Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

松井石根『出征日誌第2巻』から(新漢字ひらがな表記) 1937.9.23~10.31

   9月23日(敵兵毒ガス使用?)

 本日、霖雨なほれず、時々小雨あり。陰鬱極まりなし。

1.第11師団の情況

 師団主力は昨日に続きて攻撃を力行し、羅店鎮南端よりまた坑道作業と相まつてその南方家宅付近を占領するを得たり。その中央および左翼方面は依然なほ進展せず。

2.第3師団の情況

 師団は昨日来、攻撃準備を整へ攻撃を開始し、中央方面において家宅を占領し捕虜10余名を得たるも、爾他の正面は戦況、何らの進展を見ず。

 この夜、当師団正面に向かひ約20発にわたり野砲射撃を受けたるが、その際、弾着地付近に石鹸様の臭気を感じ、数名の将兵、咽喉を軽度に損なひたり。早速、化学研究所員を遣はし調査せしめたるところ、我が赤筒に類する毒ガスの作用なりと察せられ、さらに調査を続けあるも、本日は何らこの種の射撃なく、その後の研究未了なり。けだし敵軍に毒ガス使用の準備ありとは考へられざるも、最近ソ支密約成立の関係もあり、あまり油断もならざるにつき、全線に対しこれが予防を講ぜしむるとともに、一方、東京に急電して、将来これが報復手段を執るの必要ある場合を考慮し、赤筒弾薬の至急送付方、電請せしむ。なほこれに関し師団にてはその携帯する緑筒の使用を申し出でたるも、敵軍毒ガス使用のこと未だ確実ならざるをもつて、しばらくこれを使用せしめざることに決す。

 第101師団の上陸は順調に進捗しあり。 

  九月二十三日(敵兵毒瓦斯使用?)

本日霖雨尚霽レス時々小雨アリ、陰鬱極リナシ

一、第十一師団ノ情況

師団主力ハ昨日ニ続キテ攻撃ヲ力行シ 羅店鎮南端ヨリ又坑道作業ト相俟テ南方奚家宅附近ヲ占領スルヲ得タリ 其中央及左翼方面ハ依然尚進展セス

二、第三師団ノ情況

師団ハ昨日来攻撃準備ヲ整ヘ攻撃ヲ開始シ 中央方面ニ於テ嗇家宅ヲ占領シ 捕虜十余名ヲ得タルモ 尓他ノ正面ハ戦況何等ノ進展ヲ見ス

此夜当師団正面ニ向ヒ約二十発ニ亘リ野砲射撃ヲ受ケタルカ 其際弾着地附近ニ石鹸様ノ臭気ヲ感シ数名ノ将兵咽喉ヲ軽度ニ損ナヒタリ 早速化学研究所員ヲ遣シ調査セシメタル処 我赤筒ニ類スル毒瓦斯ノ作用ナリト察セラレ 更ニ調査ヲ続ケアルモ 本日ハ何等此種ノ射撃無ク其後ノ研究未了ナリ 蓋シ敵軍ニ毒瓦斯使用ノ準備アリトハ考ヘラレサルモ 最近蘇支密約成立ノ関係モアリ余リ油断モナラサルニ付 全線ニ対シ之レカ予防ヲ講セシムルト共ニ 一方東京ニ急電シテ将来之レカ報復手段ヲ執ルノ必要アル場合ヲ考慮シ 赤筒弾薬ノ至急送付方 電請セシム 尚之ニ関シ師団ニテハ其携帯スル緑筒ノ使用ヲ申出テタルモ 敵軍毒瓦斯使用ノコト未タ確実ナラサルヲ以テ、暫ク之ヲ使用セシメサル事ニ決ス

第百一師団ノ上陸ハ順調ニ進捗シアリ

 

  10月4日

 天気また陰鬱。聞く、南方洋上、低気圧の掩留するものありと。幸ひに雨に至らざるも、なほ多少の降雨を見ん。

1.第11師団状況

 変化なし。

 左翼第22連隊は西南方に進出す。

2.第9師団の状況

 右翼は新木橋を占領し、右下りに櫓網湾~魔橋頭~徐家宅~田都の線に進出するも、広福、新陸宅付近の東面する敵陣地、相当強硬にして、この師団は飽くまで右方面より南方に向かひ主攻撃を行ふこと有利なるも、軍がその前進目標を陳家行以東の線に与へたるため、自然、師団の攻撃ニ不利ありと考へらる。予は最初よりこの師団をしてむしろ広福西南方合邱宅~三神宅~荘団浜より陳家行にわたる線に西南面して攻撃せしむるを有利なりと認めしが、幕僚の言を容れてかく命令せしはむしろ失策なりやとも考へらる。

 第13師団を狭正面に第3、第9間に入るる考へ。

3.第3師団の状況

 変化なし。

4.第101師団

崇明塘敵陣はやうやく午後に入りこれを奪取せり。捕虜300ありしといふ。爾余は専ら渡河攻撃の準備中。

 ここにおいて軍は速やかに薀藻浜南方地区に進出して爾後の攻撃を準備するの必要を認め、第9、第3、第101師団に対し薀藻クリーク南方約1kmの線に進出すべきを命ずるとともに、第13師団を第9師団の後方に逐次近く集結せしむ。

 また別に第11師団方面へ重藤支隊(後備2大隊、砲兵、工兵各1中隊、重砲1中隊、11Kを付す)をして羅店鎮西方地区を第11師団に代り守備せしめ、全第11師団を南下せしめて近く第9師団の西方に進出して南翔鎮の攻撃を準備するとともに、軍の右側を掩護せしむることとせり。

 これ重藤支隊の任務、相当過重の感ありといへども、当面の敵状に鑑み可能の見込み充分にして、重藤少将も自ら本日、軍司令部に来たりて充分の自信をもつてその任に該るべきを誓ひたるをもつて、予は断然これを決行せし次第なり。けだし第11師団は当初より嘉定攻撃をその主任務としたるも、嘉定東方地区における数線の陣地は容易にこれを奪取する能はざるべく、自然、嘉定の攻撃はむしろ東南方よりこれを行ふを有利なりとし、なほ軍最初の大場·南翔付近の決戦に成るべく多くの兵力を使用するの必要あるをもつて、第11師団のこの転進はその前面の敵情ならびに道路網の関係等より見て相当の困難あり、適時に能く南翔付近に殺到し得るや否は疑問なるも、これにより少なくも軍の大場鎮攻撃間、その側方を援護することを得るものと考へあり。

 なほ本日、幕僚を集め、今後軍の大場·南翔付近攻撃に関する大体の方針を決定せり。その要、軍は主力をもつて大場鎮西方において敵線を突破してその東方地区の敵軍を捕捉するとともに、一挙に蘇州クリーク右岸の地区まで敵を掃蕩し、上海南方および南市の敵を捕捉するに努め、さらに同時に南翔を、続いてまた南方および北方より嘉定を包囲攻撃せんとするにあり。

 

   10月5日

 天候、昨日来不良。時々小雨あり。聞く、南方低気圧、徐々に北進すと。一両日はさらに風雨あらんかと憂ふ。

1.第11師団方面

 重藤支隊は嘉定道北側地区において攻撃を続行す(緩徐に)。

 師団の中央方面、12 i の正面になほ敵兵入り込みあり。この方面の交代にはなほ日時を要すべしと思はる。

2.第9師団方面

 師団は依然、新陸宅~広福付近の線にある敵のため妨げられ、軍所命の方向に対する進出容易ならず。

3.第3師団

4.第101師団

 ともに渡河を準備中。

5.第13師団

 師団主力をもつて劉家行東北地区に兵力を集結中。

 昨夜、久し振りに敵飛行機1機来襲、虹口埠頭を爆撃し、我が運送船に小損害を与れたり。なかなか敵も相応にやるものと思はれ、油断は禁物なり。

 

   10月6日

 低気圧、近く接近し来たり、陰鬱なれども、幸ひに雨に至らず。

1.第11師団方面

 重藤支隊方面、変化なし。

 師団の右翼は北周宅姚家宅西方部落より郭家宅の線に、中央は王家宅~厖家宅~金家店の線に、左翼は第9師団の右翼に近く、蘇家宅よりその南方萬年橋~北梅宅~南梅宅の線に進出し、右翼中央隊は重藤支隊との交代を準備中。

2.第9師団方面

 1連隊をもつて新木橋付近より櫓網橋の線を保持せしめ、主力をもつて急下南進し、朱三房より陸家橋~張宅の線に進出せり。

 よつてさらに当師団の南方進出を容易ならしむるため、第13師団の歩1連、砲1大をもつてこの師団の最右翼隊に代り守備せしめ、全力をもつて速やかにクリーク対岸に進出せしむべく処置す。

3.第3師団

 右翼隊の一部6i は西六房部落へ進出せしも、爾他は未だクリークを渡るを得ず。

4.第101師団方面

 当師団は今朝、渡河を決行し、中央隊(2大)をもつて払暁、江家宅対岸に進出し、さらに進んで伝家橋~北部張沿宅の線に進出し、左翼隊は楊家宅対岸に地歩を占め(2大)、左側方面より敵の逆襲を撃退して東部曹宅南端を占領す。左翼隊方面のみは未だ渡河せず。

5.第13師団方面

 夕方よりその一部をもつて第9師団の部隊と交代せしむ。ただしこの方面は今後、第11師団の転進に伴ひこれを実行せしむることとし、過度の犠牲を避けしむるごとく処置せり。これ当師団は将来、大場鎮突破後、一挙、蘇州河右岸地区に進出せしむる予定なるをもつて、成るべくその兵力を貯存するの要あればなり。

6.谷川支隊方面

 左翼を王家宅、朱港上の線に延伸せり。よつて陸戦隊に交渉し、江湾南方、屈家橋付近の陣地との間にさらにその戦線を延長、確実に連絡せしむるごとく区処す。

 

   10月7日

 低気圧やうやく来襲、朝来、相当の風雨なり。

1.第11師団方面

 重藤支隊方面変化なし。

 師団中央隊は周家宅~丁家宅~李家宅の線に進出す。

2.第9師団方面

 変化なし。ただし新木橋、櫓網湾にある部隊は本日、第13師団と交代し、漸次、兵力を南方に写しつつあり。

3.第3師団方面

 師団右翼隊18 i は一部をもつて八房宅の一角を、主力をもつてその東方河岸の前岸を占領す。

4.第101師団方面

 変化なし。逐次、兵力をクリーク前岸に進出せしめつつあり。

5.第13師団方面

 一部をもつて第9師団の部隊と交代したるほか変化なし。

 その他各方面、大なる変化なし。谷川支隊当面の敵はその兵力を交代したるらしく、昨今、当支隊に向かひ攻撃を試むるも、常にこれを撃退す。

 この日午前11時、軍艦出雲において、呉淞錨地において第3艦隊司令長官長谷川中将および川越大使代理岡本総領事日高参事官と会見す。川越大使は先日来、病疾を患ひ、未だ歩行充分ならざるをもつて、右両人に代理会見せしめたるものなり。

