Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

「助川部隊と海軍で掃蕩した敗敵の死体はこの町から揚子江下流へ二三里続いている。その数は約三万と報告されている。 …◯◯本部では南京総攻撃以来の死体計算を始めた。その結果、大体城外攻撃三日間に倒した数はなんと七万、城内掃蕩で一万五千、ほかに生捕りにしていまなお処置にこまっているものが各部隊を合して一万二千人である。」  大阪毎日新聞(奈良版) 1937.12.23

南京総攻撃観戦記 光本 本社特派員 ③

想いは遠き故郷へ
 祝杯に顧る苦闘
  倒れた戦友を悼み精進を誓う
   廃墟の敵都に愈よ迎える正月

 

 日本大使館へ行ってみると、館内はさすがに荒らしていないが、自動車は盗んで逃げている。ただここで意外にも日の丸を振って出てきた五十足らずの人のよさそうな支那人があった。聞くと永く日本領事館警察の支那語教師をしていたという孫叔栄氏で、日軍の来るのを随分まったとよろこんで、その下女とともに兵士を歓待した。

 次に中正路西方に足を進めたが、ここには十万人近い避難民がぼつぼつ帰りかけて、なかには敗残兵も多いというので、兵士は一人一人調べるために広場に集めている。

 さらに下関に向かった。ここは支那軍が揚子江から対岸へ、あるいは上流へ逃げたところで、船着き場に近い街上は逃げたときに捨てた小銃・弾薬が山のように積まれ、路上は弾丸と手榴弾で歩けない。家のなかも同様で、特に目につくのは軍服が町一帯に脱ぎ捨てられてある。皆奴等は平服になって逃げていることがわかる。助川部隊と海軍で掃蕩した敗敵の死体はこの町から揚子江下流へ二三里続いている。その数は約三万と報告されている。

 かくして城内の掃蕩も十四日午後五時ひとまず終わったので、◯◯本部では南京総攻撃以来の死体計算を始めた。その結果、大体城外攻撃三日間に倒した数はなんと七万、城内掃蕩で一万五千、ほかに生捕りにしていまなお処置にこまっているものが各部隊を合して一万二千人である。

 分捕り兵器は? 小銃は十五六万挺で、ちょっと数えきれない。軍用自動車四十台、オートバイ七十台、軍用機四、大小大砲三十門、弾もまたその数が判らないほど多い。そこで各部隊は十六日から城外掃蕩を続行しつつ分捕り物の大整理に着手することになった。

 これに先だって、十五日はいよいよわが◯◯部隊晴れの入城である。午後二時半、中山門西側城内には中山門突破の大野部隊恒広隊が堵列を終わった。一番乗りの四方隊は、この突破で死んだ戦友も栄ある入城に参列させようと、生き残った戦友が一人一人その遺骨を首にかけて整列しているのが目をひく。やがて荘重なラッパの音につれて中山門頭に入城する行進隊が進んで来た。馬上颯爽たる先頭の◯◯部隊長は、まだ雨外套に黒い毛皮の襟をつけた間に合わせの外套である。めっきりふえた白髪の顔は感慨にたえないまなざしだ。中山城門を入って出迎の友軍に静かに挙手答礼したそのあとに、中沢部隊長以下、何れも戦闘幾旬の労苦ありあり、髯武者姿の幕僚と各部隊長が続く。まことに歴史的な豪華入城だ。

 そのあとを進む入城代表部隊は片桐部隊西浦隊である。剣光先頭に輝き威風堂堂、ただ感激に尽きる入城の行進は、国民政府に入りて終わり、同政府本館三階の大広間で◯◯部隊長以下、万歳を三唱して祝杯があげられた。同部隊長は

 「一国の首都を占領し、そして今その政府のあとにわれわれが乗りこんだことは、まことに光栄だ。ただ南京城外の地下に眠る忠勇なる戦死部下を思うと感に堪えないものがある。静かにその冥福を祈るとともに、銃後各位にはいうべき言葉もないが、ただ出征以来熱誠な御後援をつづけられる各位に、さらに護国の鬼と化した戦病死者の遺族をお願いしたい。わが皇国はこの戦いを如何に結ぶかの大きな問題とともに、今後の時局はいよいよ重大化せんとするものがある。われわれは戦死英霊犠牲を想うとき、一層本務に精進したい」

と悲痛な面持ちで語った。

 各部隊の兵士は労苦三旬の体を休めた。しかしなお城外掃蕩をつづけて、いよいよこの正月は廃墟南京城内で迎えることになった。支那民家や軍官学校に腰を下ろした勇士達は「もう故郷は正月準備だなァ。これから戦争はどうなるだろうか?」と想いは遠い故国の空である。兵士達はいずれも家郷を案じ、戦争の将来と国家の将来をおもう話題ばかりだ。正月を南京で迎え、さて今度はどこへ行くのだろう。【完】

