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帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

問「貴下は17日に南京入城をしたと陳述しているが、貴下は一般人なり、婦人なり、子供なりの死骸を見ましたか。なにかその様なものを。」 答「それらのものは入城までに片付けられてありました。自分は西門間近で2~3の支那兵の死骸を見ました。」 A級極東国際軍事裁判記録より 法廷証第257号 松井石根尋問調書 1946.8.8

21-8-8.(4)

検察側主張段階

支那事変)松井石根

 

22

検察側文書 10104-1 法廷証第257号

高橋義次(松井石根

 

問、貴下の軍隊が南京において幾多の暴虐行為をなしたと欧・米が考えているということを貴下が聴いたとすれば、最初に聞いたのはいつですか。

答、自分が南京入城をするとほとんど同時です。

問、貴下がそれについて聴いたのですか。

答、左様です。

問、いかなる筋からそれを聴いたのですか。

答、日本の外交官からです。

問、その日本人外交官というのはだれですか。

答、それは極く下っ端の外交官で、自分はその名前を記憶していませんが、南京駐在領事です。

問、では日本軍が南京へ接近したとき、日本領事は南京におったと了解するが。

答、領事等は日本軍とともに入城したのです。彼等は入城とともに治安維持に当たるため、軍に随行させられたのでした。

問、ヴイナックという人が書いた「現代極東史」というのがあるが、同氏はその中で、一般支那人が縄で束に結わえられたり機関銃で射殺されたりし、また婦人は日本兵用に淫売屋に入れられたと云っており、また多数の一般人が銃剣で刺されたと言っている。貴下は此の歴史家がどこでこの情報を入手したか知っていますか。

答、私は存じません。多分、支那側からと思います。

問、貴下が南京入城をしたとき、この種の話を聴きましたか。

答、否。

問、当方の記録に依れば、貴下は外国の行政権を否定する公式発言をなしています。余は指摘はしないが、貴下はなにか声明をしたのですか。

答、自分は調停を拒絶し、または行政権を否定したことはありません。事実、私は上海および南京においては支那避難民救助のため米、英、仏の外交官および領事等と協力したのです。この種の仕事に従事しておったフランス人宣教師が自分に救援を求めましたので、自分はその仕事に対し1万円与えております。

問、貴下はその人の名を覚えていますか。

答、今、記憶していませんが、思い出して見ましょう。

問、それは1932年(昭和7年)でしたか、1937年(昭和12年)でしたか。

答、1937年(昭和12年)でした。

問、南京のこの情勢のため、貴下は司令官の職を免ぜられ、2月、原[→畑]大将と交代とたという文書がまたここにあるが、その通りですか。

答、否、それは理由とはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いで平和的業務に携わることを望んだのでした。

問、貴下は1万円を貴下個人の資金から仏人宣教師に与えたと云われるのですか、それともそれは、あなた自身は勿論だが、日本軍または日本の民間人から徴収したものですか。

答、それは軍の資金でした。

問、それは上海周辺の支那避難民の救済用だったのですか。

答、その通りです。

問、貴下は1938年(昭和13年)、司令官の職を交代するする様、要請したと考えてよいのですね。

答、左様です。当方の願いによりです。

問、その請求は参謀総長に宛て[た]のですね。

答、陸軍大臣杉山大将宛です。

問、それは文書でしたのですか。

答、書簡でです。

問、それは私[文]書か、それとも公文書でしたか。

答、半ば私的、半ば公的でした。

問、貴下が交代すると同時に橋本欽五郎および朝香宮鳩彦王ならびに約80名の参謀将校が日本へ帰還さ[せら]れたとアーベント氏は述べている。貴下はそれに関して記憶がありますか、またそれは本当ですか。

答、左様です。しかしながらアーベント氏の推定は誤りでした。前記2名の将校と80名の参謀将校の帰還理由は、在南京の10個師団が約5個師団に減ぜられ、その結果、これら将校が冗員となったためでした。南京には二つの軍司令部があり、これが一つに減ぜられたのです。

