむることとす。

《再度外交および海軍側の上海善後処置に対する態度を激励す》

 この朝、大使館参事官、岡本総領事、海軍代表者を集め、上海協同租界および仏租界に関する交渉の経過を聞く。各租界とも漸次、排日分子の清掃、新聞の発行停止等、多少とも我が方の申し入れを実行しつつあるごときも、未だその誠意の見るべきものなく、その実行も甚だ不満足なるをもつて、さらに我が外交官憲を督促し、一層有効的手段を執るべきを要求するとともに、要すれば軍は兵力をもつて税関を占領するは勿論、協同租界に示威的行軍を行ふ等の準備あるこてを告げ、これを激励す。なほ外務省よりは概ね予の従来の措置に依存なき旨、電示来たれる由なるも、なほ国際関係を過度に配慮しあるの状あり。

 上海居留民会長以下、居留民代表者十余名、慰問として来訪す。よつて予は従来軍の作戦に対する居留民の協力を謝するとともに、今後上海方面における我が国策の遂行には居留民一同、一時的自己の権益等を犠牲にして軍の行動に協力するの覚悟あるを要する旨を告げ、一同を戒飭し置けり。

 派遣軍司令部はこの日戦闘司令処を常熟に前進せしむるも、予は今後の方針を委曲参謀長に示し、しかるべく善処するを命じ、方面軍司令部に止まる。けだし目下、上海の善後措置等、国際関係諸問題等を処理するため上海を離れ難ければなり。

 《この日、皇太后陛下より軍に包帯下賜の恩命あり。感涙す。》

 

   11月26日  晴

《仏国海軍長官および総領事との会見》

 仏国海軍長官、上海総領事来訪す。その意は予に挨拶をなすとともに、今後仏租界に対する我が軍の行動につき、穏便なる態度を希望するの意なり。よつて予は、仏国軍がその租界、特に南市の治安維持のためには日本軍と共同するの必要を述べ、これがため南市にある我が軍の補給連絡のため、仏国租界の一部たる河岸を我が軍の交通に使用せしむることを希望したるも、彼らは大体において我が軍との協力には勿論異議なきも、武装軍人の仏租界通過には条約と仏国の権益上、承認し難きを述べたるにより、予は、しからば南市にある仏国軍隊の措置等に関して当方としても考慮せざるべからざる旨を告げ、これを威嚇し置くとともに、租界内支那国家銀行の封鎖を希望したるに、彼は辞を設けてこれを実行するの誠意を欠くをもつて、委曲さらに原田少将および岡本総領事との間にこれが善後手段を協議決定すべきを希望し、ひとまづ穏便に会見を終る。

《大阪住友支店長代理、来訪し、軍慰問として金5万円を寄送す。よつて予は之を謝するとともに、今後における国民の犠牲的精神を発揚するの要あるを説き、相当感激して帰れり。》

1.派遣軍方面

 第16師団の一部は常州に向かひ追撃し、また第9師団の約1連隊は蘇州より地方民船により大湖を渡りて無錫西南方約10里の沙塘港附近に上陸、無錫~宜興道を遮断す。

2.第10軍方面

 第114師団をもつて長興付近を、国崎支隊をもつてその南方、公徳道を公徳に向かひ追撃中。第18、第6師団も逐次、湖州に向かひ集結中なり。

 

   11月27日  曇

1.派遣軍方面

 第16師団の一部は常州東方約4里の線に、第13師団は江陰南方約4キロの線に進出す。

 第九師団渡湖部隊の状況不審。

2.第10軍方面

 第114師団は主力をもつて長興付近に、一部をもつて宜興に向かひ敵を追撃し、

 第18師団の一部は国崎支隊に合し公徳に向かひ敵を追撃中。

 第6師団は逐次、湖州に向かひ集結す。

 両軍の後方補給は軍の追撃に伴はず、一時困難の状勢にありしが、天候の回復と地方舟楫の整備により漸次に補給力を増加しつつあり。ここ旬日の間には概ね両軍ともに補給の整正を得るに至るべし。ことに鉄道連隊(2大隊)昨日その先頭をもつて到着し、差し当たり蘇州、嘉興、平望を目途とし鉄道の補修、材料の収集に勉め、なほ内地に輸送すべき運転材料(機関車約20両、貨車200両)をもつて輸送を開始する見込みにて、遅くもこれまた12月上旬にはその運輸を開始すべき見込みなり。

 この日、萱野長知を招き今後の謀略につき所要の注意を与へ、陳中孚等の活動を督励す。

徳川侯井上清純子爵を招き内地各方面の鞭撻を依頼し、左の2詩を贈る。》

  一、湖東戦局直後

 梟敵運生日漸窮  旌旗高耀湖東空

 休論世俗糊塗策  不抜南京皇道倥

  二、勅語拝受即吟

 湖東戦局日漸収  聖慮昭々人未酬

 遥望妖気西又北  何時皇道洽亜洲

 

   11月28日  晴

1.派遣軍の状況

 第16師団の追撃隊は近く常州市街に迫る。

 第13師団の部隊も江陰要塞の背後に逼迫す。

2.第10軍の状況

 第114師団の部隊は宜興を占領す。

 その他両軍の戦況、大なる変化なし。

 上海租界における工作進展し、この日、共同租界にある支那政府の電報局、新聞検査所および税関等を我が官憲の手にて接収し、また市政府埠頭をも接収す。

 銀行口座はほとんど閉鎖状態にあるも、これが接収取扱にはなほ幾多の手数を要するをもつて、漸次これを具体化することとす。

《侍従武官御差遣》

 この日、侍従武官、司令部御慰問、優渥なる聖旨·令旨を賜ひ、また皇后陛下より特に御手製の毛糸襟巻を賜ふ。洵に恐懼感激の極みなり。謹んで奉答托送ならびに言上方、侍従武官に言上す。また一般隷下に右聖旨および令旨を伝達す。

参謀本部より南京攻略決定の報あり》

 参謀本部より、南京攻略に決定せる旨、次長電あり。これにて過日来予の熱烈なる意見具申も功を奏し、欣懐この上なし。その後、方軍の後方連絡線の整斉、やうやく順調に向かひつつあれば、命令一下、遅くも来12月5日頃より全軍の進撃を命ずるを得ん。

 岡田尚を招致し、支那人謀略につき注意を与ふ。

 

  十一月二十八日  晴

一、派遣軍ノ状况

㐧十六師団ノ追撃隊ハ近ク常州市街ニ迫ル

㐧十三師團ノ阝隊モ江隂要塞ノ背後ニ逼迫ス

二、第十軍ノ状況

㐧百十四師團ノ部隊ハ宣興ヲ占領ス

其他 両軍戦況 大ナル変化ナシ

上海租界ニ於ケル工作 漸次 進展シ 此日

共同租界ニアル支那政府ノ電報局、新

聞検査所、及 税関等ヲ我官憲ノ手

ニテ接收シ 又 市政府埠頭ヲモ接收

銀行ハ殆ト閉鎖状態ニアルモ之レカ接收

取扱ニハ尚 幾多ノ手数ヲ要スルヲ以テ

漸次 之ヲ具体化スルコトトス

《侍従武官/御差遣》

此日 侍従武官 司令部 御慰問 優渥ナル聖

旨令旨ヲ賜ヒ 又 皇后陛下ヨリ特ニ御手製

ノ毛糸襟巻ヲ賜フ 洵ニ恐懼感激ノ

極ナリ 謹テ奉答程奏 并 言上方 侍

従武官ニ言上[ス×] 又 一般隷下ニ右聖

旨 及 令旨ヲ伝達ス

参謀本部ヨリ/南京攻略/決定ノ報/アリ》

参謀本部ヨリ南京攻畧ニ決定セル旨

次長電アリ 是レニテ過日来 予ノ熱烈

ナル意見具申モ奏功シ 欣懐 此上

ナシ 其後 方軍ノ後方連絡線ノ整斉

漸ク順調ニ向ヒツヽアレハ 命令一下 遅クモ

来十二月五日頃ヨリ全軍ノ進撃ヲ命

スルヲ得ン

岡田尚ヲ招致シ 支那人謀畧ニ付 注意ヲ与フ

 

 

   11月29日  晴

1.派遣軍の情況

 この日、第16師団は完全に常州を占領し、市内を掃蕩す。

 また第13師団も江陰要塞を占領すとの報あるも、実況不審。

2.第10軍の状況、変化なし

 この日、原田少将を招致し、上海善後措置および今後の謀略につき予の希望を告げ督励す。

 また同盟通信の松本を招致し、西洋人、支那人に対する側面的工作を指示す。

 諸情報によれば常州~宜興の線にありし敵は西(後)方に退却し、また一部は公徳、寧徳付近より杭州方面に退却中なり。すなはち敵軍は大体に南京東方山地線に防御線を退け、また浙江方面においても浙江·杭州西方山地線に防御線を退けたるがごとく、鎮江、江陰付近には多数の民船収集しありて、適時江北地方に退却を準備するもののごとし。

 また江蘇省政府は顧祝同、新たに任命せられ、江北(徐州付近か)にその位置を退避しつつあるがごとし。

 浙江省主席へ黄欽雄、新任せらるるも、その政府の位置等は未審。

 上海にありし宋子文はマニラに、杜月笙等は香港に遁避せしとの報あるも、確かならず。また浦東付近にはすでに少数なる親日委員会成立し、漸次、我が軍に接近し来りつつあり。また周作民は漢口より広東を経て、呉震脩も同様、上海仏租界に帰来せりとの報あり。漸次これらの連中も上海に集まり来たらん。

 

  十一月二十九日  晴

一、派遣軍ノ情況

此日正午 第十六師団ハ完全ニ常州

占領シ 市内ヲ掃蕩ス

又 㐧十三師団モ江隂要塞ヲ占領スト

ノ報アルモ 実况不審

二、第十軍ノ状況 変化ナシ

此日 原田少将ヲ招致シ 上海善後措

置 及 今後ノ謀畧ニ付キ予ノ希望ヲ

告ケ 督励ス

又 同盟通信ノ松本ヲ招致シ 西洋人、支

那人ニ対スル側面的工作ヲ指示ス

諸情報ニ依レハ常州 宣興ノ線ニ在リシ

敵ハ西(後)方ニ退却シ 又 一部ハ廣徳 甯徳

附近ヨリ杭州方面ニ退却中ナリ 即 敵軍

ハ大体ニ南京東方山地線ニ防禦線ヲ

退ケ 又 浙江方面ニ於テモ浙江杭州西方

山地線ニ防禦線ヲ退ケタルカ如ク 鎮江、

江隂附近ニハ多数ノ民船蒐集シアリテ適

時 江北地方ニ退却ヲ準備スルモノヽ如シ

江蘇省政府ハ顧祝同 新ニ任命セラレ江北

(徐州附近カ)ニ其位地ヲ退避シツヽアルカ

如シ

浙江省主席ヘ黄欽雄 新任セラルヽモ 其政

府ノ位置等ハ未審

上海ニアリシ宋子文ハ「マニラ」ニ 杜月笙等ハ香港ニ

遁避セシトノ報アルモ 確カナラス 又 浦東附近

ニハ既ニ少数ナル親日委員會成立シ 漸

次 我軍ニ擑近シ来リツヽアリ 又 周作民ハ

漢口ヨリ広東ヲ経テ 呉震脩モ同様 上海

佛租界ニ帰来セリトノ報アリ 漸次 是等

ノ連中モ上海ニ集リ来ラン

 

 

   11月30日  晴

《江陰陥落未成》

1.派遣軍方面

 第16師団の1部隊は常州西方約2里の点まで敵を追撃す。

 第13師団の江陰陥落の報は誤りにて、近く江陰市街に迫りあり、敵兵、現在守備するもの多からずも、我が海軍の江陰に接近する艦に対し砲台より射撃を行ひたる由。明日は全部陥落するならん。