 すなはち本会見において予は左記事項につきまづ長谷川長官と談合し、その同意を得たる後、代理大使にも同意を求め、その快諾を得たり。すなはち

1.今後陸海軍長官の内外に発する声明等は勿論、我が政府当局に発する意見·希望等も、重要なるものは両軍においてあらかじめ相互通報し、成るべく諒解済の上、実行することに致したし。その中央部より受けたる訓令·通報も成るべく相互通報することとしたし。

 なほ大使においてもその陸海軍に関係のあるものは同様に取り計らひたし。

2.大使が今後、政府の訓令または個人の発言により内外に交渉または声明せらるるものは、事直接作戦に影響あるものは勿論、政策·外交に関するものも、その主要なるものは陸海軍に通報するとともに、その同意を得て実行せらるることを希望す。

3.今回の決戦一段落の時期において成るべくすみやかに重ねて今回同様の会見を行ひ、爾後の作戦、居留民の保護、地方治安の維持その他の政策等の諸問題等、腹蔵なき協議を遂げたし。特に今後の政策的処理、一般内外宣伝工作については成るべく三位一致、共同実行することに致したし。これに関しあらかじめ大使と大使館付武官は良く具体的研究を遂げ置かれんことを望む。

 右協議終り一同昼食をともにし、3時、艦を辞して帰還せり。なほこの際、今度の決戦に際する鹵虜の収容につき、近海の孤島に一時的収容すること可能なりや、海軍において研究方依頼し置けり。なほ将来、南市の攻略のことある場合には、成るべく一般民衆に被害なからしめ、延いて各国租界に及ぼす影響なからしむる様、何らかの方法を講ずべきも、やむを得ざればつひに武力によりこれを強行すべき場合あるを考慮し、あらかじめ支那および各国側に諒解せしめ置かれんことを希望し置けり。

 本日会見の際、左の詞を川越大使および長官に贈る。

  江流天地外  山色有無中

  残塁之何程  東方王道存

 

   10月8日

 陰雨また来たる。終日細雨粛条、道路泥濘を極め、全線将兵の苦労、申すに及ばず。補給の困難もまた一層にて憂鬱を禁ぜず。

 この日朝11時、幕僚を伴ひ楊行鎮に至り、各師団長その他の部隊長を集め、大場鎮付近攻撃に関する軍命令を与へ、なほ各師団長に若干の説明と予の全般的意図を示す。また同時、一般に対し軍司令官の訓示を与へ、これを督励す。

 各師団長以下みな元気旺盛にして、相当緊張せる態度をもつて予の訓示および指示を諒せるは欣懐なり。一同盃を挙げてまづ大元帥陛下の万歳、次いで軍将兵の武運の隆盛を祝福し、一同撮影の後、散会す。

 各師団長の報によれば各戦線はこの日何らの変化なし。けだし敵陣、依然たると打ち続ける天候不良のため軍隊の運動、自然、交綏に至れるもののごとし。ただし本日の命令に沿ひ、明後日ごろよりは断乎、各線の活発なる行動を見るに至らんと自負す。

 回顧せば呉淞上陸後正に1ヶ月なり。予は本日初めて沿道第3師団の古戦場を過ぎて楊行鎮に至れり。所在敵の残せる陣地の跡、付近村落交通機関等破壊の状況等、ことごとく胸を打たざるものなし。この間における将兵奮戦の状を想起するに十分なり。また目下、該道路上に来住する輜重その他の人馬の状況は、誠に同情を禁ぜず。痩せ馬を鞭ちて泥中を行く特務兵の顔貌、割合に元気に満てるは意を強ふせるも、雨泥の裡における将兵の労苦は真に察するに余りあり。ことに徴発馬がみな非常に痩衰の感あるに意を惹けり。将来、何らかの法を講ぜざるべからずと思はる。なほ沿道居留民はほとんどその影なく、到るところ米田穰りて収穫を待てるの状、これまた何らかの法を講ぜざるべからず。すなはち経理部長に命じこれが善後策の講究を命ず。すなはち台湾、朝鮮より若干(約二~三千人)を招致し、今後入手すべき鹵虜および帰来する農民を指導して、軍自らこれが穀物を収穫するの案にて、追つて価格は徴用として人民に支払ふべき考案なり。これ政略上にも相当有効なりと思料せらる。

 

   10月9日

 朝来小雨なほまず、憂鬱ますます切なり。東天を拝して沃雲の一掃を祈念す。

 この朝、各師団参謀長を軍司令部に招致し一場の訓示を与へ、なほ今後の作戦指導に関し参謀長をして指示せしむ。

 また余自ら、砲兵弾薬に依存せず歩兵は自らの重火器、ことに銃剣をもつて敵陣を奪取するの覚悟を要求するとともに、従来、我が軍独特の夜襲は近く却つて敵軍に株を奪はれたる感あり。ことに敵は我が軍一陣地を奪取せば必ず一応は逆襲すべく蔣介石より厳命せられあるに鑑み、この逆襲を利用し一挙にこれを追撃していはゆる敵の督戦部隊の線を奪取するの考慮必要なり。これがため我が夜襲に任ずる部隊は小兵力をもつてせず、少なくも重畳せる兵力をもつてすること緊要なりと考ふる旨を述べ、更に、軍は当面の敵を嘉定以西に駆逐し、ここに当面の戦局に一段を画し得るまでは、たとひ砲弾の欠乏することあるも銃剣·軍刀をもつてこれの目的を達成するにあらざれば、能く皇軍の威武を辱しめ[む]所以にあらずと信じある旨を付言し、一同の決意を促したり。

 この日、各師団の戦況、大なる変化なきも、第11師団は予定を早めて11日には第9師団の右翼に進出して広福以北の敵陣を突破し、速やかに三神宅方向に挺進するの決意なる旨を報じ、また第3師団は午後までに前面の敵を駆逐して、東西趙家角より陳宅、呉家院南端の線にまで進出するを得たり。

 また第9師団の一部も盛宅付近の線に進出するも、第101師団正面については未だ新報なし。

 数日来の降雨にて交通路ほとんど途絶の状勢にあるに係はらず、各師団の奮闘は感激の至りにして、能く前日予の意志を服膺しあるものと認む。なほ軍砲兵部隊も道路なき地区において漸次進出し展開しつつあり。

 この日をもつて軍の増加団体の各隊輜重とも、ほとんど全部揚陸を終了し、兵站部隊の揚陸を行ひつつあり。

 この午後、邦人記者十数名を軍司令部に招致し初回の会見をなし、なほ左の要旨の談をなす。

 我が政府は夙に不拡大方針によつて支那に対せしをもつて、上海方面に陸兵を派遣することは当初より予期せざりしところ、あたかも8月中旬、海軍事件に続き支那軍の暴戻はなはだしきをもつて、逆に海軍の危に応じ居留民を保護するため陸軍を急派するに至りたる次第にて、予始め大命拝受後蒼惶としてまづ準備し得たる部隊を牽ひて当地に急行し、上海の急を救ひ爾後におこる軍作戦の基礎を定むることに努力したる次第にて、やうやく1ヶ月の日子を費やし昨今概ね軍兵力を充実するを得たり。

 よつて近日軍は上海付近の敵軍に向かひ一挙、決戦的攻撃を実行するはずなり。軍の作戦が内外各方面に関連する問題もとより多く、予自らこれに関する意見を発表することも必要なるべきも、その大要は昨日声明および告示せしごとくにして、これ以上は今これを語ることを欲せず。けだし予は目下その全身の熱血を戦線に傾注し他を顧みるの余裕なし。もしそれ祖国に関するものに関しても今は何らにこれに触るの時期にあらずと思惟しあり。ただ不断国民の熱誠なる激励と後援につきて深く感謝することを言ふのほか、今後方に向かひては何ら語らず。要は不言実行の心持ちで一意任務に邁進せんことを期しあり。

 請ふ、近く上海付近において再び語るの機会まで俟たれたし。云々。

 各新聞通信員一同、能く予の意を諒し、緊張せる態度をもつてその通信員の任務に努力し、軍の行動を後援すべき決意を述べて退散せり。また上海各新聞社および同盟、朝日、毎日の代表者は各新聞記者を代表し、予および軍将兵に対し感謝の辞を呈し、一同撮影の後、帰還せり。

 

   10月10日

 朝来風雨強く、この日、軍司令部戦闘司令所を楊家宅(楊行鎮西端)に推進するはずにて、幕僚の大部は朝来すでに出発せしが、道路泥濘と破壊のため行進容易ならず、夕方、乗馬または徒歩にて楊家宅に到着し得たり。かくて予は出発を延期し道路の回収を俟つこととせり。

1.第11師団の戦況

 師団は羅店鎮付近の守備の交代を終へ、本日夕までに第9師団の右翼に列し王家宅以南、楊涇東岸の地区に進出し、明日の攻撃を準備中。

2.第9師団の戦況

 師団は櫓網橋以北を第13師団の部隊に譲り、一部をもつて老陸宅、孟家宅の線に対せしめ、主力をもつて朱三房~頓悟の線より近く陳家行に近接しこれを攻撃中にて、なほ約1旅団はすでにその東南方において盛宅東西の線に達せり。

 第13師団の部隊にはさらに歩砲の若干を増加し、第11師団の進出に伴ひ南面して三家村、老陸、新陸宅付近を攻撃すべく区処す。

3.第3師団の戦況

 師団は昨日来、猛烈に攻撃を敢行し、この日、田堵宅、栅石橋西方部落より曹宅の線に進出せるも、兪宅付近は未だ占領するに至らず。

4.第101師団方面

 最右翼に於て田湾、王宅を占領せしほか、全線の戦況進展せず。

5.第13師団

 前述新木橋付近に進出のほか、師団の主力は依然、月浦鎮西南地域に集結中。

 呉淞鎮南方根拠地当面の敵は昨夜来退却せしをもつて、小田兵站司令官の指揮する後備隊は独断これを追撃し、夕刻まで西庚橋(紀家橋東側)より趙家宅~王家宅~孫家宅~呉家宅橋の線に進出し、谷川支隊の右翼もこれに共同して陸家橋に進出せり。