問、北支から来た軍とそれから上海に在った軍とがあって、それが貴下の麾下に入ったのだと思いますが、そうですか。

答、これは自分が日本へ帰還の後でした。

問、上海作戦と南京占領の間には、例えば、多分北支から来たと思うが、第10軍の一部を成す谷将軍麾下の第6師団の様な軍隊が若干あったと思う。そうですか。

答、それは上海から来たのです。

問、第6師団は貴下が南京入城前、貴下の麾下に入り、それから第10軍が入ったのだと思うが。

答、はい、その通りです。

問、南京占領軍の 軍紀は非常に悪かったという責任がまた問われている。

答、自分は 軍紀は優秀であったと思うが、行動は然らずと思いました。

問、兵についてか。

答、そうです。

問、それは南京においてでしたね。

答、そうです。自分は軍の中に若干、不埒な分子がおったと思います。

問、然らば貴下は、戦闘行動間、兵が命令を遵守することと、兵の勤務下番中、本件に於ては南京占領後の兵の行動との間に、区別をなしていると思うが如何。

答、そうです。

問、所で、在南京部隊を指揮する将校は、勿論、勤務上番下番両方の場合の兵の行動を監督する義務があった訳でしょう。

答、そうです。

問、兵の行為が悪かったという見解を、なぜ貴下は口にするのですか。貴下は何に基づいてかかる陳述をするのですか。

答、支那民衆に対する兵の行為と一般行動からです。

問、貴下司令部より南京占領に先立ち一般命令を出しましたか。予期せられたる如き南京占領後の兵の行動を特に取り締まる命令を。

答、自分は常に厳正なる 軍紀の維持と悪徳行為者の懲罰を主張していました。自分はまた南京事件の充分なる調査と外国官吏、外交官との協力を主張し、之を実行しました。

問、貴下は本件を調査した外国の外交官の誰かの名前を挙げることができますか。

答、一人は 日本大使館の日高氏であった。当事、外国の外交官は南京に居たのですから、私はその名前を記憶していません。

問、貴下はこれら外国の外交官の誰かと個人的に会談しましたか。

答、否、南京ではしませんでした。

問、後になって誰かと会談しましたか。

答、自分は17日に南京に入城、1週間後、上海へ帰ったのです。自分は米・英の司令官および提督、また伊、仏の大使と平和裡に事を解決するため会談しました。

 

問、南京入城の部隊および12月13、14、15、16日に南京にいた部隊は新規の部隊であったのか、それともその部隊は精鋭であり、そして経験ある将校の統率するものであったのですか、それともそうではなかったのですか。

答、部隊はすべて経験者の指揮する経験ある部隊でした。

問、貴下はこれら部隊をかつて指揮したことがありましたか。

答、否。

問、貴下はこれら軍隊がそのときまで支那において勤務下番中、悪い行動をしたということを聴いたことがありましたか。

答、否。この軍は日本から来た新編成部隊でしたが、多くの経験ある老練兵で編成さりていました。これらの部隊が支那のどこででも非道な行動をとったとは聴きませんでした。

問、しからば満洲では。

答、否。

問、部隊の一部は上海周辺の作戦に参加しており、また北支から来た部隊は北平、天津周辺で前哨戦に参加していたというが、その通りですか。

答、一個師団は北平、天津地方から来ました。

問、朝香中将宮は最初に南京入城をした軍の一部を監督すべき野戦指揮官であったと言われている。 朝香宮がかかる位置にあったことは本当ですか。

答、そうです。それは本当です。

問、で、朝香宮 明治天皇の息女と結婚なされているのですね。

答、はい、その通りです。

問、 朝香宮は 南京事件に対し重大責任があるが、皇族関係ため殆んどというか、全然というか、それについてかれこれいわれなかったのだと言う人があるが、そうかね。

答、否。自分はそうは思いません。朝香宮は南京入城のわずか10日前に部隊に入られたのであって、本部隊に関係してから短時日であったのに鑑みて、自分は 朝香宮が責任があるとは思いません。師団長が責任の当事者であると自分は言いたいのです。

 