2.第10軍方面

 第6師[団]の一部、国崎支隊は本日広徳を占領せり。

 この日、方面軍幕僚を集め南京攻略に関する軍の作戦方針を議し、従来の計画を補修し、大体12月上旬より(5日頃)全軍の攻撃前進を開始することに定む。

 この日、ロンドン·タイムスのフレザア、およびニューヨーク·タイムスのアベンドを招致し、予の上海占領およびその後における態度を説明し、就中、上海における列国の権益を保護するため予の執りたる苦心の程を説明せり。彼等能く予の意を諒し、かつ我軍の公正なる態度につき尊敬·感謝の意を表し、各本国に向かひ委曲通信すべきを約す。

 また在日本各国武官は戦線視察終了につき、今夜、原田少将をしてこれを晩餐に招かしめ、予も出席して一言の挨拶をなす。一同感激す情、顕著なり。

 

  十一月三十日  晴

《江隂陥落未成》

一、派遣軍方面

㐧十六師団ノ一部隊ハ 常州西方約二里

ノ点迄 敵ヲ追撃ス

㐧十三師団ノ江隂陥落ノ報ハ誤ニテ

近ク江隂市街ニ迫リアリ 敵兵 現在守備スル

モノ不夛モ 我海軍ノ江隂ニ接近ス

ル艦ニ対シ砲臺ヨリ射撃ヲ行ヒタル

由 明日ハ全部陥落スルナラン

二、㐧十軍方面

㐧六師ノ一部、国崎支隊ハ本日 広徳
ヲ占領セリ

此日、方面軍幕僚ヲ集メ南京攻略

ニ関スル軍ノ作戦方針ヲ議シ 従

来ノ計畫ヲ補修シ 大体十二月上旬ヨリ

(五日頃)全軍ノ攻撃前進ヲ開始スルコトニ定ム

此日 倫敦タイムスノフレザア 及 紐育タイムスノ

「アベンド」ヲ召致シ 予ノ上海占領 及 其後

ニ於ケル態度ヲ説明シ 就中 上海ニ於ケル

列国ノ権益ヲ保護スル為メ予ノ執リタ

ル苦心ノ程ヲ説明セリ 彼等 能ク予ノ意

ヲ諒シ 且ツ我軍ノ公正ナル態度ニ付

尊敬感謝ノ意ヲ表シ 各本国ニ

向ヒ委曲通信スヘキヲ約ス

又 在日本各国武官ハ戦線視察終了

ニ付 此夜 原田少将之ヲシテ之ヲ晩餐

ニ招カシメ 予モ出席シテ一言ノ挨拶

ヲナス 一同感激ス情 顕著ナリ
 

   12月1日

1.派遣軍の状況

 第13師団は江陰市街を確実に占領し、同砲台の占領を準備す。

 第16師団は常州を占領し、一部をもつて西方に敵を追撃す。

 第9師団の部隊は常州~金壇道を追撃す。

2.第10軍の状況

 第114師団の一部は漂陽に向かひ敵を追撃す。

 国崎支隊は公徳を占領す。さらに西方に敵を追撃す。

 第18師団は長興南方地区に、第6師団主力は湖州付近に兵力を集結す。

《方面軍の新戦闘序列を令ぜらる》

《南京攻略の大命降下》

 この日、参謀次長着、南京攻撃の伝宣命令を携へ来たる。またこの日、新たに中支那方面軍の戦闘序列を令ぜらる。

 また広東方面に作戦するため、第11師団(1旅欠)および重藤支隊を12月中旬以降、同方面に転用せらるるはずなることを内命を受く。

 次長の語るところによれば、中央部は未だ十分目下の謀略および宣撫の重要性を認識せず、特務部の組織の拡大および人員の整備につき決定を与へざるは甚だ遺憾に耐へず。よつてさらに方面軍より具体的意見を上申し決定を急ぐの要あるを認む。

 

  十二月一日

一、派遣軍ノ状況

第十三師団ハ江陰市街ヲ確実ニ

占領シ 同砲台ノ占領ヲ準備ス

第十六師団ハ常州ヲ占領シ 一部ヲ

以テ西方ニ敵ヲ追撃ス

第九師団ノ部隊ハ常州─金壇道ヲ

追撃ス

二、第十軍ノ状況

第百十四師団ノ一部ハ漂陽ニ向ヒ敵ヲ

追撃ス

国崎支隊ハ公徳ヲ占領ス 更ニ西方

ニ敵ヲ追撃ス

第十八師団ハ長興南方地区ニ 第六師

団主力ハ湖州附近ニ兵力ヲ集結ス

方面軍/ノ新戦斗/序列ヲ/令セラル

南京攻畧/ノ大命/降下[上欄]

此日 参謀次長着 南京攻撃ノ傳宣命

ヲ携ヘ来ル 又 此日 新ニ中支那[派遣×]方面軍

ノ戦斗序列ヲ令セラル

又 広東方面ニ作戦スル為メ㐧十一師団

(一旅欠)及 重藤支隊ヲ十二月中旬

以降 同方面ニ轉用セラルヽ筈ナル事ヲ

内命ヲ受ク

次長ノ語ル処ニ依レハ 中央部ハ未タ十分

目下ノ謀略 及 宣撫ノ重要性ヲ

認識セス 特務部ノ組織ノ拡大

及 人員ノ整備ニ付 決定ヲ与ヘサルハ

甚タ遺憾ニ耐ヘス 仍テ更ニ方面軍

ヨリ具体的意見ヲ上申[ス×]シ決定ヲ急ク

ノ要アルヲ認ム

 

 

   12月2日  晴

1.派遣軍の状況

 第13師団は完全に江陰要塞を占領し、残敵を掃蕩中。

 第16、第9師団の一部は丹陽および金壇に迫り、敵を圧迫中。

 第3師団は数日前より蘇州以北の地区に前進し、ただし片山支隊この日、第101師団の部隊と交代し師団主力に追及す。

 第11、重藤支隊は無錫付近に集結。

2.第10軍の情況

 第114師の一部は溧陽を占領す。

 甯国方面の情況、明らかならず。

 諸情報によれば敵は新たに2集団軍を編成し、鎮江、句容、広徳、蘭谿(浙江)の線を守備し、別に南京城守備軍を編成し、最後まで抵抗すべき命令を与へ(11月25日頃)たるも、その前線はすでに陥落し、全軍の士気崩壊したれば、爾後の抗戦は大なる成果なきものと認めらる。

《南京攻略命令を下す》

 よつて今朝、新たに全軍に対し南京攻略命令を与へ、また方面軍司令の訓示を与へ、第10軍は12月3日頃より、派遣軍は5日頃より前進を開始すべく命令す。なほ海軍に督促し、速に江陰附近に於ける封塞を解放して揚子江の水路を開き、軍の攻撃前進に伴ひ派遣軍の一部(約1師団)を江北に上陸せしめ、江北運河および津浦鉄道を遮断するるの準備をなさしむ。

 なほ茲?夜?、原田少将楠本大佐を招致し、今後軍特務部の編成、任務の分担、および今後の軍の謀略目標に関する予の意見を告げ、具体的立案を命ず。その要旨、右のごとし。

 一、特務部の編成

  原田少将指揮

1.外事部の編成

 主として上海列国関係、大使館との連絡

2.地方宣撫

 方面軍直隷および各軍占領地域に分かち、特務部および両軍によつて宣撫を行ふ。

3.宣伝部

 従来のものを拡大強化す。

4.謀略部

 別に某少将を主幹とし、所要の人員をもつて独立。軍司令官の意図を受け、今後の政治、戦場謀略に任ず。

5.企画研究部

 今後の政治、経済善後措置を研究·立案せしむることとし、齊藤良衛を長とし、陸海外務その他内地、上海の専門家、経験家を集む。

 なほ今後謀略の目標は、まづ国民政府を駆逐して、江蘇、浙江、成し得れば安徽を併する独立政権を樹立せしむるにありて、万やむを得ざる時は、南京付近に残留する国民政府と分離する国民政府を建設するを目的とし、今後南京付近の攻略に伴ひ、その工作を進むることとす。

 

  十二月二日 晴

一、派遣軍ノ状況

㐧十三師団ハ完全ニ江陰要塞

ヲ占領シ残敵ヲ掃蕩中

㐧十六、㐧九師団ノ一部ハ丹陽 及

金壇ニ迫リ 敵ヲ圧迫中

㐧三師団ハ数日前ヨリ蘇州、以北ノ

地区ニ前進シ 但 片山支隊ハ此日 㐧百

一師団ノ部隊ト交代シ 師團主力ニ追

及ス

㐧十一、重藤支隊ハ無錫附近ニ終結

二、㐧十軍ノ情況

㐧百十四師ノ一部ハ溧陽ヲ占領ス

甯国方面ノ情況明カナラス

諸情報ニ依レハ敵ハ新ニ二集団軍ヲ編

成シ鎮江、句容、廣徳、蘭谿(浙江)

ノ線ヲ守備シ 別ニ南京城守備軍ヲ編成

シ 最後迄 抵抗スヘキ命令ヲ与ヘ(十一月廿五日頃)

タルモ 其前線ハ既ニ陥落シ 全軍ノ士氣

崩壊シタレハ 尓後ノ抗戦ハ大ナル成果ナ

キモノト認メラル

南京攻/畧命令/ヲ下ス[上欄]

仍テ今朝 新ニ全軍ニ対シ南京攻畧

命令ヲ与ヘ 又 方面軍司令官ノ訓示

ヲ与ヘ 㐧十軍ハ十二月三日頃ヨリ 派遣軍

ハ五日頃ヨリ前進ヲ開始スヘク命令ス 尚

海軍ニ督促シ 速ニ江陰附近ニ於ケル封塞

ヲ解放シテ揚子江ノ水路ヲ開キ 軍ノ攻撃

前進ニ伴ヒ派遣軍ノ一部(約一

師團)ヲ江北ニ上陸セシメ 江北運河

及 津浦鐵道ヲ遮断スルノ準備

ヲナサシム

尚 茲?夜? 原田少将、楠本大佐ヲ招致シ

今後 軍特務部ノ編成 任務ノ分

担 及 今後ノ軍ノ謀略目標ニ関

スル予ノ意見ヲ告ケ 具体的立

案ヲ命ス 其要旨 右ノ如シ

一、特務部ノ編成

 原田少将指揮

 一、外事部ノ編成

  主ソシテ上海列國関係 大使館

  トノ連絡

 二、地方宣撫

  方面軍直隷、及 各軍占領地

  域ニ分チ 特務部 及 両軍ニ依テ

  宣撫ヲ行フ

 三、宣傳部

  従来ノモノヲ拡大強化ス

 四、謀略部

  別ニ某少将ヲ主幹トシ 所要ノ人員ヲ以テ

  独立 軍司令官ノ意図ヲ受ケ 今後ノ

  政治、戦場謀畧ニ任ス

 五、企畫研究部

  今後ノ政治、経済善後措置ヲ研

  究立案セシムル事トシ 齊藤良衛

  ヲ長トシ 陸海外務 其他 内地、上海ノ

  専門家 経験家ヲ集ム

尚 今後 謀畧ノ目標ハ 先ツ国民政府

ヲ駆逐シテ 江蘓 浙江 成シ得レハ安徽

ヲ併スル独立政権ヲ樹立セシムルニ在リ

テ 萬 已ムヲ得サル時ハ 南京附近ニ残畄

スル国民政府ト分離スル國民政府ヲ

建設スルヲ目的トシ 今後 南京附近ノ攻略ニ伴

ヒ其工作ヲ進ムル事トス

 

 