 後備隊はその装備の不完に係はらず大隊長以下豪放に常に行動し、今日のこの戦機に応ずる動作は称賛に値するものと認む。

 本日正午、軍司令部においてロンドン·タイムス通信員フレザア、ニューヨーク·タイムス通信員アペンドと会見し、左の要旨の声明を予個人の立場において行ふ。

 予は三十余年、日支提携の事に尽力し来たりたるものにて、今においても支那を膺懲するといふよりも、いかにして4億万民衆を救済し得べきかといふ考えにて一杯なり。支那は今、共産主義勢力よりこれを救脱すること緊急にして、これ支那自身のためのみならず、東亜のため真に喫急の事項なりと確信す。

 ここにおいて予は日本固有の国民精神と東洋伝来の道徳の根基に立ち、日本人得意の犠牲的行動を発揮すべきの時なりと信じあり。

 東洋の諺に、

  自反而縮 雖千万人吾往矣

 これこそ目下、我らの信念なり。全世界はしばらく日本のなすところを静観せんことを望む。

 なほ両人の質問に答へて

 上海の地方におけるこの種の事件は最早これを繰り返さざる様、この度こそ完全なる善処すること緊要なりと考ふ。ことに上海の特殊性質に鑑み、予は出発前において、列国の協力によりこれを遂行せんことを期しありしが、その後の一般情勢および現地の状況を見たる今日においては、いささかその従来の希望を変更せざるべからざるの感あり。すなはち列国が1932年の停戦協定を支那に遵守せしむるの義務を採らざりしこと、およびその後の態度が、すべて予をもつて列国の協力の上に自身を失はしめたるを遺憾とすと述べたりしに、フレザアは敢へてこれを論難せず、右は欧州のことか現地のことかと問へるにより、双方なりと答へ、なほ、しからばいかにして今後その協力をなし得べきやと問へるにより、右は列国は日本の行動を侵略的か、救済的なるかの根本観察を改むること先決要件なりと答へたるに、彼辞なし。またアペンドは、右は米国に関しても同様なりやと問へるにより、米本国、ことに最近大統領の演説のごときは予のすこぶる不満足に考ふるところなるも、上海地方の米国官民の態度については今、特別に指摘すべき所感を有せずと答ふ。

 概して両人とも予の率直の談話に満足の意を表して帰れり。

 

   10月11日

 今朝なほ雲ありしも、午後に至り漸次回復。予の戦闘司令所着の頃より5日振りに旭光を拝し、快極まりなし。3時、途中、泥濘の中を人力にて車を推進しつつ来往輜重、車輌、駄馬、自動車中混雑の中を推し開きつつ安着す。流石に第一線に近く銃砲声も能く聞こゑ周囲に輛車その他の集団せる様杯、初めて戦闘の気分を満喫するを得たり。各師団の戦況は連日来の降雨に禍せられ格別の進展を見せざるも、各師団とも降雨を冒して軍の13日ごろにおける攻撃開始に応ぜんため、鋭意攻撃を続行しつつあるは事実なり。

 なほ第101師団左翼隊においては今暁、昨夜来にわたる曹宅に対する夜襲成功せず。なほ前面全体において相当強大なる反撃を受け、能く現地を死守しあるもつひに曹宅を占領するに至らず。この戦闘において101連[隊]長加納大佐以下連隊本部の首要員ならびに大隊長1名戦死、2名は傷つき、さらに103の大隊長は今なほ行衛不明にて、幹部の損傷すこぶる多く志気もやや減退せるを報ず。東京の後備連隊としてあるいはやむなきことならんも、今後の難戦を予想し憂慮を禁ぜず。

 連日の霖雨は第一線の戦闘の進捗を妨げたるは勿論なるも、さらに補給の上に大なる障碍を与へたり。軍·師団補給部隊の困難、想像に耐へたり。全身泥まみれの特務兵が痩馬を鞭ちて泥中を馳駆するの状、同情を禁ぜず。

 予は当初より軍の補給のため水路の利用を奨励しありしが、幕僚以下各部隊ともこの観念薄く、水路の偵察、利用等はとかく閑却せられあるにより、数日前より特にこれを叱咤督励し来たりしが、右翼方面、貴陽湾~羅店間には、すでに十数日前より発動艇による補給、患者後送等を実行し得、成績良好なりしが、中央方面においても数日前より呉淞~月浦鎮間に水路輸送を開始し、また本日より楊行鎮間の水路を開くを得たり。けだし呉淞クリークの利用は最初より予の最も重要視せしところなりしが、軍の攻撃方針を徹底せしめんため一時この水路を利用し能はざるは遺憾の極みなり。幸ひに昨日、我が兵站守備隊、守備区域の進出により、沈家宅北方より楊行鎮に通ずる水路を利用し得るに至り、現時の陸上輸送の難を補ひ得るを得たるは幸ひなり。本日すでに20余艘の発動艇小舟により100トン位の材料糧薬を前送し得たり。

 また参謀本部は数日来、非公式の手段をもつて上海付近の戦局を速やかに解決する目的をもつて約1師団の兵力を浙江金山海岸に上陸せしむるの企図を有し、これが偵察と意見を求め来たり居りしにより、一昨日、特に吉村参謀をして海軍および停泊場部員と協同して該地方の海上の偵察を実施せしめたり。その結果によれば、乍浦付近には相当の敵防御あり、ことにこの海岸の性質と、目下冬向きの季節において大部隊をこの付近に上陸せしめ長期の補給根拠地を作為することは不可能なりと認めたり。よつて右報告を行ふとともに、目前上海の戦局を即決せん為にはむしろ新増兵力を黄浦江岸および揚子江岸(一部)に上陸せしむるを有利とする旨の意見を付し、中央部の再考を促したり。なほ本増兵、真の目的は直接上海戦闘に関するものにや、さらに戦略·政略的に浙江占領の目的をも有するものなるや、その点明瞭ならざるにより、これに関する軍の意見を開陳するに便ならず、予はむしろ今後この兵力の使用は上海決戦直後の状勢によりその方面を決定するを便なりとし、要すればその兵団を馬鞍群島に待機せしむるを可なりと考へ、これが研究を幕僚に命じたり。

 

   10月12日

 この夜遅くより今朝にわたり風雨ありしも、今日は漸次天候回復し、東北風となれりるをもつて、今後の天

候可良ならん。すなはちまたこの風の間は天気可良なるべく神禱を祈る。しからざれば軍当面の攻撃は一大頓挫を来す虞多し。

 各師団の戦況、大体変化なく、各師団とも先日来の悪天候に禍されてすべての準備遅れたりしも、やうやく今日よりそれぞれ道路の修築を始め、攻撃陣地、砲兵陣地の推進に戻ることを得たり。

 ただし第3師団の右翼隊は能く栅石橋、西塘橋南端クリークの線に進出せり。

 一般の戦情は依然、第一線各部隊は頑強なる抵抗を継続するのほか、後方にては相当兵力の移動行はれあるもむしろ増加隊の来着と見らるる節多く、蘇州、崑山にある敵軍総司令官は上海、南翔付近に前進し来たれりとの報道もあり、真否明らかならざれど、敵軍が一時少なからず動揺せりと見しはむしろ過早なりしやも知れず。なほ軽挙なる攻撃は事実上にも不可能なれど、軍全体としても大いに慎重に攻撃を実施するを可なりと認む。よつてさきに総攻撃実施を13日と予定せしが、天候の関係もあり、これを16日まで延期せり。

 

   10月13日

 天気やうやく定まるらしく、東北風の順風なり。道路も逐日乾き交通容易となる。前線の砲兵もやうやく新陣地に侵入し得るに至る。

 各師団の戦況なほ変化なし。けだし連日の悪天候に禍され昨今やうやく休息の気持ちなるらしく、この間、鋭気を養い、さらに軍隊の移動を試み、攻撃準備に汲々たるもののごとし。

 去る10日より12日にわたり第8戦隊司令官の率ゆる巡洋艦駆逐艦7~8隻に運送船の揚陸を了へたるもの20余隻を率い、さらに大小発動艇40余隻を搭載して劉家鎮、七了江岸に陽動を行ひ、薄暮より発動艇を卸して上陸に偽[→擬?]せしところ、同地方一帯の江岸より熾烈なる銃砲火起り、さらに夜に入り数時間にわたり陸上における銃砲声絶えず、恐らくは我軍の上陸を誤認せる敵軍の同志討ちならずやと察せらる。要するにこの陽動は前回に比し大基[→規]模に、かつ実際的なりしため、相当の効果を奏したるものと思はる。

 

   10月14日

 天気良く東北風にて秋晴れの好天気。これにて天気も続くことと欣ぶ。

 各戦線は依然、当面の敵を力攻中にて、多くは対壕作業にて敵陣地に接近しつつあり。けだし軍の本攻撃に於ける弾薬の将来を思ひ、努めて初期における節約を厳命し、いはゆる5基数をもつて全局を終る計画なるをもつて、各方面とも砲兵の協力に遺憾あること攻撃遅滞の一主因と思はるも、なほ砲兵の集団的運用により逐次、一陣地ごとにこれを奪取するなどの方法を採用する余地もあり、研究を命じたり。

 この日、一宮海軍政務次官、慰問のため来訪す。よつて軍全般の体勢を説明するとともに、江南地方敵軍抵抗の執拗さに鑑み、到底今後1~2ヶ月をもつて当方面の戦局が一段落すること難く、少なくも常熟蘇州松江の線まで敵軍を圧迫すること切要にして、これがため速くも本年一杯を要すべき見込みなることを告げ、我が朝野が深く今後の事態を達観し、飽くまで長期の作戦に耐ふるの覚悟を固くするの要を説き、近衛首相、米内海相にもこの旨伝達方、希望し置けり。またこの日、第8戦隊南雲司令官以下幕僚艦長□□南沿岸に移動につき、訣別に来たる。好将軍なり。

 