 

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南京總攻擊觀戰記 光本 本社特派員 ③

想ひは遠き故鄕へ
 祝杯に顧る苦鬪
  倒れた戰友を悼み精進を誓ふ
   廢墟の敵都に愈よ迎へる正月

日本大使館へ行つてみると館内はさすがに荒らしてゐないが、自動車などは盗んで逃げてゐる、たゞこゝで意外にも日の丸を振つて出て來た五十足らずの人のよささうな支那人があつた、聞くと永く日本領事館警察の支那語敎師をしてゐたといふ孫叔榮氏で、日軍の來るのを隨分まつたとよろこんでその下女とともに兵士を歡待した、次に中正路西方に足を進めたがここには十万人近い避難民がぼつぼつ歸りかけてなかには敗殘兵も多いといふので、兵士は一人々々調べるために廣場々々に集めてゐる、さらに下關に向かつた、ここは支那軍が揚子江から対岸へあるひは上流へ逃げたところで船着き場に近い街上は逃げたときに

捨てた小銃

彈薬が山のように積まれ路上は彈丸と手榴彈で歩けない、家のなかも同樣で、特に目につくのは軍服が町一帶に脱ぎ捨てられてある、皆奴等は平服になつて逃げてゐることがわかる、助川部隊と海軍で掃蕩した敗敵の死體はこの町から揚子江下流へ二三里續いてゐるその數は約三万と報告されてゐる、かくして城内の掃蕩も十四日午後五時一まづ終つたので、◯◯本部では南京總攻擊以来の死體計算を始めた、その結果大體城外攻擊三日間に倒した數はなんと七万、城内掃蕩で一万五千、ほかに生捕りにしていまなほ處置にこまつてゐるものが各部隊を合して一万二千人である

分捕り兵器は?

小銃は十五六万挺でちよつと數へきれない、軍用自動車四十台、オートバイ七十台、軍用機四、大小大砲三十門、彈もまたその數が判らないほど多い、そこで各部隊は十六日から城外掃蕩を續行しつゝ分捕り物の大整理に着手することになつた、これに先だつて、十五日はいよ/\わが◯◯部隊晴れの入城である、午後二時半中山門西側城内には中山門突破の大野部隊恒広隊が堵列を終つた、一番乘りの四方隊はこの突破で死んだ戰友も榮ある入城に參列させようと生き殘つた戰友が一人一人その遺骨を首にかけて整列してゐるのが目をひく、やがて莊重なラツパの音につれて中山門頭に入城する行進隊が進んで來た、馬上颯爽たる先頭の◯◯部隊長は、まだ雨外套に黒い毛皮の襟をつけた間に合わせの外套である、めつきりふえた白髪の顏は感慨にたへないまなざしだ、中山城門を入つて出迎の友軍に靜かに

擧手答禮し

たそのあとに、中澤部隊長以下何れも戰鬪幾旬の勞苦あり/\髯武者姿の幕僚と各部隊長が續く、まことに歴史的な豪華入城だ、そのあとを進む入城代表部隊は片桐部隊西浦隊である、劍光先頭に輝き威風堂堂たゞ感激に盡きる入城の行進は國民政府に入りて終り同政府本館三階の大廣間で◯◯部隊長以下、万歳を三唱して祝杯があげられた、同部隊長は

一國の首都を占領し、そして今その政府のあとにわれ/\が乘りこんだことはまことに光榮だ、たゞ南京城外の地下に眠る忠勇なる戰死部下を思ふと感に堪へないものがある、靜かにその冥福を祈るとともに

銃後各位に

はいふべき言葉もないがたゞ出征以來熱誠な御後援をつゞけられる各位にさらに護國の鬼と化した戰病死者の遺族をお願いしたい、わが皇國はこの戰いを如何に結ぶかの大きな問題とともに今後の時局はいよ/\重大化せんとするものがある、われ/\は戦死英霊犠牲を想うとき一層本務に精進したい

と悲痛な面持ちで語つた

各部隊の兵士

は勞苦三旬の體を休めた。しかしなほ城外掃蕩をつゞけていよ/\この正月は廢墟南京城内で迎へることになつた、支那民家や軍官學校に腰を下ろした勇士達は「もう故鄕は正月準備だなァ、これから戰爭はどうなるだらうか?」と想いは遠い故國の空である。兵士達はいづれも家鄕を案じ、戰爭の將來と國家の将来をおもふ話題ばかりだ、正月を南京で迎え、さて今度はどこへ行くのだらう【完】

 

↑1937年(昭和12年)12月23日付 大阪毎日新聞(奈良版)

『鉄証如山――吉林省新発掘日本侵華檔案研究』長春吉林出版集団有限責任公司 2014年 p.102