   12月3日  晴

1.派遣軍の状況

 第16、第9師団は敵を追撃して、すでにその先登部隊をもつて磨盤山頂の線に達す。

 また第11師団の部隊は鎮江に向かひ進撃中。

 鎮江は火災起り、敵軍すでに退却に就きつつあるを知る。

2.第10軍の状況

 第114師団の部隊も溧水に近く進出す。

 なほ第18師団の部隊は寧国に近く進出せり。

 この日、第101師団工藤少将の指揮する歩103連隊、歩兵1大隊をもつて共同租界内の威示行軍を実施す。両租界当局、極力租界内の警備に尽したるも、つひに1名の支那人の爆弾事件ありたるも大事なく、無事示威の目的を達成せり。内外人等しく驚異の眼をもつて見る。在留邦人の感激この上なし。ただこのこと、はじめ海軍に交渉し陸戦隊の協同を希望したるも、海軍側が例の租界と列国を気兼ねする心地なほ去らず、つひに陸軍と協同するを辞したるは極めて遺憾なり。

 この本行軍の結果、特務部をして共同租界警察総監との間に今後一層、租界内排日分子の取り締まりを要求し、必要と認むる時は、軍は自衛上、租界内清掃に関し独自的手段を取るべきことを約せしめたるは、爆弾事件の功名なり。

 なほこの日、大使および大使館員に対し軍今後の作戦の大要を告げ、一層租界および列国に対する治安経済工作につき督励す。

 

   12月4日  晴

1.派遣軍の状況

 第16、第9師団、句容およびその南方の線に達す。

2.第10軍の状況

  第114師団は溧水に達す。

《南京外郭攻撃命令下付》

 よつて軍は両軍をしてさらに南方城外郭の線に向かひ攻撃を命じ、南京城攻略を準備せしむ。けだし南京城の占領は両軍部隊の随意攻撃に放任せず、方面軍においてこれを統制し、秩序ある占領を遂げんとの意なり。また入城前、蔣介石または守城者に対し投降勧告を与へ、成るべく南京城を破壊せず、住民の被害を避けてこれを占領せん予の意なり。

朝香宮殿下、派遣軍司令官親補》

 この夜、東京より電報あり、予の派遣軍司令官兼任を解き、新たに朝香宮殿下、同司令官に親補せらるるを知る。寔[まこと]に恐懼感激の至りなり。よつて直ちにこれを全軍に通報するとともに、殿下の御在任中の警備、ならびに御居住の安全につき、出来得る限りの措置を講ずべくそれぞれ研究を命ず。

 

   12月5日  晴

 この朝、多田参謀次長、前線より帰来す。よつて軍今後の作戦方針、および南京占領後における企図につき予の希望を語り、さらに軍特務機関の拡大、今後の謀略方針につき委細説明し、中央の方針確定を促す。その要、次のごとし。

一、軍今後南京攻略後の謀略は、西山派、政学派、段派および在中支財界中親日者を糾合して、独立政権を江蘇、浙江、安徽を併せて設立せしめ、漸次、北支政権と連絡せしむ。

二、能はざれば現国民政府の不良分子を排除して政府を改造せしむ。しかしこの際、欧米に依存する浙江財閥はこれを排除するを要す。

三、右のため特務機関を拡大し、

1. 建川または重藤を長とし、

2. 重藤は佐々木到一を長とし和地臼田らにより李、白および西山派らに対して謀略を行はしむ。

3. 原田を現在のままとし、外事および宣伝の事に該らしむ。これがため松室、楠本らを使用す。

4. 古城少将を宣伝部長とす。

5. 斎藤良衛を長とし経済および今後の政治、経済等の善後企画を行はしむ。

 

  十二月五日(晴)

此朝 多田参謀次長 前線ヨリ帰

来ス 依テ軍今後ノ作戦方針

及 南京占領後ニ於ケル軍ノ企図

ニ付 予ノ希望ヲ語リ 更ニ軍特務

機関ノ拡大、今後ノ謀畧方針

ニ付 委細説明シ 中央ノ方針確

定ヲ促ス 其要如次

一、軍今後 南京攻略後ノ謀畧ハ西山派、

  政学派、段派 及 在中支財界中 親

  日者ヲ糾合シテ 独立政権ヲ江蘓、

  浙江、安徽ヲ併セテ設立セシメ 漸

  次 北支政権ト連絡セシム

二、能ハサレハ現国民政府ノ不良分子

  ヲ排除シテ政府ヲ改造セシム 而シ此

  際 欧米ニ依存スル浙江財閥ハ必ス

  之ヲ排除スルヲ要ス

三、右ノ為メ特ム機関ヲ拡大シ

 一、建川 又ハ重藤ヲ長トシ

 二、重藤 又ハ佐々木到一ヲ長トシ 和地、臼田

   等ニ依リ李、白 及 西山派等二対シテ謀略ヲ

   行ハシム

 三、原田ヲ現在ノ儘トシ外事、及 宣傳ノ

   事ニ該ラシム 之レカ為メ松室、楠本等ヲ

   使用ス

 四、古城少将ヲ宣傳阝長トス

 五、斎藤良衛ヲ長トシ経済 及 今後ノ

   政治経済等 善後企画ヲ行ハシム

 

    12月6日  晴

《この日、萱野、陳中孚、岡田尚を集め、今後の謀略に関する指示を与へ、これを督励するとともに、李擇一をして福州に在る陳毅の引出策、および杜月笙の上海帰還を画策せしむ》

 この日、大使館に海軍長官、大使館員らと会し、今後の軍事、政経政策に関し予の意見を開陳し、その同意を得たり。すなはち、

一、軍は南京攻略後、南京、蕪湖寧国杭州以東の地区を占領し、更に江北の楊州滁県浦口付近を占領す。

 爾後の行動は東京の企図に俟つ。

二、かくて専らまづ上海付近の平和運動を促進し、漸次に占領地に宣撫工作を進めて自治機関を作為せしめ、機を見て江蘇、浙江、安徽を基礎とする政権の樹立に努む。

三、上海租界に対する方針は、

1. 一般排日抗日空気の清掃の他、

2. 租界に於ける支那国民政府主権を代行し、政治、経済的地保を獲得す。

3. また従来租界を基礎とする欧米依存関係を打破す。

 以上のため、この上軍は威嚇または武力行使を当分見合はせ、努めて平和的にその目的を達成するを期す。したがつてこれが実行は直接軍に必要なるもの、 すなはち治安維持を主とするもののほか、主として外交官憲の努力に俟つ。海軍は租界内における従来の守備を継続して、陸軍の租界外における治安工作に協力するのほか、成るべく速やかに揚子江上流に艦隊を進出せしめ、陸軍の上記作戦に協力す。

 右は一同異議なく、海軍も欣んでこれに追随すべき意を明にす。

《朝香殿下、新に予に代りて上海派遣軍司令官に補せられ、本日着滬せらる。よつて予はこれを埠頭に迎へ、また午後その申告を受け委細の申し継ぎを行ふ。恐懼の至りなり。殿下は明日、自動車にて在無錫司令部に赴かるるはず。》

 

   12月7日  晴

 この日、始て蘇州~上海間鉄道開通するにより、予はこれに乗じて方面軍司令部を蘇州に前進す。

 沿道、漸次平和気分見る。避難農民、逐次帰村しつつあるを見る。欣ぶべし。

 蘇州にはすでに自治委員設立せられ、我が副領事も昨日当地に来たり、治安工作、宣撫に着手しあり。

 両軍の第一線部隊は漸次、南京城外郭陣地に接近す。また第13師団の1連隊は江陰より靖江に渡り、海軍と協力して全く江陰水路の阻絶を除去するを得たり。

 

   12月8日、9日  晴

 両軍の第一線部隊は紫金山を占領し、また雨花台付近を占領し、漸次城廓に迫る。

 この日、飛行機により予の署名する投降勧告文を城内外に散布し、明10日正午に回答を俟つ。

 第18師団は蕪湖を占領し、国崎支隊は太平を占領す。

 

   12月10日  晴

 この日、正午に至るも支那軍の回答なし。よつて午後より両軍に対し南京城の攻撃を命ず。敵軍の頑迷、真に惜しむべし。やむなきことなり。しかれども最早いはゆる最後の気持だけの抵抗に過ぎず、その実効なきは勿論なり。聞く。蔣介石は昨日すでに南昌に去り、康生智、守城せるごとし。

 この日、国崎支隊は長江対岸に渡河を準備し、第13師団も鎮江付近に進出し渡河を準備す。

《第101師団は杭州攻撃前進》

 第101師団(3大隊欠)を第10軍司令官の指揮に属し、本日出発、松江を経て杭州に向かひ前進し、第10軍後備隊と協力してこれを攻略せしむ。

《第9師団光華門占領》

 第9師団は敵を追撃してこの日、光華門を占領す。

 

   12月12日、12日、13日  晴

 軍は右より第16、第9、第114、第6師団をもつて今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗、相当強靭にして、我が砲兵の推進未及のため、この攻撃に2~3日を要する見込みなりしが、第9師団はすでに敵を追撃して光華門を占領し、しばしば敵の逆襲に遭ひつつ同門の占領を保持す。

 国崎支隊は鳥江付近に上陸し、浦口に向かひ南京の退路を遮断するごとく行動しつつあり。

 

《13日、南京占領》

 13日朝、第114、第6の両師団は中華門および水西門を占領し、同日夕までに第16師団は太平門、共和門を占領。第3師団の一部は通済門を占領し、ここに全く南京城を攻略す。

《英艦船損害事件》

 去る5日、我が航空隊は蕪湖付近における敗敵を爆撃中、同地にありし英国船に損害を与へたる事件あり。また13日朝、橋本大佐の率ゆる重砲兵隊が江を渡りて退却中なる敵を砲撃する際、付近にありし英国商船および英国砲艦乗員に小損害を与へたる事件あり。これ居留民避難保護に任じたるものにして、中に英独領事館員、武官等もあり、将来、多少の問題を惹起すべきも、 かかる危険区域に残存する第三国民ならびにその艦船が多少の側杖を蒙るはやむなきことなり。況んや我が方はすでにこの方面における戦場の危険を列国に予告しおきたるをや。

 

   12月14日、15日  晴

 14日、予は湯水鎮に前進のはずなりしが、準備未完了のため15日に延期し、午後1時発、蘇州飛行場より飛行機にて句容飛行場に飛翔し、それより自動車にて午後3時、湯水鎮、軍司令部に安着す。

 南京城入城の両軍師団は城内外の残敵を清掃す。敗残兵の各所に彷徨するもの数万に達すとのことなるも未詳。

 第11師団天谷部隊は14日夕、楊州を占領す(鎮江より13日渡江)。

 また第13師団の主力は14日、鎮江より渡江、15日、楊州に入り、続いて儀徴に向かひ前進中なり。

 国崎支隊は14日、浦口を占領す。

《南京占領御語下賜》

 14日、大元帥陛下より参謀総長を経て、軍将兵南京攻略に関し御語を賜ふ。一同感泣、直ちに全軍に令達するとともに、奉答の辞を電奏す。

 15日、蘇州自治委員会長陳某を召致し、皇軍の本領および予の大亜細亜主義精神につき説明し、公明なる自治の発展を希望す。この男、一昨年天津にて予の亜細亜運動につき知るところあり。能く予の意を諒す。ただし人民なほ日本軍を恐怖すると。地方の荒廃のため急遽なる自治の実行困難なる旨を語る。聞く。近時、毎日4~5千の避難民帰宅しあるも、 なほ多くは貧民にして、財あるものは未だ帰らずと。

 

   12月16日  晴

《蕪湖英艦事件
 去る13日、蕪湖における英国軍艦、商船被害事件に関し、我が政府は実相を極めず英国の抗議に対し直ちに陳謝の措置を取りたる由。いささか周章気味なれど、すでに実行したる上は詮なく、予は事実を調査したる結果、決して責任者を処分などする必要なき意見を東京に電報せしむ。》