   10月15日

 天気少々下火になりつつも、なほ西風なれば天気持続し得る見込み。

 各師団の戦況、依然進展せずごとく、焦慮募るにより、幕僚に進みて今後の対策を研究するとともに各師団の実況を視察せしめありしが、一般の砲弾の不足に因し志気少なからず沈滞し、師団長以下も今後の作戦を考慮して兵力を出し惜しみするの情、相当深きに至れる感あり。しかれども一般に最早、上海付近敵陣地の最前線に達しあるもののごとく、従来に比し敵軍の陣地を一般に鞏固にしてその抵抗も靭強を加へたるがごとく、また数日来、浙江·四川省より来たれる兵力2ヶ師団増加せらるたるごとく、江湾鎮方面より若干の兵力、ことに砲兵を我が主力方面に転用し来たれるやの疑ひあり。要するに敵は我が中央突破作戦を観察し、これに応ずる最後的手段を講じあるもののごとし。軍は何とかこの際、手段を講じて速やかにこの前線陣地を突破するにあらざれば、爾後の攻撃は純然たる陣地戦の状態に陥り、ただただ敵軍撃破の機を遅くるのみならず、我が軍の攻撃意志にも一大影響あるものと痛心す。

 その後調査の結果、14日までの各師団の損傷、左のごとし。

 

       死傷数   補充数

第3師団  6,026  約6,500

 11      6,380     5,000

  101      2,811   未着

 9    2,894     同

 13      156      同

重藤支隊     998      同

谷川支隊     70

 計     19,835   11,500

 

 ほかに傷病兵の原隊復帰者4,000あれば、病者の入院または後送のものも約五~六百あるべく、差し引き現在兵力の定員に対する損耗は約5,000人と算せらる。就中、各師団とも幹部の損耗比較的多く、その浦充員は現役師団にも在郷者を充当せらるるをもつて、第3師団のごとき、その兵員はほとんど定員を充足せるも、一般の戦力は動員当時の約6分の1に過ぎざるべしとの観察にて、この形勢は今後一層増大すべく、相当考慮せらるる問題なり。

 なほ馬の損耗総数は約1,900頭にして、内、先日来の泥濘道路の過労により斃死せるもの四~五十頭に及ぶ。なほこのうち第11師団にては約500頭の補充馬来着せり。

 

   10月16日(軍方面1軍増加の

             快報来たる)

 天気晴朗なれども東北風強く寒気やや増す。幸ひに 第3、第11師団ともほとんどすでに冬衣到達したれば、こちらの心配はなし。ただ自分の冬着類、去月22日東京発のもの未着につき困り居れり。上海より冬下着類を買い取り、間に合はせ居れり。

1.各師団の戦況

 依然、各正面とも大いなる変化なし。第13Dは三家村、第9師団は陳家行の一角を占領せるも、爾後、戦況発展せず。

 第3師団は中央方面において葛家神、梅宅に向かひ攻撃進捗せるも、兪宅、朱家方面依然たり。ことに第101師団の右翼方面、毫も進展せざること遺憾なり。

 すなはち軍全般の攻撃は目下、第9師団右側の新陸宅、陳家行付近を奪取して当師団の南進を促進するを第一とし、さらに第3、第101師団中間の禹橋宅東北地区を占拠することを先決要件とするをもつて、軍は従来の砲弾節約を緩和し、軍砲兵をもつてこれら要地を逐時に集団火力によつて奪取するを緊要とするの意見に落ち付き、軍砲兵および昨日来着せる爆撃飛行中隊をしてまづ新陸宅·陸家行の爆撃·砲撃に協力せしめて、第13、第9師団をしてこれを奪取せしむることとし、それぞれ指示·命令を与ふ。

 なほ右陣地奪取後は、これらの地区を第11師団をして交代占領せしめ、第9、第13をして一意南方に向かひ攻撃せしむるの必要を痛感せるをもつて、この意をあらかじめ第11師団長に伝へしめ、師団の楊涇クリークに沿ふ攻撃を中止し、逐次、兵力を後方に集結すべく準備せしむ。

 また第101師団をしてその右翼方面の進出を遂げしめんためには、そゅ右翼隊(13中隊あり)の兵力の大部を右方に転用するを必要なりと認め、第101師団に連絡し成るべく速く右区署を行ふ様、指示せしむ。

 また軍最左翼方面、すなはち呉淞兵站守備地区、谷川支隊方面は、敵兵一部撤退に伴ひ多少その陣地を推進し得たり。なほこの方面にては暴挙に陥らざる範囲において成るべく前面の敵を牽制せしむるごとく指導を与ふ。

 この日、参謀本部鈴木中佐来着。中央部は新たに1ヶ軍(3師団)を編成し、11月初めより浙江方面に作戦せしむる計画あることを知る。これ最初より予の希望せる作戦方針に応ずるものにして欣懐の至り。かくて中央部の腹も漸次改まり、予もこの分ならもう割腹の機会なきに至らんか。呵々

 

   10月17日

 天気良く秋晴れの気分なれど東北の風強し。この日、各師団の戦況やはり思ふ様に進展せず漸次膠着の感あるは遺憾の至り、何としても犠牲を顧みず速やかにこの前線を突破せざるべからず。

 第13師団の三家村、老陸宅攻撃は15榴および飛行機の協力の下に実行したるも、僅かに老陸宅の北部の一角を占領したるに過ぎず。

 第9師団の陳家行攻撃は24榴および爆撃飛行機の協力の下に、幸ひに午後4時ごろ陳家行西部クリークの線に進出したるも、敵の逆襲に遭ひ再びその一部を失ひたるとのことなれど、状況審かならず。

 よつて軍はこの日新たに第9、第13、第11の作戦地境に多少の変更を加へ、第11師団をしてその歩兵3大、砲若干をもつて現在の線を守備し、主力を後方に集結し、近くその左翼に到る第13、第9の右正面を交代するの準備にあるべきを命じたるも、当師団の左翼隊は(44 i )は目下新宅付近において呉家宅付近に向かひ攻撃中なるをもつて、まづ師団の力をこれに注ぎその陣地を奪取したる後、前記軍命令を実行したき旨、申し来たりたるをもつてこれを是認せり。

 

   10月18日

 秋晴れの快天気なり。風も和き日中はことに清洒の気、充分なり。午後、屋上に登りて眼鏡をもつて大場陳方面に対する戦線を視察す。

 各戦線、大なる変化なきも、多少宛て各師団とも進展しつつあり。軍は24榴をもつて第13、第9の戦闘に協力せしめ、相当の成果を収めたり。

 就中、第3師団中央方面は湖里宅、黄港の線に進出し、左翼隊もつひに兪宅を占領せり。第101師団方面、最も活気を失ひあるをもつて、この日、参謀長を招致してこれを激励し、速やかに兵力の集結·転用を実行して、攻撃準備を整ふべきこと厳命す。

 この日、さきに杭州湾偵察のため派遣せられたる参謀本部の鈴木大佐とともに現地視察を行ひたる田尻少将帰来、偵察の結果に基づく意見を開陳するところによれば、金山湾付近に行ふ大部隊の上陸は天候により著しき影響を受くべく、好天候を利用せば部隊の上陸に支障なきも、爾後の補給は非常に困難を予期し、格別の計画と施設を行ふを要するとのことなり。

 有田八郎氏に書信を認め、佐藤に伝言を依頼す。

 

   10月19日

 天気晴朗に、しかも温暖となり、日中、暑い位の好天気なり。割合に戦況進展せざるを憾むのみ。

1.重藤支隊の状況

 大体変化なく、当面の敵を牽制するため時々各正面に陽攻を行ひつつあり。

2.第11師団

 22 i をもつて右翼集成騎兵と交代す。

 左翼隊は新宅付近に進出せり。

 明20日、師団は従来の戦線の全部を22 i に担任せしめ、主力を羅店鎮東南地区に集結するはず。

3.第13師団

 新たに歩兵第26旅団(58 i (Ⅲ欠)、Ⅰ/116 i )、Ⅲ/

19BAをもつて新木橋付近の敵の攻撃を開始す。

 歩兵第103旅団全部(104 i 65 i )、19BA(Ⅲ欠)、13Pをもつて三家村および老陸宅の一部を占領し、さらに攻撃中。

4.第9師団

 右翼隊は陳家行を完全に占領し、左翼隊は北桃園浜およびその西側無名部落を占領し、さらに孟宅、南桃園浜に向かひ攻撃中。

5.第3師団

 右翼隊は本夕、張家楼下宅に突入し、同部落を掃蕩中。

 左翼隊は午後、黄宅を占領す。

6.伊東第101師団

 本日、全線、各当面の陣地を攻撃し、軍砲兵(24R)もこれに協力せしも、つひに進展を見ず。

 明日さらに左翼隊より抽出せる部隊(Ⅰ/101)をもつて中央、右翼方面を攻撃するはず。

 敵は漸次、左翼方面および後方よりその兵力を大場鎮およびその前線に増加せる模様にて、広西第187師団も陳家行前面に顕出し、重藤支隊正面にありし第43師も南下せるごとく、四川、貴州の徴募兵より成る第80師も初めて北桃園浜付近に進出し来たれり。

 これを要するに敵軍は一時、漸次その兵力を第二線配備に置きたる様なりしが、最近再びその兵力を上海周辺、ことに大場鎮付近に集結しあるがごとし。けだし英米主催の9国条約会議に関連し、飽くまで上海保有を謀りありものと判断せらる。自然、軍の大場鎮付近突破は日々困難を加へあるは事実なれど、自然、これによりて生ずる効果は、戦略的には勿論、政略的にもその重要性を増大しあるものと考へらる。

 

    10月20日

 天気晴朗、温暖、後方補給の状況良好なれども、戦線思ふ様に進展せざるをむ。

 この日、各師団とも攻撃を続行し、第13師団は三家村を確実に占領せるも、爾他の戦線、大なる変化なく、第101師団は軍砲兵24榴の協力により膏家柳の攻撃を力行せるも、つひにこれを奪取するに至らず。

 さきに参謀本部より派遣せる鈴木中佐偵察の結果は、予の従来考へたるところと異ならず。よつて予は同中佐に托し参謀次長に対し今後の作戦に関する予の私見を申し遣はすとともに、委曲、中佐に予の意中を説明し、当局に報告すべきを托す。その要旨、左のごとし。

1.軍の上海西方戦一段落に伴ひ、方面軍を編成し、少なくも2ヶ軍を新たに編成すべきこと。軍の作戦目標は飽くまで南京とす。

2.その第1軍は現派遣軍をもつてこれに充て、太湖北方地区より南京に向かひ作戦す。なほこれがため一時1ヶ師団をこの軍に増加し、重藤支隊とともども滸浦白茆河口に上陸せしめ常熟に向かひ作戦するとともに太倉を遮断せしむ。

