在昭和7年2月1日 上海重光公使より芹沢外務大臣あて電報
上海 2月1日午後発
本省 2月1日午後着
第56号
本使、帰任後直ちに現下の実情を子細に観察せるところ(一般情勢は上海閣下あて電報第158号によりご承知の通り)予想外に急迫せる事態と認めらる。すなはち我が方現在の兵力をもつてしては在留民の安全確保に不足にして(その結果、自警団のごとき醜態を現出したり)地方租界全般の治安、甚だしく脅かされ、在留外国人側の不安はもとよりその生活の脅威をも誘致し、外人の
我が方に対する感触、漸次悪化し、事態すこぶる重大なるにつき、在留民保護の完全を記する目的をもつて陸軍を派遣せらるることしかるべし。考慮を尽くしたる上、右具申す。至急御決行を相仰ぐ。
なほ支那側においてあらかじめ右陸軍派兵の報道を感知するにおいては、右到着前、我が方の手薄に乗じ暴行を加へ来るやも計られず、かかる際、我が方の蒙ることあるべき人命・財産の損害は測り知るべからざるものあるについては、軍の機密として、派遣兵が当地に上陸し得る時機に至るまで絶対に内外新聞等に発表せられず、かつこの点については特に十分の御取り計らひある様、各方面に御手配相煩はしたし。
本官の趣旨は当地陸海軍武官の意見をも徴し、海軍司令官も本電趣旨に異議なき次第なり。
昭和7年2月(1)日 上海時局委員代表より吉沢外務大臣あて電報より
居留民保護のため救援方申請について
上海発
本省 2月1日午前着
上海時局委員代表 米里 紋吉
福島 喜三次
1.停戦交渉中なるにかかはらず支那は引き続き租界を砲撃し
砲弾各所に落下せり。かつ支那は対日宣戦および洛陽遷都を宣伝し、敵愾心を唆り、戦備を整へつつあり。
2.便衣隊依然として各所に出没し、邦人の被害頻々。陸戦隊も応接に暇なき有り様にして、その間の秩序紊乱に乗じ慨かはしくも日本の名誉を恥ずかしむる行為を敢へてする邦人少なからず。この問題はすでに外人の知るところにして、到底、隠蔽する能はず。畢竟、兵力不足のためなりと信ず。
[中略]
4.当地外国人の輿論は日本の最初の行動を否認せずといへども、事件突発後、遅滞なく時局を鎮定するだけの兵力なく、その結果、前述のごとき租界の秩序紊乱を招きたるは、日本の責任なりといひ、全租界の秩序を確保するの覚悟と準備なくば、宜しく日本軍は租界より撤退すべしと主張し居れり。
[以下略]
昭和7年2月(1)日 上海居留民代表より芳村外務大臣あて電報
上海発
本省 2月1日午後着
上海居留民代表 林 勇吉
(至急同文4通のうち)
優勢なる支那軍の攻撃と数千の便衣隊の夜襲により事態は
刻々危殆に瀕す。この際、至急、有力なる陸軍の急派を要す。もし不可能ならば居留民全部の内地引き揚げ即時実行を命ぜられたし。もし機を失すれば3万の同胞全滅すべし。
昭和7年2月2日 在上海重光公使より芳沢外務大臣あて電報より
上海帰任以後の状況について
上海 2月2日午後発
本省 2月2日午後着
第61号
本使着任以後の当方面状況、左の通り。なほ総領事電報参照ありたし。
[中略]
2.29日事件当初、海軍側は手薄のため在郷軍人団および一時青年団または自警団を閘北占領地内の治安維持に用ひたる行き懸かりもあり、彼らの行動は、便衣隊に対する恐怖および憎悪とともに、あたかも大地震当時の自警団の朝鮮人に対する態度と同様なるものあり、支那人にして便衣隊の嫌疑をもつて処刑(殺戮)せられたるもの既に数百に達せるもののごとく、中には外国人も混入し居り、将来の面倒なる事態を予想せしむるために支那人・外国人は恐怖状態にあり。
[以下略]
昭和7年2月2日 在上海重光公使より芳村外務大臣あて電報より
事態打開のため中国人側要人との意見交換について
上海 2月2日午後発
本省 2月2日午後着
[中略]
黄郛らは、支那軍隊の意気込み甚だ強く、説得の困難なる点を説明したり。他方、当面の軍隊たる第19路軍は広東派の軍隊にして、今日となりてはむしろ蒋介石の軍とは言ひ難く、またそのほか陳友仁ら広東派は対外強硬の態度より上海において青幇、紅幇らの手により便衣隊をもつて我が軍隊の後方攪乱を試みつつありとの情報もあり(彼らは日本海軍の飛行機爆弾投下やまざれば虹口方面を灰にすと称しおる由。なほ陳友仁らは対外宣伝を指導し居る様子なり。)
日本外交文書デジタルコレクション 満州事変 第2巻第1冊 (昭和6年(1931年)12月から昭和7年(1932年)10月まで)