 湯水鎮に在り。この地は蔣介石別荘のありし有名なる温泉場なり。同別荘は焼失して跡なきも、倶楽部建物現存し、一同、久し振りに入湯して気分を能くす。

 南京城内外、掃蕩未了。ことに城外の紫金山付近にあるもの相当の数らしく、捕虜の数、すでに万を超ゆ。かくて明日予定の入城式はなほ時日過早の感なきにあらざるも、あまり入場を遷延するも面白からざれば、断然明日、入城式を挙行することに決す。

《南京攻略後の軍の態勢に関する命令下達》

 この日、南京攻略後の全軍の態勢、ならびに爾後の作戦準備に関する命令を下す。これけだし直後の配置ならびに整理にして、将来の情勢に応じてはさらに浙江省は勿論、江北地方に軍の占領地域を拡大すること諸般の関係上、必要なりと認むるも、さきに伝宣命令によりとにかく長江右岸、杭州、蕪湖、南京以東の地区に集結を命ぜられあるにより、取り敢へず、前記のごとく処置したる次第なり。今後、情勢に応じさらに意見を具申し、所要の配置に就く考なり。

 

   12月17日  晴朗

 この日、南京入城式。

 午後0時半、自動車にて出発、1時25分、中山門外に着、両軍司令官以下幕僚の出迎を受け、1時半、乗馬にて入城式を挙行す。

 中山門より国民政府に至る間、両側には両軍代表部隊堵列。予はこれを閲兵しつつ馬を進め、両軍司令官以下随行す。未曽有の盛事、感慨無量なり。午後2時過ぎ、国民政府に着。下関より入城、先着せる長谷川海軍長官と会し、祝詞を交換したる後、一同前庭に集合、国旗掲揚式に続いて東方に対し遙拝式を行ひ、予の発声にて大元帥陛下の万歳を三唱す。感慨愈々迫り、つひに第2声を発するを得ず、さらに勇気を鼓舞して明朗大声に第3声を揚げ、一同これに和し、もつて歴史的式典を終了す。

 右終つて、師団長以上撮影の後、参列各隊長以上一室に会堂し御賜の清酒の杯を挙げ、海軍長官の発声にて再び大元帥陛下の万歳を三唱し、 本日の式を終る。

《この日、第13師団は六合を占領し、さらに滁県に向かひ前進中、十二圩において塩30万俵を押入す。》

 朝香宮軍司令官殿下、最も御健祥に御機嫌また極めて麗はしく、ことに予の部下として軍司令官の職に励み玉ふ聖旨の程、感激に耐へず。

 終つて首都飯店の宿舎に入る。沿道市中、未だ各戸閉門し、居住民は未だ城の西北部避難地区に集合しありて、路上、支那人極めて稀なるも、幸ひに市中、公私の建物はほとんど全く兵火に罹りあらず、旧体を維持しあるは万幸なり。

 

   12月18日  曇

《忠霊祭》

 今暁、降雪多少あり、天気陰鬱にして、あたかも本日の忠霊祭に適する天気にして、天もまた吾らとともに泣けるものと思はる。

《この朝、各軍師団参謀長を会し、軍参謀長より詳細なる指示および打合せを行はしめ、予は特に一同に対し

1.軍紀·風紀の振粛、

2.支那人軽侮思想の排除、

3.国際関係の要領につき

訓示を与へたり。》

 午後1時宿舎を発し、城内飛行場に準備せる忠霊祭に参列し、祭典前、参集せる両軍司令官、師団長に対し訓示を与へ、終つて祭典に列す。

 予は祭主として陣没霊前に進み、祭文を朗読し、万感胸に迫りたるも、往時のごとく声詰まり涕泣禁じ能はざるごときことなく、何だか一層の勇気と発奮心起り、朗々祭文を読み、忠霊に告ぐるを得たり。けだし英霊この予を激励するものか。感また無量なり。

 参列両軍および海軍将兵、万を超へ、式は簡単なるも甚だ荘厳・厳粛、もつていささか英霊を慰むるを得ん。予はこの朝、大帛に左の2詩を謹書し、霊前に䬻[はなむ]けたり。

《南京城攻略感》

   奉祝南京攻略

 燦矣旭旗紫淦城  江南風色愈清々

 豼貅百万旌旂粛  仰見皇威耀八紘

      方面軍司令官 松井石根

   又南京入城有感

 紫金陵在否幽魂  来去妖氛野色昏

 径会沙場感慨切  低徊駐馬中山門

              松井大将

 これにて上陸戦闘以来の一段落を終へ、この夜は早くより安眠す。万感交々至る。

《またこの夜、軍報導部長を招き、南京攻略後の軍の態度に関する予の所感を述べ、司令官談として発表せしむることとせり。》

 

   12月19日  晴

 休息第1日なり。なほ今後諸般の対策に関し万感禁ぜざるも、まづ漸次心神を休め、徐ろに爾後の方策を練るを可とす。

 この日午後、幕僚数名を従へ清涼山および北極閣に登り、南京城内外の形勢を看望す。城内数ヶ所になほ兵燹の揚がれるを見るは遺憾なれど、さしたる大火にはあらず。概して城内はほとんど兵火を免れ、市民また安堵の色深し。

 各処より祝電来たる。それぞれ重要の人には変電を出すこととするも、一々答ふるに遑あらず。

 近衛首相以下各閣僚に対し返電を出す。

 

   12月20日  晴

 この日、大使館に至り新着の領事館員と会見し状況を聞く。曰く、去る7月大使館引き上げ当時、支那側に寄託したる我が公使建物は、一部の小奪掠のほか概して相当に保護せられ、ことに大使館建物は内容とも完く完全に保存せられあるは、支那側の措置としてはむしろ感服の値あり。

 また避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも、その数12万余に達し、独、米人宣教師の団体と紅卍会等の人共と協力して保護に任じあり。聞く。江蘇省政府はその引き上げに際し、独人シーメンスのものに銀10万元と南京現在の糧米を托して保護を依頼ししたるものなりといふ。真否明らかならざれど、現に城内に現蓄せられある糧米は1万担に達し、外にもなほ隠匿せられあるものもあり、当分の間、居留民の糧食に事欠くことなしといふ。

 支那要人ら著名のものに残留せるもの見当たらざるも、漸次、相当資産階級のものも顔を出し来たる模様につき、そのうちやはり治安維持·地方自治支那人団体を形成するを得べき見込みなり。この南京の宣撫は最初、軍特務部をしてこれに当たらしむる積りなりしも、人不足のためやはり上海派遣軍をして適当の人(隊長)を選し、特務機関、領事館のものをも併せ指揮して宣撫に当たらしむることとせり。

 なほ聞く所、城内残留内外人は一時、少なからず恐怖の情なりしが、我が軍の漸次落付くとともに、やうやく安堵し来たれり。一時我が将兵により少数の掠奪行為(主として家具等なり)強姦等もありしごとく、多少はやむなき実情なり。

 

 十二月二十日  晴

此日 大使館ニ至リ新着ノ領事館

員等ト会見シ状況ヲ聞ク 曰ク 去七

月 大使館引上當時 支那側ニ寄託シタル

我公使建物ハ一部ノ小奪掠ノ外 概シテ

相當ニ保護セラレ 殊ニ大使館建物ハ

内容共 完ク完全ニ保存セラレアルハ

支那側ノ措置トシテハ寧ロ感服ノ値アリ

又 避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ

細民層ニ属スルモノナルモ 其数 十二萬餘

ニ達シ 独、米人宣敎師ノ団軆ト紅卍字

會等ノ人等ト協力シテ保護ニ任ジアリ 聞ク

江蘇省政府ハ其引上ニ際シ 独人 シーメンス

ノモノニ銀十萬 [×両×] 元ト南京現在ノ糧米ヲ托

シテ保護ヲ依頼シタルモノナリト云フ 真否

明カナラサレト現ニ城内ニ現蓄セラレアル糧米

ハ一萬担ニ達シ 外ニモ尚 隠匿セラレアルモノアリ 當

分ノ間 居留民ノ糧食ニ事欠クコトナシト云フ

支那要人等 著名ノモノハ残畄セルモノ見當

ラサルモ 漸次 相當資産階級ノモノモ顔ヲ出

シ来ル模様ニ付 其内 矢張 治安維持 地方

自治支那人団体ヲ形成スルヲ得ヘキ見

込ナリ 此南京ノ宣撫ハ最初 軍特ム部ヲ

シテ之ニ當ラシムル積ナリシモ 人不足ノ為メ矢張

上海派遣軍ヲシテ適当ノ人(隊長)ヲ選ヒ

特ム機関 領事館ノモノオモ併セ指揮シ

テ宣撫ニ當ラシムル事トセリ

尚 聞ク所 城内残留内外人ハ一時 不少 恐怖ノ

情ナリシカ 我軍ノ漸次 落付クト共ニ 漸ク

安堵シ来レリ 一時 我将兵ニヨリ少数ノ奪略行

為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク 多少ハ

已ムナキ実情ナリ

 

 

   12月21日  晴

 朝10時発、悒江門付近、下関を視察す。この付近なお狼藉の跡のままにて、死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも、一般に家屋等の被害は多からず。人民もすでに多少宛帰来せるを見る。躉船、桟橋等、大分焼却せられあるも、多少の修繕を施せば6~7個の桟橋を使用し得る見込み。現に第13師団の渡航部隊、国崎支隊の阪南部隊の渡河は続々実施せられあり。ただし浦口の桟橋は1個を残すほかことごとく焼却せられ、停車場のごときも全く消失して用をなさずといふ。今後、津浦鉄道の北向利用は困難あるものと認めらる。

 

   12月22日  晴

 午前10時半、水雷艇鴻に便乗、下江す。途中 烏龍山及鎮江付近、砲台の残存せるもの、江陰要塞の現状、封鎖の有様など視察しつつ、夕刻、白茆口付近に仮泊す。

 鎮江は損害少なく、電灯などすでに点じある由。現に多少の火災あるも大なることなし。埠頭もほとんど現存する由にて、楊州に在る第11師団部隊の補給連絡等、支障なく実施せられあり。

 江陰要塞も大破なく、就中、ドイツ製15センチ高射砲の新式のもの十数門は、価値あるものなり。

《上海帰着》

 朝9時出港、午後1時上海市政府埠頭に安着す。上海出発以来、丁度2週目にして、南京入城の大壮挙を完成し帰来する気持は格別なり。これより謀略その他の善後措置に全力を傾注せざるべからず。

 

   12月23日  晴

 2週間振りに帰来す。上海情勢、漸次平静に向かひつつあるも、南市の処分、未だ終らず。滬西方面にある外国人の居住も一応は許可せるも、支那人の出入自由ならざるため、実行、意のごとくならず。その後の謀略につき、原田少将、楠本大佐を召致して状況を聞く。これまた多少とも進展の模様にて、上海在住実業家を網羅する和平、救民運動はやうやくその緒に就かんとしつつあるも、未だ十分のまとまりを見ず、一層の努力を要するものと思はる。

 思ふに先日来のパネー事件、蕪湖事件等、英米抗議に対する東西の衝撃が、とかくに上海支那人中にも鋭敏に影響するものありしか。

杭州占領》

 第10軍はこの日、杭州を占領す。最早、何程抵抗なく第114、101師団により易く占領せられたるは欣ぶべし。なほ在留外国人の問題もなく無事なりしが幸ひなり。今後、風紀問題等も故障なからんことをひたすら祈るのみ。銭塘江対岸に対する作戦は今後の情勢により決することとし、暫く肅山、余杭附近を消極的に占領せしむるに止む。