 爾後、この軍より1ヶまたは2師団を第2軍に転属し、または方面軍の直轄となす。

3.第2軍は兵力約2師団とし、一部(約1師)をもつて黄浦江岸浦東地区にまづ上陸せしめ、さらに主力をもつて金山付近に上陸せしめ、まづ松江に向かひ主力をもつて作戦し上海南方の敵を捕捉し、のち主力をもつて太湖南方地区より南京に向かひ、一部をもつて杭州付近を占領せしむ。

 要すれば第1軍より適時1師団(第13)を一時または永久に当軍に転属せしむるを得。

4.軍の作戦を11月初めとし速きを可とす。要は上海西方決戦の直後に上陸を実行するを可とす。

5.方面軍の編成には有力なる特務機関を属し、建川中将を長とし、従来の宣伝謀略のほか占領地統治、政略関係にわたり、純然たる戦時の体制をもつて、方面軍司令官の全権をもつて、海軍、外務、人をも統一指揮せしむること。

 なほ方面軍幕僚として重藤少将、根本少将、飯村少将、池田、鈴木、和知、臼田、長津、岡崎各大佐の充用を希望す。云々。

   註

 浙江海岸において第二軍の根拠地を占有することは、その海岸の状況、潮流、特に冬季の季節風に鑑み多大の困難あるべく、なほ野砲師団を浙江地方に作戦せしむることは、地形および道路の関係上、多大の困難あるにより、本軍の根拠地は成るべく上海にこれを写すを必要とし、また初めの時期において余り大なる兵力をこの方面に使用せず、要すれば作戦進捗に伴ひ第13師団(山砲)をこれに転属せしまむるを有利と考ふ。

 けだし浙江の東浙地方に従来ありにし敵軍中2ヶ師団は、既に上海に招致せられたるをもつて、近き将来における東浙地方の敵軍の兵力は、多くも2~3師団に過ぎざるものと判断せらるればなり。

 別に本間第2部長に対し、現下の政略の要点は飽くまで南京攻略、南京政府打倒とし、過早に爾後の政治工作をかれこれ論議せざるを可とする旨の意見を申し遣はす。

 

   10月21日(大場攻撃日の決定、

             第10軍編成)

 天気晴朗、温暖ますます加ふ。

 各師団の戦況、大いなる進展なきも、一皮づつ逐次、敵陣地を抜きつつあり。すなはち第13師団は新木橋陣地を、第9師団は談家頭を、第3師団は張家楼下宅を、第101師団は西部李家橋を奪取せり。敵は今夜全線において攻勢を取り、主として薀藻浜南方に主攻撃を行ふ計画なりしごとく(入手せる敵軍総司令官朱紹良の命令により明らかなるも)実際における敵の攻撃は砲撃のほかはなはだ不徹底のものにして、我が軍はこれによりて敵をその陣地外に射殺するの機会を得たることは幸ひとす。しかれども不幸、我が軍の状態はこの攻撃を追撃し一挙に敵陣を奪取するの気魄なきを遺憾とす。

 よつてこの日、軍命令をもつて大場鎮攻撃開始を27日とし、24日中に各師団は予定準備線に進出すべく命令す。

 この日、参謀本部より第10軍編成を令ぜられたる旨、通報あり。当軍は3師団半よりなり、浙江沿岸に上陸して、我が派遣軍の作戦を容易ならしむるを任とす。これにて我が軍は概ね予の最初より希望せし作戦に向かふこととなれるを欣ぶも、その方法についてはなほ意見あるも詳細はなほ未だ詳ならず。

 

   10月22日(第10軍作戦に関する

              意見申達)

 天気、依然快晴·温暖なほ続く。欣ぶべし。昨夜より重藤支隊および第11師団ならびに第13師団正面において相当統一せる敵の攻擊ありたるも、ことごとく多大の損害を与へてこれを撃攘す。けだしこの方面の攻撃は敵の真面目なる反撃といふよりもむしろ大場方面における攻撃の助攻たりしならん。

 本攻撃において第13師第58連、軍旗に敵砲弾命中しその桿を切断せり。未曾有の事なり。

 第9、第3、第101師団正面は反つて敵の攻撃緩まり、むしろ漸次、第一線兵力減可の状にて、著しく各方面とも進出せり。

 この日、参謀本部  中佐、第10軍作戦に関する命令計画等を持参し来たる。該計画によれば第10軍は(第6第18第114師団を基幹とす)金山衛城付近に上陸し(11月2日と定む)上海西方地区に作戦し、我が軍の作戦と響応して敵軍を捕捉せんとするにあり。その計画はすこぶる可なるも、少なからず図上の計画なる嫌ひあり。けだしさきに記せしごとく、この方面の地形と海面の状況において、かかる大兵団を予定の時日に上陸せしめ、速やかに黄浦江を渡りて上海西南方地区に進出せんことは、天候すこぶる可なる場合においても大なる困難にして、目下の敵状および今後予想する上海付近における我が軍奏功後、敵軍一般の動揺、退却を予定せば、もつて能く敵軍を捕捉し得ることすこぶる疑はしく、なほこれがためかかる犬[→大?]兵力をこの方面に必要とせざるものと思はる。しかも今後、冬期に向かひ金山、乍浦付近をもつてかかる大軍の根拠地としてその補給を全ふせんことはすこぶる困難にして、予は深く本計画に遺憾を感ず。しかも事のここに至るは参謀本部があらかじめ本作戦に関し予の意見を求めざりし結果にして、従来、予は中央部においてかかる企画ありを知り、すでに非公式に意見を詳細申し遣はしたるに、後、速やかにこの発令を見たること、返すがえすも遺憾の至りなり。由て予は将来の状勢に応じ便宜、本作戦を変更するを有利とする場合あるを予期し、参謀本部があらためて既報予の意見を研究するとともに、あらかじめ適当の措置を講ぜられたき旨、軍司令官として次長に意見を申し遣はし、なほ詳細  中佐に予の意のある所を述べ、急遽、東京に帰還報告せしむることに取り計らひたり。

 

  十月二十二日(㐧十軍作戦ニ関スル

               意見申達)

天気 依然 快晴温暖 尚続ク 可欣

昨夜ヨリ重藤支隊 及 㐧十一師団 幷 㐧十三

師団正面ニ於テ 相當 統一セル敵ノ攻擊ア

リタルモ尽ク夛大ノ損害ヲ与ヘテ之ヲ擊攘

ス 蓋シ此方面ノ攻擊ハ敵ノ真面目ナル反

撃ト云フヨリモ寧ロ大塲方面ニ於ケル攻撃ノ

助攻タリシナラン

本攻撃ニ於テ㐧十三師㐧五十八联 軍旗ニ敵砲弾

命中シ其桿ヲ切断セリ 未曾有ノ事ナリ

㐧九、㐧三、㐧百一師團正面ハ反テ敵ノ攻擊

緩リ 寧ロ漸次 㐧一線兵力減 可ノ状ニテ

著ク各方面共 進出セリ

此日 参謀本部  中佐 㐧十軍作戦ニ関スル

命令計画等ヲ持参シ来ル 該計画ニ依レ

ハ 㐧十軍ハ(㐧六、㐧十八、㐧百十師団ヲ基幹トス)

金山衞城附近ニ上陸シ(十一月二日ト定ム)上海

西方地区ニ作戦シ 我軍ノ作戦ト響応

シテ敵軍ヲ捕捉セントスルニアリ 其計畫ハ

頗ル可ナルモ 不少 図上ノ計畫ナル嫌アリ 蓋

シ曩ニ記セシ如ク此方面ノ地形ト海面ノ状

况ニ於テ此ル大兵団ヲ予定ノ時日ニ上陸セシ

メ速ニ黄浦江ヲ渡リテ上海西南方地区ニ進

出センコトハ天候 頗ル可ナル場合ニ於テモ

於テモ大ナル困難ニシテ殊ニ目下ノ敵状 及 今後

予想スル上海附近ニ於ケル我軍奏功後 敵

軍一般ノ動搖退却ヲ予定セハ 以テ能ク敵

軍ヲ捕捉シ得ルコト頗ル疑ハシク 尚之カ为 此ル

犬兵力ヲ此方面ニ必要トセサルモノト思ハル

而カモ今後 冬期ニ向ヒ金山、乍浦附近ヲ以テ

此ル大軍ノ根據地トシテ其ノ補給ヲ全フセン

コトハ頗ル困難ニシテ 予ハ深ク本計畫ニ

遺憾ヲ感ス 而カモ事ノ此ニ至ルハ参謀

本部カ豫メ本作戦ニ関シ予ノ意見ヲ求

メサリシ結果ニシテ 従来 予ハ中央部ニ於

テ此ル企画アリヲ知リ 既ニ非公式ニ意見

ヲ詳細 申遣シタルニ 後 速ニ此發令

ヲ見タルコト 返ス/\モ遺憾ノ至ナリ 由テ予

ハ将来ノ状㔟ニ應シ便宜 本作戦ヲ

変更スルヲ有利トスル場合アルヲ豫

期シ 参謀本部カ更メテ既報 予ノ意

見ヲ研究スルト共ニ 豫メ適當ノ措置

ヲ講セラレ度旨 軍司令官トシテ次長ニ意

見ヲ申遣シ 尚 詳細  中佐ニ予ノ意ノアル

所ヲ述ヘ 急遽 東京ニ帰還報告セシ

ムルコトニ取計ヒタリ

 

    10月23日

 天気、続いて晴朗。今日は上陸第2ヶ月の記念日なり。回顧せば過去2ヶ月間、軍は始終、常に困難なる攻撃を力行して今日に至れり。

 第2月以内、3ヶ師団の増加を得て勢力頓に昂まり、爾後逐次に敵を圧迫しつつ、今や大場、南翔付近にわたる敵陣に近く進出するを得たり。

 しかして大場鎮西方地域の中央突破の大勢やうやく成れるをもつて、すでに来27日をもつて決戦的攻撃開始を命じ、目下着々その準備線に近逼しつつあり。しかるに昨日ごろより敵軍やや動揺の色あり、あるいは近く大場以東の敵兵退却のことあるを予期せらるるをもつて、これに応ずるため軍の追撃準備もまた必要なりと考へ、これに応ずる研究を命じたり。

