Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

津田左右吉「日本歴史の研究に於ける科学的態度」 

   二

 然らばその固陋の思想とは何であるかというと、それを一々ここで数えたてることはできないし、またそうするにも及ぶまいが、その主なるものは上代史に関することであって、その根本の考[かんがえ]は、いわゆる記紀の神代や上代の部分を歴史的事実を記したものとして信奉するところにある。もっとも神代については、必ずしもモトオリ・ノリナガ(本居宣長)の如く『古事記』の記載をすべて文字のままに事実として信ずるには限らず、それに何らかの恣[ほしいまま]な解釈や牽強附会[けんきょうふかい]な説明やを加える場合もあるが、それにしてもこの根本の考に変りはない。そうしてこの考から、神代という時代が事実あったとし、アマテラス・オオミカミ(天照大神)を実在の人物とし、皇室の万世一系であることはこの大神の神勅によって決定せられたとし、天皇は今日でも神であられるとし、わが国には神ながらの道という神秘的な道が昔からあったとし、オオヤシマ(大八嶋)は最初から皇室の統治をうけた一国であったとし、日本は世界の祖国であり本国であり、従って世界は日本に従属すべきものであるとし、チョウセン半島はスサノオ(素盞嗚)の命みことによって経営せられたものであるから本来日本の一部であるとするような、主張が生ずるのである。これらは概していうと神道者や国学者の思想をうけついだものであるが、近ごろのこういうことを主張するものは、国学者の考えたように、漢文で書かれシナ思想で潤色せられているという理由で『日本紀(書紀)』を排斥することはせず、却ってそれを尊重するので、それがために、シナの種々の書籍のいろいろな辞句をつなぎ合わせて作ったその記事なり詔勅として載せられている文章なりをそのままに信じ、またはジンム(神武)天皇の即位を今から二千六百余年の前とする『日本紀』によって初めて定められた紀年をも、たしかなものとして説いているが、これらはエド(江戸)時代からメイジ年間へかけての幾人もの学者によって、事実でもなく真の詔勅でもなく、またシナ思想によって机上で作られた年数であることが証明せられ、それが学界の定説となっているものである。ところが、そういう過去の学者の研究による学界の定説をさえ無視した主張のせられたところに、漢文を尊重しシナ思想を尊重する儒者の偏見のうけつがれたところがある。なおこういう主張と関聯したこととして、日本人においてはその生命財産もすべて天皇のものであって、それが建国以来の日本人の信念であるとか、シナもしくは世界の文化の淵源が日本にあるとか、日本人が世界の最も優れた民族であるとかいうような、国学者の思想の一すじのつながりがあると共に、近年のヨウロッパの一隅に起ったいわゆる全体主義(その実は権力服従主義)的な、または特殊の意義における民族主義的な思想から学ばれたようなことも主張せられ、それが古典の記載によって知られることの如く説かれてもいたらしい。

 しかしこういうようないろいろの主張には、第一に、記紀の記載を歴史的事実として信ずるといいながらそれに背そむいていることがあるので、例えば、アマテラス・オオミカミが実在の人物であるというのは、それを日の神とし太陽神とし、タカマガハラ(高天原)という天上の世界にいることにしてある記紀の記載と矛盾するものであり、オオヤシマが最初から一つの国として皇室に統治せられていたことが事実であるとすれば、オオナムチ(大己貴)の命がアシハラノナカツクニ(葦原の中国)を皇孫に献上したというそれとは一致しない記紀の記載をも、ジンム天皇の東征ということをも、理解することができない。これは物語に語られていることをその全体にわたって考えず、一部分または一方面の記載を恣にとり出して、それだけを主張の根拠とするからのことであって、そこにこういう主張に学問的根拠のない理由がある。