 

   12月24日  小雨

 朝10時、米国海軍長官ヤーネル提督を訪問す。偶パネー号事件もあり、一応訪問し置くを利とすると認めたるによる。米長官以下、能く接待し、態度可なり。上海問題に関し色々の注文を出したるも、大体能く我が軍の態度に信頼を置くもののごとし。パネー号事件に関しては予より一応、遺憾の意を述べ、また犠牲兵に対し弔辞を

述べたるに、誠意、能く容れたり。

 要するに米海軍は我らに対し何ら、毫も感情的悪感なきものと認めたり。なほ彼は特に予に写真を送りたり。帰途、大使館を訪ひ、大使、総領事等に会し、上海方面一般の情勢を聞く。別に大したことなきにより、近々上海付近を一般外人、支那人に解放すべきことを申し合はす。なほ税関問題等については、現下の英米抗議問題片付きたる後、さらに強硬に我が最初の主張を貫徹するを利なりと考へ、右様申し入れ置きたり。

 

   12月25日  晴

《米長官来訪》

 朝、米国ヤーネル提督に以下多数の幕僚、マリン司令官を伴ひ答礼に来たる。予も誠意もつて遇し、日米両国の太平洋の平和に協力すべきことを述べ、なほ上海将来の治安維持については列国の協力を必要とすることを語りたるに、彼もまたこれに賛成し、なほ仏国租界内における排日分子の取り締まりにつき、専任司令官の立場をもつて彼より仏国側に所要の助言ありたき旨、述べたるに、彼は直ちにこれを承認せり。これにてこの日は毫もパネー事件その他、時局問題に直接触るることなく、すこぶる晴蕩の気分にて引き揚げたり。

《仏国海軍の招待》

 午後、仏国旗艦ピツケー号上における仏提督の午餐に出席す。仏国大使始め、例のジヤキノウ牧師等まで多数列席、すこぶる晴蕩たる気分の会食なり。助才なき仏提督、能く談じ、切に親和の情に努む。

 予もこれに応じて応酬し、大使、総領事に対し成るべく速やかににかつ完全に仏租界内の排日分子の清掃を要求せるに、彼は努めてこれに当たるべきも、何分避難民数多く、その取り締まりに困却しある旨を述べたり。彼らまた相応誠意なきにあらざるも、仏国側のことなれば、到底その完全を望むべからざるは勿論なり。

 聞く。同提督は26日発、海防に向かふ由。

 

   12月26日、27日  晴
      28日  雨

 東京と諸般の連絡ならびに意見具申のため、塚田参謀長を派遣す。

 上海兵站病院を視察す。設備も漸次整ひ、現在、傷病兵約5千名に過ぎず。赤十字看護班の協力により、大体好成績に衛生諸設備行はれつつあり、安心す。なほ慰耤の手段に欠くる所あり、研究を促し置けり。

《パネー号事件解決》

 26日、パネー号事件解決の報あり。十分の出来にはあらざれど、これにて一段落となれば、支那の各地方に対する影響、相当大なるべく、今後、上海付近謀略工作などにも一層進展を期し得べし。

 南京杭州付近また奪略、強姦の声を聞く。幕僚を特派して厳に取り締まりを要求するとともに、責任者の処罰など厳重、各軍に要求せしむ。

 27日、中[ママ]支那軍、済南を占領すとの報あり。今後 中[ママ]支那軍はさらに南方へ作戦し、山東を全然孤立せしむるの要あり。これがため我が軍において江北地方の作戦を徐州付近まで進むることさらに有効なりと信じ、前述塚田少将に対し右意見を東京に具申せしむ。浙江方面に対する作戦は右作戦の関係もあり、しばらく時機を待つこと有利なりと考へあり。

秩父宮妃殿下より御手製の靴下2足、将校婦人会を経て下賜せらる。御付武官に御礼の電報を出す。》

 

  十二月二十六日、二十七日  晴

  二十八日  雨

東京ト諸般ノ連絡 幷 意見具申

ノ為メ塚田参謀長ヲ派遣ス

上海兵站病院ヲ視察ス 設備モ

漸次整ヒ 現在 傷病兵 約五千名

ニ過キス 赤十字看護班ノ協力ニ依

リ大体 好成績ニ衛生諸設備 行

ハレツヽアリ安心ス 尚 慰耤ノ手段ニ欠クル

所アリ 研究ヲ促シ置ケリ

[上欄]パネー号事件解決

二十六日 パネー号事件 解決ノ報アリ 十分

ノ出来ニハアラサレト 之ニテ一段落トナレハ

支那ノ各地方ニ対スル影響、相當

大ナルヘク 今後 上海附近謀略工作

ナトニモ一層 進展ヲ期シ得ヘシ

南京杭州附近 又 奪略 強姦ノ

聲ヲ聞ク 幕僚ヲ特派シテ厳ニ取

締ヲ要求スルト共ニ 責任者ノ處罰

ナト厳重<各軍ニ

    要求セシム

二十七日 中[ママ]支那軍 済南ヲ占領ストノ

報アリ 今後 中[ママ]支那軍ハ更ニ南方ヘ

作戦シ 山東ヲ全然孤立セシムルノ要ア

リ 之レカ為 我軍ニ於テ江北地方ノ

作戦ヲ徐州附近 迠 進ムル事 更ニ有

効ナリト信シ 前述 塚田少将ニ對シ右

意見ヲ東京ニ具申セシム 浙江方面

ニ対スル作戦ハ右作戦ノ関係モアリ暫ク時

機ヲ待ツ事 有利ナリト考ヘアリ

秩父宮妃/殿下ヨリ御手/製の靴下/

 二足 将校/婦人會ヲ経/テ下賜セラル、/

 御附武官ニ/御礼ノ電報/ヲ出ス》

 

   12月29日  雨

 この日、市政府区に新営せる軍司令官官邸に引き移る。この家は支那人の家にて病院に充つべき未完成のものなり。これに手入れを加へ、相当の良官邸となれり。新築なるをもつて気持宜し。

 南京において各国大使館の自動車その他を我が軍兵卒掠奪せし事件あり。軍隊の無智乱暴、驚くに耐へたり。折角行軍の声価をかかることにて破壊するは残念至極。中山参謀を南京に派遣して、急遽、善後策を講ずるとともに、当事者の処罰は勿論、責任者を処分すべく命令す。ことに上海派遣軍は殿下の統率せらるるもの。その御徳に関する儀にもあり、厳重に処分方取り計らふ積りなり。

 上海四囲の虹口、滬西地区、南市等一帯に外人、支那人の開放を本日より施行す。その結果、将来、多少の不祥事発生すべきも、これ却つて支那人の見せしめに可なるべく、軍隊側も自然、緊張味を加ふるに至れば、軍紀·風紀問題にも良好の結果を得べしと思ふ。

 第10軍の第18師団は杭州西方富陽方面に敵を追撃し、多少の損傷ありたるも、概してこの方面の敵軍は最早戦意なく、逐次退却しつつあるも、なほ銭塘江右岸地区にさらに全般的追撃を実行する要ありと認む。

 

   12月30日、31日

 この日、李擇一、陳中孚、萱野等と会し今後の謀略につき指示を与へ、その意見をも聞く。上海における平和運動は漸く熟し来り、近々その声を揚げ得べしとのことなり。

 李は近く香港に行き、宋子文等と連絡し、国民政府のその後の動静を偵察すべしといふにつき、宋子文はこれを利用するは可なるも、新政権には参与せしめむべからざる意を伝ふ。

 陳の言によれば在漢口居正の妻、来滬、我が方の意向を知りたしとのことにつき、大体差し当たり防共、亜細亜主義のほか特に注文なき旨を告げ置きたり。なほ居正その他国民政府の一部には、蔣の下野を前提として日本との平和交渉に入りたき希望ある由につき、彼らに蔣下野後、国民政府を解体し、新政権を組織するを先決要件とする旨をも伝へたり。

《31日》

 温宋堯、唐紹儀の代理として来訪。飽くまで蔣の下野を必要とすることを述べ、尚両広(広東・広西)を独立せしめて英国との関係を遮断するの必要を述ぶるにより、同意を与へたり。なほ温は来着匆々、唐の意を承けて広東に至るべき旨を語れるにより、当方も和知大佐を派遣して協力せしむる様、談じ置けり。なほ我が軍は広東を攻撃するの態度を取ること、両広工作上、必要なりと語れり。この儀は研究の価値ありと認む。

 

昭和13年(2598年)

   1日元旦

 陣中元旦感無量。況んや予、本年還暦、寅年に会す。この年をもつて宿志を遂行せざるべからず。朝、屠蘇を祝ひ、11時、方面軍司令部に至り 一同の祝賀を受けたる後、東方に向かひ遥拝式を行ひ、了へて正午、司令部員一同と祝宴を張り、両陛下の万歳を三唱す。

 帰邸の後、各官の祝賀を受け、良元日を祝福す。

   昭和戊寅年頭所感

 北馬南船

幾千秋  興亜宿念顧多羞

 更年軍旅人還暦  壮志無成死不休

 

   1月2日

 朝来、長谷川長官、川越大使等の来訪を受け、諸般の問題を語る。

 塚田参謀長、東京より帰来す。

 その報告によれば、

1.軍の作戦に関し参謀本部は極めて消極にして、今後作戦範囲を拡大するを欲せず。

2.今後の善後措置に関しては、政府は未だ何等の決意なく、あるいは国民政府との妥協も意を嘱し、または新政権の設立を希望するなど、その腹の定まらざること予想のほかなり。

3.しかも軍今後の謀略について深き熱意を有せず、自然、予の希望し残したる人間の派遣に同意せず、ことに予が直接大臣に書信を与へたるにかかはらず、これに返答することなく、次官との交渉すべきを塚田少将に答へたるなど、その優柔不断、驚くに耐へたり。

 これを要するに、政府をしてこの際、国民政府に見切りを付けしむることが、今後の作戦ならびに謀略を実行するの要を認めしむるの先決要件なるを感ぜしむ。よつて大使館側および海軍との間にまづ当地の意見をまとむること必要なりと考へ、これが交渉方を命ず。

 この日新年の書初めを行ひ、多数の旧詩を録し、部下に分配す。

 

   1月3日  曇、寒し

 第10軍に命じ第101師団を上海付近に復帰せしむべく命令す。

 またさきに軍の直轄とする国崎支隊を奉勅命令により北支那軍に復帰せしむべく命令す。本支隊は南京および上海にて乗船し、13日乃至16日出発の予定なり。

 午後、海軍長官を答訪し、上記政府の態度につき通報するとともに、軍の作戦は今後、小範囲の必要なるものに限り、その拡大を行ふこと能はざる旨を告げ、せめて桃中山(銅陵)、鉄砿位の占領を行ひたき意向なるを告げ、該地付近の情況の偵察を依頼す。

 また虹口地区における支那人の復帰を海軍側が遅[→踟]蹰しあるは、一般の情勢上、面白からざる旨を告げ、努めて速やかに復帰方希望するとともに、これがため警備上兵力を要するなれば、陸軍においてこれが援助を吝[おし]まざることを述べ来たる。けだしこれに関する海軍の真意不明。あるいは居留新民の甘心(一部のものむしろ不良なる独占的思想者)を買ふためならずや。考究の価値ありと認む。

 

   1月4日  晴

 河相外務書記官来訪、東京の情勢を聞く。なほ今夜、大使始め外務省側一同と会食の予定なれば、その上重ねて意見を交換するはずなるも、彼が意向は大体、大亜細亜主義の実行に賛成しあるは頼もし。