 各師団の状況

1.重藤支隊、永津部隊方面ともに変化なし。

2.第13師団正面には敵軍なほ反攻して繰り返し一般の陣地を固守し、師団は辛ふじて老陸宅を奪取し、さらに孟家宅に対する攻撃を準備中なり。

3.第9師団は昨日、大なる敵の抵抗を受くることなく夕刻までに小郁公廟~徐家巷の線に進出し、さら1部隊は八房宅を占領せり。

4.第3師団も同様、大なる敵の抵抗なく施宅~盛宅~北陳宅の線に進出し、さらに1部隊は東木橋に進出せり。

5.第101師団は同様、田堵宅~庙前宅の線に進出せり。

 この日、陸軍省中山少佐帰京につき、杉山大臣宛書信を託し、さらに左の要旨を伝言す。

1.第10軍の作戦計画、前記のごとく実状に適せざるをもつて、将来、状勢に応じこれを変更し得る様、あらかじめ参謀本部を指導せられたきこと。

2.江南地方作戦の目標は飽くまで南京と決定し、諸般の計画をこれに向かひ準備するを可とすること。
3.これがため方面軍および2軍の編制を必要とし、ことに方面軍には有力なる特務機関を付し、宣伝·謀略の直接作戦に必要なるもののほか占領地治安維持、人民の慰握指導等に任ぜしむることは、目下の状況上、極めて緊要にして、これがため戦時の体勢により軍司令官に全権を与へ、外務、海軍等の機関をも隷属せしむるを要すること。

4.目下、日本の政策は南京政府打倒を核心とし、これ以上、爾後の善後策をかれこれするは未だ時機にあらず。けだし今後の善後政策は南京政府崩壊後における支那の形勢およびこれに伴ふ列国の態度等によりおのずからこれを異にすべく、今よりこれを決定すること能はざるのみならず、過早の時機における善後政策の討究などは、国民今後の精神的作用および目下の積極的政策に悪影響を与へ、延いて支那および列国の態度にも悪結果を招き、結局、時局を困難かつ長期に導くこととなるべく、特に我が朝野の謹慎を必要とすべきこと。
 なほ上海地方を国際都市とすべき様の意見は、目下および将来ともに慎しむべき言にして、予は、本事件終局の奏功のためには飽くまで我が日本の真精神に基づき、いはゆる我らの大亜細亜主義により支那人の拝外思想(対欧米)を全般的に利用するの考慮を有利とすべきこと。云々。

 

  十月二十三日

天気 続テ晴朗 今日ハ上陸㐧二ヶ月ノ記念

日ナリ 囘顧セハ過去二ヶ月間 軍ハ始終 常

ニ困難ナル攻擊ヲ力行シテ今日ニ至レリ

㐧二月以内 三ヶ師団ノ増加ヲ得テ㔟力 頓ニ昂

リ 尓後 逐次ニ敵ヲ壓迫シツヽ 今ヤ大塲、南

翔附近ニ亘ル敵陣ニ近ク進出スルヲ得タリ

而シテ大塲鎮西方地域ノ中央突破ノ大㔟

漸ク成レルヲ以テ 既ニ来二十七日ヲ以テ決戦

的攻擊開始ヲ命シ 目下 着々 其準備線

ニ近逼シツヽアリ  然ルニ昨日頃ヨリ敵軍 稍

動搖ノ色アリ 或ハ近ク大塲以東ノ敵兵 退却

ノコトアルヲ豫期セラルヽヲ以テ 之ニ應スル為メ

軍ノ追撃準備モ亦 必要ナリト考ヘ 之ニ

應スル研究ヲ命シタリ

 各師団ノ状況

一、重藤支隊、永津部隊方面 共ニ変化ナシ

二、㐧十三師団正面ニハ敵軍 尚 反攻シテ繰返

  シ一般ノ陣地ヲ固守シ 師団ハ辛フシテ老陸

  宅ヲ奪取シ 更ニ孟家宅ニ對スル攻撃ヲ

  準備中ナリ

三、㐧九師団ハ昨日 大ナル敵ノ抵抗ヲ受クルコトナク

  夕刻迠ニ小郁公庙、徐家巷ノ線ニ進出シ

  更ニ一部隊ハ八房宅ヲ占領セリ

四、第三師団モ同様 大ナル敵ノ抵抗ナク施宅、

  盛宅、北陳宅ノ線ニ進出シ 更ニ一部隊ハ

  東木槗ニ進出セリ

五、㐧百一師団ハ同様 田堵宅、庙前宅ノ

  線ニ進出セリ

此日 陸軍省中山少佐帰京ニ付 杉山大臣宛 書

信ヲ託シ 更ニ左ノ要旨ヲ傳言ス

一、㐧十軍ノ作戦計畫 前記ノ如ク実状ニ適セサ

  ルヲ以テ 将来 状㔟ニ應シ之ヲ変更シ得ル様

  予メ参謀本部ヲ指導セラレ度コト

二、江南地方作戦ノ目標ハ飽迠 南京ト決定

  シ 諸般ノ計畫ヲ之ニ向ヒ準備スルヲ可トスルコト

三、之レカ为メ方面軍 及 二軍ノ編制ヲ必要トシ

  殊ニ方面軍ニハ有力ナル特務機関ヲ附

  シ 宣傳謀畧ノ直接作戦ニ必要ナルモノヽ外

  占領地治安維持、人民ノ慰握指導等ニ任

  セシムルコトハ 目下ノ状況上 極メテ緊要ニシテ 之レカ

  为 戦時ノ体㔟ニ依リ軍司令官ニ全権ヲ与ヘ

  外務 海軍等ノ機関ヲモ隷属セシムルヲ要スルコト

四、目下 日本ノ政策ハ南京政府打倒ヲ核心トシ

  之レ以上 尓後ノ善後策ヲ彼此スルハ未タ時機

  ニアラス 蓋シ今後ノ善後政策ハ南京政府

  崩壊後ニ於ケル支那ノ形㔟 及 之ニ伴フ

  列國ノ態度等ニ依リ自ラ之ヲ異ニスヘク

  今ヨリ之ヲ決定スルコト能ハサルノミナラス

  過早ノ時機ニ於ケル善後政策ノ討

  究ナトハ国民今後ノ精神的作用 及 目下

  ノ積極的政策ニ悪影響ヲ与ヘ延

  テ支那 及 列國ノ態度ニモ悪結果

  ヲ招キ 結局 時局ヲ困難 且ツ長期

  ニ導クコトトナルヘク 特ニ我朝埜ノ謹

  慎ヲ必要トスヘキコト

  尚 上海地方ヲ國際都市トスヘキ様ノ

  意見ハ目下 及 将来 共ニ慎ムヘキ言ニシ

  テ 予ハ本事件終局ノ奏功ノ为メニハ

  飽迠 我日本ノ真精神ニ基キ 所謂

  我等ノ大亜細亜主義ニヨリ支那人

  拝外思想(対欧米)ヲ全般的ニ利

  用スルノ考慮ヲ有利トスヘキコト

                云々

 

   10月24日(敵軍の退却

          追撃命令下付)

 昨夜半より敵第一線の減兵の報あり。我が軍第9師団の斥候は走馬塘を渡れるが、敵兵退却の状ありと報ず。かくてこの日、予は戦闘司令処を張家宅(劉家行東南約2,000m)に進め、軍の攻撃開始を令じ、さらに森厳なる訓示を各師団長に与ふる予定なりしが、敵軍退却と知り、予定を変更し朝9時、電話をもつて各師団に追擊命令を与へ(爾後、筆記したる完全なるものを下す)また従来の計画を変更し第13師団は依然、当面の敵を攻撃して南翔地北方に進出し、敵の退路を遮封せしむることとし、第11師団の主力(1旅欠)を陳家行付近に集結し、機を見て南方または西南(南翔方向)に突進せしむることに改めたり。けだし最早、走馬塘の突破に大なる困難なきと、敵を捕捉するためには同時に南翔を攻撃するを有利なりと認めたればなり。

 各師団の状況

1.重藤支隊は依然、当面の敵を牽制す。

2.永津部隊、同断。

3.第13師団方面は敵兵頑強に陣地を固守し、昨夜も時々銃砲火による反攻を示せしも、師団は能くつひに孟家宅を占領し、さらに全面にわたり攻撃強行中。

4.第11師団の43 i は夕刻、陳家行およびその南方地区を第9師団の部隊と交代し、師団の主力は南方に向かひ転出中。

5.第9師団は走馬塘の線に進出し、その一部は北張村においてクリークを渡河せり。

6.第3師団は大体、走馬塘の線に迫り進出せしも、未だこれを渡るを得ず、その左翼は洛河橋宅~南陳宅の線に進出す。

7.第101師団はほとんど敵の抵抗なく洪家橋、沈家巷の線に進出す。

8.谷川支隊、兵站部隊も逐次、当面の敵を圧迫しつつあり。

 午後に至るも師団の追撃、思ふに任せざるにより、予は参謀長を伴ひ午後3時、第3師団長の許に至り、第3、第9、第13師団長を召致し追撃を督励するとともに、軍の追撃計画変更の意を説明す。各師団長、能く予の意を諒するも、何分、長時日の陣地戦に慣れたる各部隊の機動力を失ひあると、地形、ことに走馬塘の障碍のため果敢なる追撃を実行し得ざるは遺憾なり。第9師団のごときは未だ戦備補充を果たさず、現在、各歩兵大隊、銃数2~3百の有様につき、本日夕までにその補充を了へて追撃を敢行すべしといひ、 予、無理もなき次第と諦む。

 

  十月二十四日(敵軍ノ退却

         追撃命令下付)

昨夜半ヨリ敵㐧一線ノ減兵ノ報アリ 我軍

㐧九師団ノ斥候ハ走馬塘ヲ渡レルカ 敵兵

退却ノ状アリト報ス 此クテ此日 予ハ戦斗司

令處ヲ張家宅(劉家行東南約二千米)ニ進

メ 軍ノ攻擊開始ヲ令シ 更ニ森厳ナル訓示ヲ

各師団長ニ与フル予定ナリシカ 敵軍退却ト

知リ 予定ヲ変更シ 朝九時 電話ヲ以テ各師団

ニ追擊命令ヲ与ヘ(<尓>後[✕刻✕]筆記シタル完全ナルモノヲ下ス)

又 従来ノ計畫ヲ変更シ 㐧十三師団ハ依然 當面

ノ敵ヲ攻撃シテ南翔地北方ニ進出シ 敵ノ退路

ヲ遮封セシムルコトトシ 㐧十一師団ノ主力(一旅欠)