 第二には、記紀の用語や文字の意義に背いていることがある。例えば、日本は世界を従属させるべきものであるという主張が『日本紀』の神武天皇紀の「掩八紘而為宇」を根拠とするようなのがその一つである。この句は「兼六合以開都」と対になっているので、「為宇」の「宇」は建築物としての家屋のこと、「為」は造作の義であり、この場合では宮殿を作るということである。(大和地方は服属したからさしあたって橿原に皇居を設けることにするが大和以外の地方はまだ平定しないから)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう、というのがこの二句にいいあらわされていることなのである。(これは『文選』に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少しくいいかえたものであるが、このことについての詳しい考証は近く発刊せられるはずの『東洋史会紀要』第五冊にのせておいた。)このような出典などを詮索せずとも、この句を含む「令」というものの全体と神武紀の始終とをよく読んでみれば、「為宇」がこういう意義であることは、おのずからわかるはずである。「宇をつくる」と訓よむべきこの「為宇」を、いつのころからか「宇となす」と訓み「宇」を譬喩[ひゆ]の語として見るものがあったので、そこから八紘を一家とするというような解釈が加えられ、それによって上記の主張がせられたのであろう。こういう主張は、『古事記』の物語にもとづいたノリナガやアツタネ(篤胤)の思想にも一つの淵源があるが、近年の主張者はそれよりもむしろ『日本紀』のこの語を根拠としていたようである。そうしてこういうことのいわれたのは、誤った訓みかたから誘われたのではあるが、その訓みかたの正しいか否かを学問的方法によって吟味することなしに、特にこの句の用いてある文章の全体の意義を考えることなしに、この句だけをとり出してそれに恣な解釈をしたのであって、それはまた、古典を解釈するのではなくして、自己の主張のために古典を利用しようとする態度から出たことである。こういう態度から多くの虚妄な説が造作せられ宣伝せられたのが、近年の状態であった。

 これに似たことは、孝徳紀の詔勅に見える「惟神我子応治故寄」の「惟神」の語を「神ながら」と訓み、それによって「神ながらの道」というものが建国のはじめから我が国にあったというように説かれていることである。「惟神」は一つの語ではなく、「惟」は意義のない発語であり、「神」は「我が子しらさむとことよさしき」の語の主格となっているものであるのを、いつのころからか、こういう誤った訓みかたがせられている。もっとも「惟神」の二字は「神ながら」の語にあてられたのではないが「神ながら」という語は上代に用いられていて、天皇についていう場合には、それはこの政治的君主が現[あき]つ神[かみ]といわれていることを示すものであった。しかし「神ながらの道」ということは、どの古典にも見えていない。「神ながら」はもともと道とすべきことではないから、これは実は意義をなさぬ語である。かかる語がエド時代の末期から世に現われたので、それは多分アツタネによってはじめていい出されたものらしい。(このことについては『上代日本の社会及び思想』と『日本の神道に於ける支那思想の要素』とに詳しく考えておいた。)もともと上代人の思想になかったことであるから、その意義として説かれることは一定せず、アツタネ及びその後の神道者・国学者によって思い思いの解釈が恣に加えられて来たが、近年に至って、この語が著しく神秘化せられると共に、世界に類のない日本特有の道であり、日本人はその道を世界に実現させねばならぬ、というようにさえいわれていたらしい。神秘化せられたのは、意義のない語を深い意義のあるもののごとく宣伝しようとするために、その意義が明かに説き得られないからでもあったろう。そこにこういうことを主張した宣伝者の態度が見える。

 第三には、古典のどこにも見えず上代の思想としてあるべからざることをそうであるごとく主張することであって、国民の生命財産は本来天皇のものである、というようなのがそれである。エド時代の武士には生命は(俸禄との交換条件として)主君からの預りものであるということが教えられもしたが、上代にはそういう思想はなかった。天皇に仕えまつる武人は大君のために命を惜しまぬということは考えられていたが、それは武人の道徳的責任としてのことであって、近年の宣伝者がいうような思想を根拠としてのことではなかった。

 また第四には、学問的研究の結果として得られた明かな知識に背くものがあるので、その例は上に挙げておいた。スサノオの命がチョウセンに行ったというような話を事実とすることが、チョウセンの歴史の研究の結果から見ても許し難いものであり、シナの文化の淵源が日本にあるというような主張が、少しでもシナの文化とその歴史とを知っているものには笑うべきたわごとであることは、いうまでもあるまい。

 なお第五としては、常識に背いているということがだれにでも知られる、神代などの物語を上代の事実として信ずるということが、すでに常識に背くものであるが、何らかの主張を宣伝するために、それを利用することがらについては、例えばアマテラス・オオミカミを人であるとする如く、恣な解釈をそれに加えることによって或る程度に常識に背かないように説こうとするけれども、利用しないことがらについては、そういう解釈をしないから、それを事実とするのは常識を無視するものとしなければならぬ。君主の家の永久であるべきことが建国の初[はじめ]において決定せられ、そうしてそれがそのとおりになった、というようなことが、歴史の常識をもっているものに承認せられないことは明かである。物語ではないが上代の多くの天皇が百歳以上の長寿であられたということを信ずるのも、同じことである。ジンム天皇の即位が二千六百余年前であることを事実とする以上、これもまた事実として考えられているとしなければならぬからである。天皇が現つ神であられるというのは上代人の思想としては事実であったけれども、今日でもそうであるというのは、やはりこの類のこととしなくてはなるまい。