 この夜、川越大使以下大使館員ならびに河相局長を合はせ時局善後談を試み、まづ

1.政府をして国民政府を否認する旨、何らの形式において声明せしむること、

2.上海税関および塩税収入はそほ幾分を英米銀行に委管せしめ、残部を正金銀行に保管せしめ、将来、南京政権の財源に使用せしむること、

3.上海共同租界の行政および警察に日本の有力者採用を強要すること、

4.虹口租界に支那人を自由にし、その繁栄を謀ること、

5.軍の占領せる虹口~呉淞間の地区に速やかに水道、電気、電話の施設を完成すること、

6.上海以外軍占領区域に逐次に外国人の居住·往来を自由にすること

等を協議し、いづれも意見の一致を見たるにより、さらに海軍との間に意見を取りまとめ、一面これを東京に上申するとともに、現地において実行すべきものを着々励行することに打ち合はせたり。

 

   1月5日  晴

 陸海軍幕僚、特務部の者どもを会合せしめ、昨日大使と協議せる今後国策策定に関する意見中、国民政府否認の声明を発表するの可否につき協議せしむ。大体海軍も予の意見に同意につき、ここに陸海、外務三方面より右意見をそれぞれ東京に具申することに談をまとむ。

 この日、船津辰一郎を招致し、時局に関する意見を聞く。大体これまた予の意見に同意なり。

 

   1月6日  晴

 温宗堯来訪。両広独立運動に関し打合せをなす。温は8日上海出発、香港に向かひ、同地にて同志と協議のはずにつき、当方よりも和地大佐を、能はざれば中井中佐を香港に派遣し、連絡の上、協力せしむることに約す。

 両軍参謀長を招致し情勢を聞き、今後の諸件につき指示を与ふ。両軍の軍紀·風紀も漸次取り締まられ、緊粛に勉めつつあるにより、今後最早、大なる憂慮なきものと認む。なほ今後軍作戦拡張の件については、東京との諒解を得次第、江北および浙江を両方面に向かひ一部の作戦を実行したき予の意向を告げ、夫々準備に怠りなき様要求す。

 その後の謀略、漸次進行中なるも、陸海外務の連絡十分ならず、また各自それぞれ自己の意に従ひ活動し、統一を欠くの感あり。市民協会の設立のごときは全然陸軍の与り知らざりしところなるがごとき、その一例なり。こんなことでは将来のこと思ひ遣られ、何としても速やかに予の直轄の下に一大謀略機関を置き、海軍、外務の人々をも一団となり働く様組織するの要を痛感す。

 三菱銀行上海支店長、吉田氏来訪す。今後の経済問題に関する意見を聞く。格別のことなきも、大体予の意見に反せず。これらの人も将来特務機関中に包容、ともに研究せしむるを可なりと認む。

 

   1月7日  晴

 島田俊雄岡田忠彦大口、原口などの政友議員団、慰問に来訪する。

 阿南人事局長、各地の視察を了り帰来す。その報告によれば、各軍とも軍紀·風紀その他の諸問題漸次振粛し、作戦準備もまた怠りなしとのこと。安心す。

 先日来、大使館、海軍との連絡の結果、この際、我が政府をして国民政府否認を決定し、何らかの形式によりこれを内外に声明するは今後の作戦および謀略上重要なりとの意見に一致し、これが意見具申を大臣、総長に提出するとともに、海軍および大使館をして各々それぞれ上申せしむるに取り計らふ。なほこれに関し人事局長に託し、近衛首相、広田外相、杉山陸将の連名にて私信を認[したた]め、右大方針に伴ふ爾後の作戦、およびこれが実行機関として上海に予の統括の下に特務機関を設立し、海、外、大蔵および商工省等の人員をも網羅し、今後の軍事、政治、経済諸問題を研究立案せしむるの要あるを申し遣はす。

 なほこれが特務機関要員として佐々木到一和地大佐の両人は是非必要につき、速やかにこれを軍司令部付に任命すること、および成し得れば塚田少将を第一部長に任命し、その後任として佐々木少将を充当するも可なるべく、能はざれば佐々木は特務要員に、参謀長は天津にある川辺少将を充当するも可なる旨、申し遣はす。またこれとともに今後軍の作戦および兵力減少の時機に関し、3月まで現情維持の必要なる旨を次長に伝言す。

《第10師団と連絡し、徐州付近隴海鉄道を占領し、塩の運輸を断つとともに、浙江における今後政権の範囲を拡張するため、今後あるいは江北、浙江に対し小規模の作戦を行ふの必要なることをも言ひ付けたり。》

 

   1月8日  晴

 賀陽宮殿下、大学教官の御資格にて戦場視察の為め御来着。軍司令部において一応、主任者より戦況経過其他の所感につき御説明す。殿下すこぶる御元気に、かつ熱心に御研究の状、恐縮の至りなり。

 

   1月9日  晴

 この夜、島田俊雄一行を晩餐に招き、種々時局問題につき予の意見を開陳す。彼ら大体に予の意見に同意。帰国後、大いに尽力すべき旨、申し述ぶ。

 先日来、上海租界内にて兵と外国巡査の衝突、日仏兵の小衝突等あり。大事には至らざるも、彼我感情の阻隔を免れず。先般パネー事件以来、欧米等の態度やや強気となれるやの感あり。自然、支那人にも影響することなれば、適時、所要の手段を講ずるの要あるに至るやも知れず。しかれどもこの上、諸外国の神経を尖らせることも妙なり。さればなほ隠忍するを可とす。

 

   1月10日  晴

 内地の新聞の報によれば、昨日東京において閣議、内閣と大本営との打ち合はせ、参議との談合等行はれ、今後の対支政策につき一層具体的決定を見たるやの模様。内容不明なれど、まあ、かくのごとき漸次政府の旗色明朗となることは、軍の作戦·謀略の上にも明快となるのみならず、支那側に与ふる感興も浅からずと信ず。今後その結果を知るに及びてそれぞれ積極的に行動するを得べしと楽しむ。

 

   1月11日  曇

 この日、南市初度視察を行ひ、第10軍兵站部、砲·工兵厰等を視察し、警備状態を見、兵站病院を慰問す。

 南市の破壊は予想外にして、大部分、火災のため荒れ果てあり。この模様にては居留民の復帰も捗々しく行かざるは勿論につき、兵站司令官および警備隊長に旨を授け、成るべく早く多数の支那人を復帰せしめ、我が軍に懐かしむる様、十分の考慮と工作を行ふ様、申し付けたり。ことに警備隊の態度はやはり支那人を寄せ付けざる方[が]便宜にて面倒なしと云[ふ]気持らしく、これでは到底、南市の復活も何時になるやも計ら[れ]ざるにつき、是非充分の注意を与へたり。

 とにかく軍隊はやはり飽くまで軍隊にて、その気持ち到底吾らの思ふ様に行かざるは当然なるも、そのいわゆる支那膺懲、支那人蔑視の思想が今後とも善後措置にむしろ障碍を与ふべきこと想像せらる。何とか方法を考へざるべからず。

 兵站病院は元中山病院を利用しありて、その設備、建物等完全なれども、水道、電気、未だ一部しか通ぜざるため諸般の施設に不便多し。しかれども現在患者1,500名、相当に看護せられあり。ことに最近、赤十字救護班3班を配属することとなり、すでにその1班は来着しあれば、今後の看護その他に不都合なしと安心す。

 この夜、元第6師長を晩餐に招き色々の実戦談を聞く。

 

   1月12日  晴

 原田少将より政権樹立ならびに政治·経済工策につき既往研究の実況を聞く。大体最近順調に向かひつつあるは可なれども、なほ肝緊の中心人物に唐紹儀が乗り出すや否不明につき、これらにつきさらに外務、海軍と連絡しつつ工作を進むる様、注意を与ふ。なほこれら工作いささか不安の点あるをもつて、南京より佐々木少将を招致し共同研究せしむ。

 広西代表との連絡出来、不日、王紀文、香港に来たるとのことにつき、これが連絡のため何[→夏]文運を香港に派遣し当方の意向を伝へしめ、両広の懐柔に努めしむ。

 

   1月13日  曇

 軍占領地における各部隊が地方物資を占領保管し、地方自治の復活上障碍となりつつある旨、大西派遣軍参謀実視の報告を受く。よつてかねて各軍に訓示せる既徴発物資の処分につき、軍の意図を各部隊に徹底せしむるの要を感じ、参謀長に命じ各軍経理部長を召集し、状況を確かむるとともに所要の指示を与ふるの要を述べ、研究を促す。

 楠本大佐を召集し、南市自治機関の設立その他の模様を聞く。大体、緩徐ながら予の希望に向かひつつあることを知り、一通り安心するも、なほ以後の指導につき注意を与ふ。

 全般的謀略についても昨日原田少将に与へたると同様の注意を与へ、各方面との意思疎通と連絡に努むる様、要求す。

 

   1月14日  晴

  賀陽宮殿下の戦跡御視察に同行し、蘇州河に於ける第9師団渡河戦闘の跡を見、第36連隊第3大隊長、清水少佐の戦歴談を聞く。見れば戦場はさしたるものにあらず、当時敵の兵力に鑑み、その渡河のさしたるものにあらざるを知るとともに、当時における我が軍の志気の程度も回想するに足る。ことにその攻撃に昼間を択びたるは、我が砲兵威力の発揮を欲したるものなるべく、とかくに当時我が軍に夜襲的企図心の萎縻しあるを察するに足る。

 沿道、蘇州河両岸、ことに右岸地区には大分支那人帰来し、大道政府の巡査なども配置せられ、漸次、明瞭気分となりたるを悦ぶ。

 

   1月15日  曇

 伊藤公使来訪。政府の態度、ことにドイツ大使仲介運動いまなほ熄まず、政府これに捉はれて逡巡しあるの情報を伝へ、政府の処決を促すべく策動の要あるを述ぶ。吃驚す。よつて原田少将を招き、再度目下の情勢に応ずる軍の意見具申を行ふとともに、原田少将を一応帰京せしめ当局を鞭撻するの要ありとし、これが熟議を重ぬるとともに再度の意見具申の起案を命ず。 

 

   1月16日  晴

 この日政府は国民政府を今後対手とせざる旨の声明を発したり。その真意審かならざるも、一歩我らの主張に近づきたるは疑ふの余地なし。ただ何だか未だ政府の決意に不安あるをもつて、やはりこの際、当地各方面の意見を政府に進言し、今後の覚悟を強固ならしむるとともに、今後これに応ずる謀略は勿論、作戦にも一段の進境に進むの必要を具申するの必要なるを感知し、伊藤公使、塚田、原田両少将と熟議の上、右様決定し、これに応ずる当地の諸方針を至急取りまとむべく命ず。

 

   1月17日

 賀陽宮殿下、昨日台湾より再度当地に着せられたるにより、午後、御宿舎に伺候し、方面軍編成当時の経緯ならびに丁集団上陸作戦に関する当時の予の意見等を御説明するとともに、なほ本作戦間の経験に基づく所感の二三を御説明す。

 終つて会食の栄を賜ひ、朝日新聞社より寄贈の映画、万歳等を見、一夕の歓を尽くす。

 

   1月18日  曇

 賀陽宮殿下午後2時発、御帰朝せらるるにつき、王賓飛行場に御見送りし、終つて月浦鎮楊行鎮におけるバラツク建設予定地等を視察す。

 付近支那人の一部は廃墟となれる家屋を仮修繕し、多少宛帰郷しあるを見る。なほこれらに生活の途を与へ、これを帰服せしむるの手段を講ずるの必要を痛感す。

 本日の飛行便に托し参謀次長宛、謀略に要する人事の即決を促し、なほ今後軍が江北および浙江、安徽に向かひ小基[→規?]模の作戦を行ひ、寧波をも攻略するの意図なることを申し遣はす。

 