ヲ陳家行附近ニ集結シ 機ヲ見テ南方 又ハ

西南(南翔方向)ニ突進セシムルコトニ改メタリ 蓋シ

最早 走馬塘ノ突破ニ大ナル困難ナキト 敵ヲ

捕捉スル为メニハ同時ニ南翔ヲ攻擊スルヲ有利

ナリト認メタレハナリ

 各師団ノ状況

一、重藤支隊ハ依然 當面ノ敵ヲ牽制ス

二、永津部隊 仝断

三、第十三師団方面ハ敵兵 頑強ニ陣地ヲ固守シ

  昨夜モ時々銃砲火ニ依ル反攻ヲ示セシモ 師団ハ

  能ク遂ニ孟家宅ヲ占領シ 更ニ全面ニ亘リ

  攻撃強行中

四、㐧十一師団ノ43iハ夕刻 陳家行 及 其南方地区ヲ

  㐧九師団ノ部隊ト交代シ 師団ノ主力ハ南方ニ向ヒ

  轉出中

五、㐧九師団ハ走馬塘ノ線ニ進出シ 其一部ハ北張村

  ニ於テクリークヲ渡河セリ

六、㐧三師団ハ大体 走馬塘ノ線ニ迫リ進出セシモ

  未タ之ヲ渡ルヲ得ス 其左翼ハ洛河槗宅、南陳

  宅ノ線ニ進出ス

七、㐧百一師団ハ殆ト敵ノ抵抗ナク洪家槗、沈家巷

  ノ線ニ進出ス

八、谷川支隊、兵站阝隊モ逐次 當面ノ敵ヲ壓迫

  シツヽアリ

午后ニ至ルモ師団ノ追擊 思フニ任セサルニ依リ 予ハ参

謀長ヲ伴ヒ午後三時 㐧三師団長ノ許ニ至リ 㐧三、

㐧九、㐧十三師団長ヲ召致シ追擊ヲ督勵

スルト共ニ軍ノ追擊計畫変更ノ意ヲ説明

ス 各師団長 能ク予ノ意ヲ諒スルモ 何分 長時日

ノ陣地戦ニ慣レタル各部隊ノ機動力ヲ失ヒアルト

地形 殊ニ走馬塘ノ障碍ノ为メ果敢ナル追

撃ヲ実行シ得サルハ遺憾ナリ 尚 㐧九師団ノ如キ

ハ未タ戦備補充ヲ果サス 現在 各歩兵大隊 銃数二三百

ノ有様ニ付 本日夕迠ニ其の補充ヲ了ヘテ追撃ヲ

敢行スヘシト云 予 無理モナキ次㐧ト諦ム

 

   10月25日

 天気晴朗。

 各師団は続いて敵を追撃中なるも、走馬塘南岸にある敵の収容部隊は既存の陣地において抵抗し、第9、第3師団方面の追撃は意のごとくならず。

 第101師団は近く大場鎮の北方に敵を追撃せるも、未だ大場鎮を占領するに至らず。

 第13師団の攻撃は遅々として進捗せず。けだし敵軍この方面に漸次砲兵を増加し、死力を遏[→竭]して大場方面の退却を掩護しつつあるもののごとし。

 よつて軍は第11師団の全力(永津部隊を除く)をもつて第9師団の右側に進出し、その側方を掩護するとともに、第13師団と連繫して南翔を攻撃せしむべく区署し、該師団は夕刻までに陳家行より頭家を経て僅家宅東方に至る線に展開し、攻撃を準備中なり。

 兵站部隊はこの日、前面の敵を追撃しつつ爾後、廟行鎮を占領し、谷川支隊もこれに連なり江湾鎮陣地をその南北より包囲攻撃中なり。

 重藤支隊方面、変化なし。

 

  十月二十五日

天気晴朗

各師団ハ続テ敵ヲ追撃中ナルモ 走馬

塘南岸ニアル敵ノ収容部隊ハ既存ノ

陣地ニ於テ抵抗シ 㐧九、㐧三師団方

面ノ追撃ハ意ノ如クナラス

㐧百一師団ハ近ク大塲鎮ノ北方ニ敵ヲ

追撃セルモ 未タ大塲鎮ヲ占領スルニ至ラ

㐧十三師団ノ攻撃ハ遅々トシテ進捗セス 蓋

シ敵軍 此方面ニ漸次 砲兵ヲ増加シ 死力

ヲ遏[ママ]シテ大塲方面ノ退却ヲ掩護シツ

ツアルモノヽ如シ

依テ軍ハ第十二師団ノ全力(永津阝隊ヲ除ク)

ヲ以テ㐧九師団ノ右側ニ進出シ 其側方

ヲ掩護スルト共ニ 㐧十三師団ト連繫

シテ南翔ヲ攻撃セシムヘク區署シ 該師

団ハ夕刻迠ニ陳家行ヨリ頭家ヲ経テ

僅家宅東方ニ至ル線ニ展開シ 攻擊

ヲ準備中ナリ

兵站中隊ハ此日前面ノ敵ヲ迫撃シツヽ 尓後

廟行鎮ヲ占領シ 谷川支隊モ之ニ連

リ江湾鎮ヲ其南北ヨリ包圍攻

撃中ナリ

重藤支隊方面変化ナシ

 

    10月26日

 天気晴朗なれども漸次南風となりつつあり。

 今後の天候、疑はし。

 各師団は敵を追撃して前進し、第9師団、第3師団は概ね敵の収容陣地を突破して洛陽橋~張家橋~胡宅~王家宅の線に進出し、第101師団は夕刻、つひに大場鎮を占領して旭旗高く街上に翻る。なほ兵站部隊、谷川支隊も敵を追撃して概ね江湾~大場道の線に進出し、また南方より江湾鎮に進入せり。

 重藤支隊方面、変化なく、第13、第11師団方面は敵の頑強なる防御のため戦況、余り進展せず。けだしこの前夜、敵は大場·江湾鎮より最後の退却を始め、また閘北の敵はこの夜半より退却に就きしがごとし。

 各師団はその砲兵の大部を概ね走馬塘の線に進出せしめ、明日の追撃を準備す。

 思ふに過去1ヶ月有余の悪戦苦闘に酬ひられ、つひに大場攻略の目的を達し得たるは欣懐これに過ぎず。けだしひとへに皇威と将兵の忠烈によるものにて、感激無量なり。

 なほ今後一層追撃を敢行して、成るべく多くの残兵を捕捉すること緊要なるも、地形と残兵に妨げられ、予期のごとくその目的を達し能はざるは遺憾の極みなり。

  悪戦力闘三月  包痍超塁斃不已

  神武敵陣旭旗翻  欲忠霊幽暝裏

 この日、新たに方面軍参謀副長に内定せる元参謀本部第2[→3]課長武藤大佐および方面軍要員数名来着し、方面軍および第10軍作戦に関する中央部の意向および計画の進捗を聴く。大体、予の意に満たざること少なからざるも、既往は詮なく、何とか善後策を講ずるのほかなく、今後状勢の変化に伴ひ処決すべくひたすら考慮を運らしあり。なほ方面軍人事については、方面軍の重要性と権威のため、現内定人を変更するの必要を感じ、大臣、次長に書信を認め明日の飛行便に托送することとせり。

 

  十月二十六日

天気晴朗ナレトモ漸次南風トナリツヽアリ

今後ノ天候疑ハシ

各師団ハ敵ヲ追擊シテ前進シ 㐧九師団

㐧三師団ハ概ネ敵ノ収容陣地ヲ突破

シテ洛陽橋─張家橋、胡宅、王家宅

ノ線ニ進出シ 㐧百一師団ハ夕刻遂ニ大

塲鎮ヲ占領シテ旭旗髙ク街上ニ□

ル 尚 兵站阝隊、谷川支隊モ敵ヲ追撃

シテ概ネ江湾─大塲道ノ線ニ進出シ

又南方ヨリ江湾鎮ニ進入セリ

重藤支隊方面変化ナク 㐧十三、㐧十一

師団方面ハ敵ノ頑強ナル防御ノ为

 

    10月27日

 各師団は追撃を続行す。

1.第9師団は右翼隊をもつて江橋鎮東方侯付近に、左翼隊をもつてその東南方、大場鎮~北新径道および蔡家橋付近に進出す。

2.第3師団は右翼隊をもつて真茹南方約2キロ、泰家付近に、左翼隊をもつて蘇州河畔墓巷衖付近に進出す。

3.第101師団は兵力を彭浦鎮、唐家宅付近に終結し、谷川支隊を併せ指揮し大場東方江湾鎮付近を掃蕩す。

4.陸戦隊は未明より追撃に移り、閘北一帯を占領す。

5.第11師団はその左翼隊をもつて李家門~西顧橋の線に迂回進出し、西方に向かひ攻撃を準備す。左翼隊方面、敵の抵抗ありて進出せず。

6.第13師団の攻撃は遅々として進まず。

7.重藤、永津隊方面、変化なし。

 軍は昨日より薀藻浜をもつて主として糧食の前送を始め、なほ唐橋付近より死傷者の後送に便するを得たり。

 この日、参謀総長軍令部総長より祝電を拝受す。一同シャンパンを挙げて陛下の万歳を三唱す。

 

 10月28日までにおける軍死傷者概数

        (将校)  (准士官以下)  計

         死  傷  死    傷

第3師団  85 197 1,972 6,625 8,682

第11師団    50 151 1,931 5,218 7,350

第101師団  40 158    468 3,604 4,270

第9師団  95 144 1,317 6,313 7,869

第13師団  13  37    238  1,771 2,059

重藤支隊  12   21    307    899 1,239

 計       6,528    24,941    31,649

 

 すなはち大場陥落までの死傷総数31,000余名にて、うち配属せる軍直属部隊のものを含む。なほ現在まで病者の総計は約3,000名にて、うち死亡521なり。右は主としてコレラなり。

 なほ傷病者の既送還者は約5,000名に達し、原隊復帰者は約6,000名の見込みなれば、大体本月初旬に到着すべき浦充員をもつて概ね定員の不足を補ひ得べきみこみなり。

 なお軍馬の損傷、大要左のごとし。

 

  傷死  2,727   現在病馬数  1,732

  病馬死    421

   計  3,149

 

  うち補充馬の既着のもの約500、現在欠馬数4,300頭なり。これは当分補充の見込みなく、戦列隊は輜重より補充のほかなし。

 