 ところが、この最後にいったことは、近年の恣な主張をするものの態度の二つの方面を示すものとして注意せらるべきである。それは、皇室もしくは国家の本質に関することがらは、第一に、古[いにしえ]も今も同じである、あるいは同じでなくてはならぬ、ということ、第二に、学問的研究はもとよりのこと思慮を絶し常識を超越した信念であり、もしくはそうでなくてはならぬ、ということである。しかし第一のは歴史を、第二のは人の知性を、無視したものである。第一については、国体は永久不変であるということがいわれるであろうが、その国体の意義なり精神なり由来なりをどう考えるかということ、またその国体の実際の政治に現われる現われかたは、時代によって変って来ている。国民の生活は絶えず変化し、知識の広狭も思想の浅深も、また意欲し志向するところも、常に変化して来た。ただそれらがいかに変化しても、その変化した状態に常に適応するもの適応し得るものが永久不変なのであって、国体はこの意義において不変であったのである。政治の実際にあらわれたところについて見ても、権臣政治・摂関政治院宣政治・幕府政治と、その形態は昔から幾度も変って来たにかかわらず、国体は変らなかったが、それは実は政治の形態がどう変ってもその変った形態が成立し存在し得るような国体だからのことであり、一層適切にいうと、政治の形態が変り得たがために国体が変らずに来たのである。古典に現われているような上代人の思想や上代の政治の形態が国体と離るべからざるものであるとすれば、こういうことはなくなる。国民生活の歴史的発展はその思想や活動のしかたやを変えてゆくが、国民が国民として生きているかぎり、その生活には歴史的発展があるはずだからである。そうして国民生活のこの歴史的発展において、国体が変らずに続いて来たという事実と、それを永久に続けようという志向とが、常に強いはたらきをして来たのである。

 また第二については、こういう宣伝によって皇室を神秘化しようとするのであろうが、知性が発達し常識が高められ、何ごとについても学問的の研究が要求せられている現代においては、それは事実できないことであるのみならず、これまでとても皇室の地位や権威やについていろいろの説明なり解釈なりがせられて来たので、神代の物語とてもその一つのしかたに外ならぬのである。そうしてこういうことを主張するものが、これまで人がいわず過去にはなかった虚妄な説を新に造作してそれを宣伝したことは、この二つの主張をみずから否認したものといわねばならず、それによってその主張の無意味であることが明かにわかるのである。天皇が現つ神であられるというのは、政治的権力が宗教的のものである(「あきつ神と大八嶋国しろしめす」)という意義のことであり、部族の首長の地位において政治的権力と宗教的権威との分化しなかった未開時代の多くの民族に共通な思想のうけつがれたものとして解し得られるので、日本がまだ多くの小国に分裂していた時代においても、その小国の君主の地位はみなそうであったらしく、日本全土の君主となられた皇室のみに特有のことではなかった。文化が進んで人が人としてすべきことを自覚し、政治が政治として独立のはたらきをする時代になると、こういう思想はおのずからその力が弱められて来るので、日本でも、中世以後には公文の上にもそれはほとんど現われなくなった。今日において常識あるものがそういう思想をもっていないことは、明かな事実である。上代人の思想における現つ神の観念とても、天皇が宗教的に崇拝せられる神であられるというのではないが、現代人にとってはなおさらであって、天皇の性質とその真の尊厳とは、天皇を人として見ることによってのみ明かになることは、いうまでもない。上代には祭政一致であったから今日でもそうでなければならぬ、というような主張が、現代において承認せられるはずのないものであることも、またこれと関聯して考えられるであろう。上代祭政一致であったというのは、後世になっていい出されたことであって、それは、あるいは古典の記載を誤解したところから、あるいはことばの意義を明かにしなかったところから、またあるいは儒教思想による恣な臆説から、出たことであるから、そういう考そのものが実は上代の事実にあてはまらぬものであるが、政治に神の意志がはたらくものとせられ、従って政治の一つのしごととして神の祭祀が行われた、という意義でそれをいうにしても、それは、上代の思想と風習とであって、現代の政治には何のかかわりもないことである。(祭政一致ということについては数年前の雑誌『史苑』にのせた「マツリといふ語と祭政の文字」で考えておいた。)

 

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底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫岩波書店 2006(平成 18)年 8 月 17 日第1刷
底本の親本:「世界 三」 1946(昭和 21)年 3 月
初出:「世界 三」 1946(昭和21)年 3 月 
入力:坂本真
校正:門田裕志
2012 年 5 月 22 日作成
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