   1月19日  雨

 原田塚田武藤公平を集め今後の謀略、作戦に関する研究を遂げ、委曲、明二十日、飛行便にて原田少将を帰朝せしむるに取り計らふとともに、これに関する当地の計画意見を筆記具申することとし、同時に伊藤公使、岡崎外務書記官のほか海軍側より1名を帰朝せしめ、海軍側に対し同様説明せしむることとす。

 七夫、藤岡同道、視察慰問のため着す。よつてこの夜会食、久振に内地の便りを色々聞く。

 なほ寧波および浙江省に対する今後の攻撃につき幕僚側の研究を促す。

 

   1月20日  小雨

 東京市会議員および鐘紡代表者、慰問に来訪につき、今後の対中支政策に関する予の意見の一班を申し聞かす。

 宮地貫道来訪、日々新聞を軍にて買収の件につき希望を申し入る。よつて金子少佐を招致し成るべく便宜取り計らふ様、申し遣はす。

 

   1月21日  曇後小雪

 この朝8時、北停車場発、汽車にて杭州に行く。なほ清水書記官をして支那人数名を伴はしめ、杭州治安維持会と連絡せしむることを取り計らふ。

 滬杭鉄道は嘉興以西の破壊、大なりしため、やうやく去る17日、杭州に開通するに至りたるも、一同の努力により今後毎日250トンくらいを輸送し得る程度となれるは喜ぶべし。沿道都市は相当の被害あり、ことに嘉興は大部分破壊し、自然、人民の帰来、意のごとくならざるも、概して滬寧鉄道沿線に比し良好にて、その回復も速やかなるべしと思はれ、只沿線守備の後備大隊の一般地方安撫の意気足らざるは遺憾につき、それぞれ激励を与へたり。

杭州は予想以外に破壊せられず、一般に平穏の機運漲りあるは喜ぶべきも、支那軍が退却に充分の準備時間を有したるため、ほとんど官公私宅での物資を持ち去りたるため現情すこぶる振はず、治安自治の人々もまた無力にして、将来何ら[か]の方法を講ぜざれば自治復興困難なりと認めたり。》

 

   1月22日  晴

 軍司令部、師団司令部を訪ひ、野戦、予備の両病院を慰問し、さらに雲隠寺付近の状勢を視察す。

 軍司令官の態度、可なり。ことに軍紀・風紀の取締に努力せる形跡あるは可なり。水嶋師団長は真剣に諸般の事を処理し、最も良好なり。

 軍司令部が軍隊の休養に重きを置き新配備に就きたるは、既往の作戦直後としてやむなき事情あるは諒とするも、ために一般の志気に悪影響を与へたる感あるは遺憾なり。

 すなはち予の希望せる銭塘江右岸の攻撃を実行するためには、今後20日の準備時日を要すとのことなるが、かくては114師団の引き上げ関係等よりその攻撃実行不可能と思はれ、何らかの便法を講ずるの要あり、研究を促し置けり。

《在杭州宣撫の情況は上記杭州の実況上、まづ上海との交通を容易にすること必要にて、さらに上海または対岸より有力なる人および物資を入るることも必要と思はれ、それぞれ当局者に注意を与へ置けり。》

 

   1月23日  晴

 朝10時、飛行機にて出発、湖州、平望等を上空より視察しつつ龍華に帰着す。

 湖州は殷盛にして宣撫の工作も可なり。

 当地農村は一般に兵燹に罹れるもの少なく、すでに安穏の状勢にあるは喜ぶべし。

 龍華付近および滬西地区警備および宣撫の状勢に関し佐藤少将より報告を聞く。一般の状勢、漸次安穏に赴くも、なほ住民、家無く、帰来するもの極めて稀にして、我が軍隊の宿泊すべき家屋も充分ならずと。

 宣撫の効果、未だ緒に就かず。滬西地区すでに解放するも、外人ども帰来するもの極めて少数に過ぎず。要するにこれらの状勢は深く考慮すべきものにして、各所避難所の措置等と併せ研究すべきものと思はる。

 

   1月24日  曇

 参謀次長より、第114師団を2月17日より輸送すべく、第11師団の天谷部隊は南京付近に集結して速やかに海路出発の用意ある旨、内報あり。

 あたかも浙江方面作戦の必要を痛感しある際、114師の帰還は大なる故障を生じ、その実行ほとんど不可能に陥るをもつて、これが善後策につき幕僚の研究を促す。思ふに参謀本部が数度にわたる我が意見具申を無視し、当地方政略関係を顧みず、徒らに軍隊の転用を計画するの妄を歎ぜざるを得ず。

 さきに香港に差遣せる岡田尚、帰来す。その報告によれば、宋子文は蔣介石と離れて当方面政権に合流するの意、多少動きつつあるもののごとく、日本にして真に支那を救済するの意をもつて動くなれば、彼にも浙江財閥を掌握して国民政府と分離するも避けず、進んで我が方とこの間の接衝を試むるの意ありとのこと。右は宋美齡宋子安らとも協議の結果なりといへり。この間の真意に多少の疑いなきにあらざれば、篤と研究を重ねたる上、何分の措置を講ずるを要と認む。

 また福建、陳毅は目下国民党部の軟禁に遭ひ進退自由ならざれば、何とかして福州の現状に処し、あるいは福州を離脱して後図を図らんとするの意ありといふ。これまた遽に信を措き難く、さらに調査の要あり。

《第16師団長、北支に転進のため着滬す。そのいふ所、言動、例により面白からず。ことに奪掠のことに関し甚だ平気の言あるは遺憾とする所。よつて厳に命じて転送荷物を再検査せしめ、鹵獲、奪略品の輸送を禁ずることに取り計らふ。》

 

  1月25日  晴

 この日、羅店鎮、嘉定、南翔附近の戦跡を視察し、地方の状勢を観察するに、とにかく各所人家の大部破壊せられ、人民帰るに家なき様にて、嘉定県内に従来20万余の人口ありしもの、今帰来せるもの約2万に過ぎず。大部は春期に入らざれば復帰覚束なき状勢なり。ただし嘉定県城には毎日なほ100余名の帰来者あり、地方治安の回復とともに漸次、一部の復興を見つつあり。

 瀏家鎮はなほ帰来者300名に過ぎず、最も不成績なり。軍の宣撫工作は漸次効果を挙げつつあるは事実なるも、なほなほ研究の要あり。

 

  1月26日  晴、寒し

 川越大使帰朝の下命。不日出発につき来訪、意見を交換す。大体予の意見に同じ。

 なほ原田少将、本日帰来のはずなりしも不着につき、明日その帰任を待ち東京の状況を確かめたる上、さらに今後の政治工作ならびに作戦に関する腹を定め、同大使にも伝言して当局の再考を促すべく決定し、幕僚にも研究を命ずるも、幕僚どもも最早さらに積極的に軍の最後を全ふするの熱意と誠意足らざるもののごとく、とかくに自重消極に陥らんとするの状にあるは遺憾なり。

 派遣軍より鳳陽攻撃の意見具申あり。よつて攻撃後、現配置に復帰する条件の下にこれを許可す。けだし津浦線における我が軍の積極的行動は、目下の状勢上、緊急なりと認むるも、何分、参謀本部これを認めず、すでに兵力の転用を内命し来たりある現状において妄りに派遣軍の稟申を許容し難く、ことに浙江方面に対する今後の作戦も考慮するときは、この際、軍は全般的に今後の作戦方針を定むるの要あるをもつて、一時、右のごとく措置するの外なきなり。

 

   1月27日  晴

 原田少将帰任す。その報告によれば、東京政府は大体において当方この後の政治・経済方策に依存なきも、陸軍省は将来、飽くまで北京臨時政府をして支那を統一せしめんとの意なる由には一驚せり。外務、海軍はしからずと[の]ことなれど、陸軍側は主として北京方面軍の意見に動かされあるもののごとく、参謀本部は必ずしもしからずとのこと。かかる思想が従来当方面における謀略、作戦を掣肘し来たれること今やほとんど明瞭なり。この妄を啓くにあらざれば将来における中支方面の策動はすべての困難に遭遇すべく深憂を禁ぜず。すでに先般来当地方面は、一方日本側の消極に反して、漢江政府の軍事、政治両方面における積極的工作および宣伝と相俟ちて、漸次に形成悪化しつつある際、この際、当方としてはこれに対抗すべき積極的態度を要すべきは勿論なり。

 しかも東京陸軍側の態度かくのごとくにては、到底謀略・作戦ともに予の欲する底の工作を実行する能はず。何とかしてこの難境を突破せざれば、予は1万有余の忠霊に対し地下に見ゆること能はず。篤と思案を要すべしと覚悟せるも、なほ明日来着のはずの本間少将の意見をも聴取したる上、決心すべく、取り敢へず明日帰朝の途に就く川越大使に対し充分この間の事情と予の意中を説明し、帰京後一段の尽力を頼むこととせり。

 なほ李思浩は一両日来、行衛不明となり、当地の政治工作に頓挫を来せり。これまた篤と研究、後図を策せざるべからず。

 しかも一昨日は敵飛行機は蕪湖、南京および杭州の各地に来襲し、我が軍にも損害ありしのみならず、江北滁県においても蕪湖の前面においても千余りの敵軍攻撃し来たり。勿論これを撃攘して相当の損害を与へたるも、かくのごとく我が方が依然消極守勢の地位にあり反つて敵軍より空陸の攻撃を受けある様にては、中々当方面政権樹立など思ひも寄らざる次第なり。李思浩の遁亡などもこの間の消息を明らかにするものなれば、この度は是非とも何らかの覚悟を定めざるべからず。なほ当地財界要人昨今の態度は却つて日々消極傍観的に陥りあるは、上海におけるテロ団の脅迫等にも原由すべく、併せて何らかの手段を講ずるの要ありと認む。

 

   1月28日

 川越大使、今朝出発、帰朝につき、大使館に決別し目下の状勢に関する所見を伝へ、中央当局の鞭撻を托す。

《軍今後の謀略ならびに作戦に関し中央部との意見の阻隔 これに対する感想》

 本間少将来着す。その言によれば江南方面に対する中央政府及軍部の態度なほ明確を欠くもの多きを感ず。政治工作、作戦方針ともにしかり。ことに政策と作戦との連繋に関する参謀本部の態度、充分の一致を見ざるやの観あるは遺憾なり。けだし参謀本部は将来各方面に対する責任感上、とかくになほ支那方面の作戦を努めて短期間内に終局せしめんとの希望やまず、自然北支、中支ともに作戦の不徹底を免れざるに至れるがごとし。ことに陸軍省側が北支軍の意見に誘惑せられて全支那の将来政局に関する判断を誤らんとするの観あるは憂慮すべきものなり。統率部の不断は出先軍に自然、独断的措置を必要とすることあるべく、政策部の誤認は適宜の独断と指導により事実的にその妄を覚らしめざるべからず。いづれにしても今後予の責任は重大なりと痛感し、要すれば一身を犠牲にするの覚悟すら要することあるべきと覚悟せざるを得ず。一身の安に就くは安し。身を棄てて国難に殉ずる[は]もとより覚悟せるところなれども、全軍統率の責任など考ふれば、ただただ一身の腹切るだけにては全軍統率の任務を完ふする所以にもあらず、篤と熟慮を要すべきの秋なりと自戒す。

 

   1月29日、30日

 参謀次長よりの来電に依れば、大本営は予の前後数回にわたる公私意見を採用せず、江北および西浙地方に対する軍の作戦行動を行はざることに決定せりとのこと。憤懣限りなし。之を要するに、我が陸軍の大勢に通ぜざる作戦部の腹なきに因するものなれど、かくては到底、当地の政権成立に大なる支障あるは勿論なり。ことに昨今支那側の宣伝と各方面における積極的行動に対し、どうしてもその出鼻を挫くこと緊要なるに係は[ら]ず、軍が折角容易に此の目的を達するに足る兵力を徒らに擁しつつ無理に消極的態度を固守することは、自然、将来江南地方に対する我が軍部の熱意を表明すること能はず、折角動きつつある反蔣政客の決心を鈍らすこと明らかなればなり。