   10月28日

 各方面より祝電来たる。東京においてもこの夜は提灯行列など、祝慶気分旺盛なりし由なるも、予ら一同として僅かに上海西方地区を一掃せしまでにて、西方正面にては近く頑強なる敵陣を日夜力攻しつつ、また南方に対してはこの戦機を逸せず蘇州河を渡りて敵を更に圧迫して南市の解放を策せざるべからず、まだまだ心中、慶祝気分たるを得ず。

 各師団の戦況

1.重藤、永津部隊方面、変化なし。

2.第13師団は依然攻撃を力行し新陸家橋および西部老陸宅を完全に占領せるも、新陸宅および首家橋宅の敵陣を奪取し得ざるのみならず、広福はなほ敵兵、陣地を増強しつつ、兵力また増加せるごとし。

3.第11師団は漸次、敵を攻撃して中央隊をもつて婁濠~朱羅家宅の線に、左翼隊をもつてやや離れて郭家宅范家宅~斗門橋の線に進出せり。

4.第9、第3師団は大要、蘇州河岸に近く進出して渡河を準備す。

5.第101師団は依然、敵兵掃蕩中。

 よつて軍は軍砲兵を新たに大場鎮西南方約4キロの線に進出せしめ、今、第11、9、3師団の作戦地境を新区画し、爾後の西方および南方に対する攻撃を準備せしむ。

 かくて軍今後の攻撃は西·南方に対しいかに実行すべきや、第10軍との関係もあり、慎重に考慮せざるべからず。しかも敵の退却方向および兵力ならびに蘇州河南方の敵陣地の情勢等未詳なるをもつて、これらの情勢を見極めたる上、爾後の方針を決定することとす。

 この日、劉家行顧家宅付近の軍野戦病院および第3、第11師団の野戦病院を視察し、傷病兵を慰問す。思ふに傷病者の収容および後送は相当順序よく実行せらるあるごときも、何分家屋なく、病院も逐次交代中にて傷者の手当等もとより充分ならず、深く同情に禁ぜざるもの多し。よつて当事者を督励して看護および後送の万全を期す。

 なほ序をもつて羅店~大場道上唐橋に至り、新たに軍兵站をもつてする薀藻浜糧秣輸送·集積の状況を視察す。同浜は低水時において水幅10m、水深1~2mありて、4時の航運に適し、現下毎日量少なくも200トンを唐橋付近に集積し得る状態にて、これにて今後、雨天となるも補給上毫も心配すべきことなしと安心す。

 方面軍幕僚たるべき塚田少将以下数名来着す。よつて大体予の意見を伝へ、爾後の方面軍作戦に関する研究を命ず。

 

   10月29日

 各兵団はそれぞれ前任務を続行中なるも、第11師団中央隊の張仙廟の一角および壬塘橋を占領したるほか大いなる変化なし。

 敵は南翔付近に漸次陣地を増強しつつあり。大場、江橋付近より退却せる敵の大部は南翔以西の地区に向かひたるもののごとく、蘇州河南方地区に退却せるものはその一部なるがごとし。なほこの方面に退却せる敵は、兵器弾薬の大部を失ひたるがごとく、この補充に相当の日子を要するものと察せられ、また敵砲兵は目下漸次、蘇州河南方地区に現れつつあり。

 よつて軍は南翔方面の攻撃は一時これを見合はせ、速やかに蘇州河を渡りてその南岸に地歩を占め、なし得ればここに南市を封鎖する目的をもつて第9、第3師団の渡河準備を急がしめ、一方かねて計画、連絡せる支那軍の利用と相まつて、第3師団をしてまづ攻撃を実行せしめ、続いて第9師団をして攻撃を実行せしむべく、遅くも11月3日までにこれを実行を命ず。

 なほこれがため軍砲兵の全部をこれに協力せしむべく、それぞれ陣地に進入せしむることとせり。

 この日、ジェスフヒールド公園において英国兵3名、我が砲弾のため死傷せる旨、英国側より抗議し来たれるにより、現状を調査せしめたるところ、第3師団歩兵砲および山砲の砲弾らしく、墓巷衖付近の歩兵の中山橋付近にたいする砲撃の避によるものと判断せらるるにより、原田少将をして英国側と交渉せしめ、英軍は最初、中山橋付近撤退の我が要求を感受せず、自主的にその撤退を行ひし結果、我砲弾の危険区域に(公算躱避区域)現在せる結果、かかる不幸を見たるを遺憾とし、今後、相互能く連絡して危険区域に止まらざる様、取り計らふべき旨、相互の諒解を得たり。

 なほこの日、仏租界霞飛路にも我が砲弾落下せりとの報ありしも、こは所以なき事にて何かの間違ひか、あるいは支那軍の悪戯または謀略によるものなるべく、その旨を仏側に伝へしめたり。

 思ふに将来、上海占領に関してはなほこの種の問題頻発するの虞あり。外国側が吾が要求を甘受して租界境界付近またはそれ以外の地区に止まるにおいては、この種の事件を惹起すること免れ能はざるところなれば、軍としては各師団に命じ外国警備区域への攻撃を禁じ、万事速やかに予防することに努むるも、支那軍がなほその警備区域または外国軍の現在する付近に遮蔽するを場合には、やむなくこれを攻撃せざるべからざることをも列国側に通ぜしめたり。

 

   10月30日

 情勢、変化なし。

 この日、予は呉淞鎮宝山鎮の軍予備病院および兵站病馬厰を視察し、傷病者を慰問せり。

 予備病院の情況は現有患者2,000余名にして、設備もとより不完全なるも治療その他の手続き相当に行はれつつあり、宝山鎮の避病院は現有患者600余名にして最早、危険状態の者はなく、各種コレラ赤痢等漸次減滅し、昨今毎日2~3名の入院患者あるのみといふ。

 兵站病馬厰も現在馬1,700余頭にして傷病相混じ、多きは鞍傷馬にして、その保護·治療は相当に実施せられありと認め、安心す。

 かくて先日来の視察の結果によれば、人馬傷病者の収容·保護はもとより完全ならず。ことにその設備の不備なるは、利用すべき家屋少なく、かつ汚壊せることにて、万やむを得ざることと諦むるほかなし。目下、天幕の補給を要求しあれば、将来その到着後はむしろこれを利用すること可なりと考へらる。

 なほ宝山城に収容せる避難民の状態を視察す。現在者、計1,000余名なるも、多くは老幼女子の類いなり。一般に報道部員の指導にて日本軍の恩恵を感謝しつつあるは欣ぶべく、先日来、近郊の稲刈りその他の農作物の収穫に当たらしめ、既収籾240石、その他綿、豆等相当の額に上りおり、難民は大体満足の状態なり。将来さらにこれを救護して皇軍の皇に浴せしむるは、今後江南地方撫民の魁として特に注意すべきことなりと認めらるも、その指導方法についてはなほ十分監督·指導の必要ありと認めらる。

 予は一般難民に対し銀1,000ドルを送りたるに、一同非常に感謝しおれり。

 この日、方面軍要員より方面軍司令官に対する参謀総長の指示につき説明を受く。内容、満足しがたき点すくなからず。ことに方面軍司令部の構成を小規模にしたるため、方面軍の指揮の範囲および管掌事項を制限せるは面白からず。方面軍統率上、全権を軍司令官に与ふるをむしろ正当なりとすべく、今後両軍の作戦指導上、後退または故障の発生することなきや憂慮すべきものあり。よつてこれに関しあらかじめ参謀本部に対し予の意見を通報するとともに、なほ占領地の民政、国際関係処理等に関し軍司令官の権限を明確にし、所要の人員を付することにつき研究の上、それぞれ意見を中央に具申すべき旨、命ず。

 

   10月31日

 天候下り坂、[時]として小雨あり。

 この日、第3師団は蘇州河渡河を敢行せしが、右翼方面において周家橋西方金家頭対岸において1部隊を渡河せしめたるのみにて、周家橋付近より側射のため渡河を継続するを得ず、左翼隊方面は全然失敗せり。けだし軽渡河材料による架橋の法によりたるものにて、潮流と河幅の大い(50m)なるため渡河、意のごとくならざりしなり。要するに師団の渡河は一面、戦場謀略による敵軍一部の内応的効果に望みをつなぎたる点もあれど、大体、渡河準備、時[→事]前敵陣の破壊等充分ならざりしに起因するものと認めらる。

 第9師団はこの日、渡河準備未成。充分慎重に明日をもつて渡河を強硬する予定なり。

 軍は爾後白茆江方面における上陸作戦を準備するため、西方正面における第13、第11師団の攻撃を一時中止し守勢を取るに決し、左の要旨の命令を与ふ。

1.第13師団(臼砲1大隊を付す)をして現陣地以北の地区を重藤支隊および永津部隊に代り確保す。

2.重藤支隊および永津部隊(22 i 、Ⅰ(-1)/11A、1/3S、1FL、1/3 1/13P[歩兵第22連隊、野砲兵第11連隊第1大隊(1中隊欠)、衛生兵1小隊、第1野戦病院、工兵第13連隊第1中隊の1小隊])を月浦鎮~宝山城間に終結し、上陸作戦準備·訓練を行ふ。

3.第11師団(長津部隊欠)に後備歩兵2大隊を付し陳家行以南の現線を確保せしむ。

 昨日来蘇州河畔の戦闘において、我が歩砲の射撃および飛行機の空中爆撃·射撃等が、多少、英国軍の守備区域を犯せる事実ありて、英国側の抗議的通告あり、原田少将をしてこれと接[→折?]衝せしむ。けだし英国が支那軍の守備区域に接して警備しあるため、敵軍に対する我が空地の射撃が当然の躱避をもつて英国に損害を与ふるはやむを得ざるところなり。

 軍はもとより各師団·諸部隊に命じて、英軍および列国軍の守備区域に損害を与へざる様、命令しあれど、この躱避的損害はやむを得ざる次第にて、列国軍が支那軍をさらに西方に退避せしむるか、自らが危険区域外に引退するのほか、今後といへどもかかる危惧を免るる能はざるは当然なれば、この意をもつて列国側に対し警告を与ふる積りなり。しかれども英仏軍が初めより支那軍に同情·支援的態度を取り、とかくに我が軍の作戦に不利なる言動あるは、今日に始まれるにあらず。よつて我が方としては相当強硬に、かつ合法的に今後の措置を講ずるの要あり。この意を参謀本部にも報告せしむ。

 

松井石根『出征日誌』第二巻 その2(9.23~10.31)
防衛省防衞研究所 支那-支那事変・日誌回想-307-4