 現に各方面の情勢を見るに、当地の政権運動は一頓挫の体にあり。しかも数日前来着せる佐藤安之助、高木陸郎等をして側面より支那側の空気を打診せしめたる結果、支那人間には相当蹶起の覚悟ありて、時期の到来を待ちつつあるは事実なるがごとし。我が方の態度、今においてかくのごときは真に遺憾に禁ぜず。よつてさらに各方面の研究を促し、万一の場合には予自らも決心せざるべからざることあるを期す。

 

   1月31日(旧暦元旦)

 先日来来遊中の七夫、好春明後日帰国、佐藤、高木も今日北支に向け出発につき、この夜会食、訣別し、なほ今後の諸問題につき協議す。

 結局、予の現任中この地に完全なる政権を樹立すること難く、なほ此様の政府、ことに陸軍の態度にては今後たとひ当地に政権を設立するもその指導その他にあまたの困難を生ずべきにつき、予はこの際、強ひてこの地に政権樹立までは行かず、地方自治会程度に止めて、むしろ一応内地に引き上げ、政府を鞭撻して爾後の諸政策を立て直すことに尽力する方良かるべしとの意見に一同同意す。

 よつて七夫帰朝後、篤と当地方の状況、これに関する予の意見を陸相および多田次長に委曲伝達してその再考を促すとともに、佐藤、高木は一応北支の情勢を視察し来たり、さらに当地の現況に即して援助することに談合す。勿論今後の情勢に応じ更に考慮すべきは勿論なれど、大体右様の覚悟を定め置けば余り心痛もなく一時を糊塗し得べく、予は心中極めて遺憾にして、また忠霊に対しても申し訳なき次第なれど、とにかく一時的措置としては最早これ位に思ひ止るほかなく、帰朝後さらに政府を鞭撻し、陸海軍当局の妄を啓きたる上、再渡支して最後の努力をなすを可とするの覚悟を定めたる次第なり。

 

   2月1日

 今朝、塚田参謀長を招致し、大体上述のごとき予の意見を述べたるに、彼ら幕僚の欲するところまたかくのごとく、勿論これに同意を表したるにより、さらに帰邸後、臼田、長の両人を招致し意見を叩きたるに、彼等は飽くまでこれに同意せず、予の在任中いかにもして政権樹立に遭[→漕]ぎ付けんとの決意固く、またその後支那人との折衝の模様、相当目的達成の見込みありとのことにして、李擇一らも今後専らこの運動に専念尽力することとなれるなど申し、予の決意を促すこと頻りなり。

 よつて予は、しからばとにかくその方針にて依然運動を継続し、一面、傅筱庵らをして上海自治機関の設立運動をも併行促進することに同意を与へたり。

 けだしその成否は勿論疑はしきも、やはりこれまでの努力を継続すること、もとより予の本意なれば、しばらく彼らの意に従ひその成行を見ることとすべし。ただしこれがためには要すれば今後軍の作戦をある程度まで断行するの必要あるべく、これに関しては篤と研究覚悟せざるべからず。まづ一応、本間少将帰国前、幕僚会議を開きて、本間少将を説得して当局に決意を促すこととし、さらに今後その情勢に応じて臨機の措置を講ずるの覚悟を定めたり。すなはち本月5、6日頃より自ら南京に至り、派遣軍の情勢を視察し所要の措置を執るの必要をも感じ、なほ研究考慮することとす。

 

   2月2日

 さきに帰朝の途に上り昨日帰来せる伊藤述史公使来訪、東京各方面の情況を聞く。大体従来各方面より聞知せる所に異ならず。要は政府、ことに外務陸海軍の決意、甚だ未だ心細く、今後大いに鞭撻を加ふるの要あるとの判断にて、ただ近衛首相だけが相当の決意あるのみにて、末次内相風見書記官[長]らが唯一の後援者たる有様なりとの事にて、伊藤自身も多分近く帰朝を命ぜらるべく、今後むしろ東京における画策に重要性ありとの談につき、なほ奮励尽力を勧告す。

 大川周明博士、数日前来滬せるにつき、招致して予の意見を色々開陳す。彼の考ふるところ全然予と同じきにより、むしろ至急帰京して東京における尽力を希望し、彼またこれを快諾せり。

 なほ今後当方面における思想、文化運動につき大川氏の尽力を希望せるに、これまた快諾し、帰京後、人選と組織につき考究すべきを約せるにより、これまた近衛、末次両人と熟議し東方文化事業部より出資せしめ、同文書院の組織等を利用するも一案なりと研究を促し置けり。尚、当地にすでに計画中の「興亜会」に支那の学者を収容し、彼らをして活動せしむるを可とするの意見を述べたり。これ最も適切の考察なりと考へ、研究を進むることを約す。

《第13師団は昨日鳳陽、臨准関、定遠を占領せり。敵の抵抗は予想のごとく頑強ならず、自然、当方の犠牲も少なし。まあこれにて徐州方面における支那の宣伝的作戦に一蹴を与へ得たるは幸ひなるも、なほも当方面に一層の強圧を加ふるの要あるべしと考ふ。》

 

   2月3日

 特務部謀略関係のものを集め、政権樹立、地方自治工作に関する状勢を聞く。

 その大要に曰く、

1.政権樹立運動は昨今やうやく本筋に入り来たるやの感あり。李思浩は一時香港に遁れたるも、近く帰滬すべく、すでに同人の各地に連絡せるもの北支より2名来着せり。温宗尭、梁鴻志、陳群、張簫林らを中心として、2月中旬、南京に華中政府籌備委員会を組織し、月内に政権樹立まで到達するの覚悟をもつて画策を進めつつあり。

2.地方自治機関は蘇州、湖州等はすでに相当の成績を挙げつつあり、最近、周鳳岐自ら杭州に至り同地に自治委員会を設立するはずなれば、これらの諸機関と前記政権と連絡して地方自治の実績を挙ぐることに努むべく、上海に政権樹立後には傅筱庵立ちて市政会、大道政府を合同して上海市機関を設立するの準備にあり

との事にて、大体是等の運動が具体化しあるは可歓。殊に李擇一も奮起して是等首脳者の連絡に当たることとなれりと云ふは是亦相当の仕事をなし得べしと考へらる

 よつてさらにこれら運動の妨害たる上海テロ団等の清掃、新聞の取締等に一層の努力を払ひ、安んじて彼等の運動を行ひ得る様、一般の情勢を作為するの要を述べ、その注意を促せり。

 

   2月4日

 かねて上海派遣軍において大場鎮西端に地を卜し表忠塔建設の計画あり。本日その地鎮祭を行ふにより列席す。地は大場鎮西端陣地の一部にして恰適の処にて、500~300mの地を画して適宜地形の改造等を行ひ、公園式様のものを設立する計画なり。経費は派遣軍将兵一同より約4万円を拠出し、兵力をもつて土工をなさしめ、記念碑は上海請負商をして3万円にて請負はしむることに定まれる由。大体の計画、適当なりと認めたり。なほ当日、各師団参謀長等会同し懐旧談を交へて会食し、意義深き地鎮祭なりし。

 本間少将、南京、杭州を視察し帰来せるにより、その後謀略の情況を説明するとともに、一般支那人は少くも徐州占領が政権の発達に必要なりとする感想多き旨を説き、参謀本部が少なくもこの際徐州攻撃を決行するの決心を定むるの要を説き、114師団を江北の運河を経て陸路北に転用するの利なることを説明し、研究を促したり。

 なほ将来軍が浙江、安徽方面に対してもその占領地を拡大するを要するとの予の従来の意見を図示して与へ、研究を依頼す。

 また軍編成の改変については敢へて異見なきも、軍司令官、参謀長の人選につき希望を述べ、要すれば予自ら残留することをも避けざることを申し含めたり。

 

   2月5日 小雪

 田辺輝雄、上海商務総会決議の異見具申案を携帯し来たる。よつてこれを接受するとともに、将来、上海居留民をして真に大局的見地に立ち、日支提携に努力する様指導方依嘱するとともに、今後においても進んで適時意見を特務部に向けて開陳せられ度き旨、申し含む。

 

   2月6日

 朝8時出発、汽車にて南京行。

 沿道の状況すべて著しく鎮静に動き、各地避難民も漸次帰来し、各地自治組織の成立しつつあるは欣ぶべきも、未だ一般の状勢なかなか容易ならず。支那人民の我が軍に対する恐怖心去らず、寒気と家なきため帰来の遅るること、もとよりその主因なるも、我が軍に対する反抗といふよりも恐怖、不安の念の去らざること、その重要なる原因なるべしと察せらる。すなはち各地守備隊につきその心持を聞くに、到底予の精神は軍隊に徹底しあらざるは勿論、本事件につき根本の理解と覚悟なきによるもの多く、一面、軍紀·風紀の弛緩が完全に回復せず、各幹部またとかくに情実に流れ、または姑息に陥り、軍自らをして地方宣撫に当たらしむることのむしろ有害無益なるを感じ浩歎の至りなり。

 6時南京着、直ちに大使館に投じ、夜、朝香宮殿下の御祝宴に列す。殿下は切に江北方面における作戦の必要を述べられ、また現兵力をもつて裕に宿県辺までは守備するに足ることをもつてせらる。御同感の次第にて、これ以上積極的行動は、中央の考の変るまでは慎しむべきも現状を保持するだけは依存なき旨、申し入れたり。なほ軍記·風紀問題についてはやはり第16師団長以下の言動宜しからざるに起因するもの多き旨語られ、全く従来予の観察と同様なり。

 

   2月7日

 朝、軍司令部に至り軍司令官および参謀長の報告を受け、なほ幕僚と懇談す。各課長の意見もやはり江北作戦の必需性と容易性を説き、多少後方守備の兵を増加せば、現第13師団の兵力をもつて広く宿県より芦州(合肥)の線を占領するに適すべく、後方補給もまた現機関をもつて実行し得る見込み充分なる旨を聞く。

 午後、慰霊祭に参列す。予は去年、南京入城翌日、最初の慰霊祭を自ら祭主として営み、今日また50日祭ともいふべきこの祭事に遭ふものなれど、さきのものは戦勝の誇と気分にて、むしろ忠霊に対し悲哀の情少なかりしも、今日はただただ悲哀その物に捉はれ、責任感の太く胸中に迫るを覚えたり。けだし南京占領後の軍の諸不始末とその後地方自治、政権工作等の進捗せざるに起因するものなり。よつて式後参集各隊長を集め、予のこの所感を披露して一般の戒飭を促せり。

  忠霊(病死とも) 18,000余

  斃馬       12,000頭

 終つて宣撫委員を集めその後の状況を聞くに、目下南京城内居住30万の人民中、10万余は城内の旧所に復帰して概ね我が軍に親しみつつあるも、尚半ば不安と外人側の庇護とにより復帰せざるは遺憾なるも、漸次著敷好況に進みあり。ただ自治委員の顔振れいかにも貧弱なるは、財源なきためその施設の見るべきものなきもその一因なり。将来、交通の回復と物資の出入りの便を講ずること目下の急務なりとの意見なり。尤ものことなりと思惟し、それぞれ機関にその旨を伝へ今後の活動を要求す。

支那側の自治委員の各員と会見す。彼等も頌徳の意を表するにより、予もその奮励協力を希望し置けり。》

 

 

↑(偕行社 南京戦史資料集 Ⅱ )

松井石根 戦陣日誌 昭和12.11.1~13.2.28(防衛省防衛研究所 支那-支那事変日誌回想-308)