問、貴下は17日に南京入城をしたと陳述しているが、貴下は一般人なり、婦人なり、子供なりの死骸を見ましたか。なにかその様なものを。

答、それらのものは入城までに片付けられてありました。自分は西門間近で2~3の支那兵の死骸を見ました。

問、数十万人の非戦闘員が殺害され、13日の占領直後、南京は火災と掠奪に逢ったと、支那戦争犯罪調査委員会は言っている。貴下の陳述以外に南京が占領に際し、酷い処置を受けたという証拠が他になにかありましたか。

答、それは絶対に間違っています。かかる罪状に対する理由は絶対にありません。自分は名誉に誓ってこれを陳述することができます。

 

問、南京占領後、最初にハレット・アーベント逢ったのはいつですか。

答、自分 は支那で彼に逢いました。自分は南京入城、多分、1ヶ月後に初めてアーベント氏に逢ったと思います。

問、アーベント氏が会見を申込んで会見したのですか。

答、否、自分は風を訊いており、またアーベント氏の前で事実を述べ風評を打ち消したいと思いましたので、当方から会見を求めました。

問、貴下とアーベント氏はなにについて語り、またなにを話しましたか。

答、自分は南京における外国権益の尊重に関する自分の見解をアーベント氏に説明しました。また中立国財産利権に損害を及ぼさぬという自分の希望を説明しました。なお自分は平和を達成し、また戦闘を中止した支那軍に対しては友情の手を差延べることが、自分の希望であるが、抗戦を継続する支那軍を膺懲することは自分の義務であることを述べました。

 

問、2月、貴下が日本へ帰還して後、参謀総長なり、陸軍大臣なり、またはその他の者なりから、南京における貴下部隊の行動に関する報告を要求されましたか。

答、自分は東京へ帰還後、直ちに予備役 に編入せられたので、しっかりしたしたことは分かりませんが、調査や報告があったに違いないと思います。

問、貴下は南京における部隊の行動に関するこの風評に付き報告を要求せられ、または訊問せられましたか。

答、否。自分は報告をすることは要求せられませんでした。万一、かかる事件が苟もあったなら、自分は自分の責任において当然、報告をなしたことでしょう。若し貴下が報告書を求めるなら、それは復員局にあるはずです。

 

問、貴下は1936年(昭和11年)および1937年(昭和12年)中の南京および上海における貴下の行動を示す書類、書簡もしくは日記を持っていますか。

答、自分の日記帳の唯一の記録は南京における支那人強姦に関する1名の将校と多分3名の兵の軍法会議に関するものです。

問、日時はいつでしたか、また軍法会議の判決はいかがでしたか。

答、将校は死刑に処せられ、兵は投獄されたと思います。これは自分が犯罪者に対し峻厳なる懲罰を主張した結果です。

 自分は上海にいた当事、本件の報告に接し、そこで日記に記載したものです。

問、貴下はその写しを当方に下さることができるでしょうね。当方のために入手してもらえますか。

答、此の日記を始め自分の記録は全部、焼けてしまいましたが、自分は裁判に付せらるる場合、役に立つだろうと思って、その後の記憶を辿って作った記録が多少あります。自分の家は爆撃のため焼けたのです。

問、それはいつでしたか。

答、8月26日。

 

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↑「A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和21.7.29~昭和21.7.31(第2616~2947頁)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071313000、(国立公文書館 平 11 法務 02234100)

 

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[付箋]21-8-8.(4)

     検察側主張段階

   (支那事変)松井石根

 

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22

P 10104-1 E257

高橋義次(松井石根

問、貴下ノ軍隊ガ南京二於テ幾多ノ暴虐行爲ヲナ
  シタト歐・米ガ考ヘテヰルトイフ事ヲ貴下ガ
  聽イタトスレバ最初ニ聽イタノハ何時デスカ。

答、自分ガ南京入城ヲスルト殆ド同時デス。

問、貴下ガ夫ニ就テ聽イタノデスカ。

答、左様デス。

問、如何ナル筋カラ夫ヲ聽イタノデスカ。

答、日本ノ外交官カラデス。

問、夫ノ日本人外交官トイフノハ誰デスカ。

答、夫ハ極ク下ツ端ノ外交官デ、自分ハソノ名前
  ヲ記憶シテヰマセンガ、南京駐在領事デス。

問、デハ、日本軍ガ南京ヘ接近シタ時、日本領事
  ハ南京ニ居ツタト了解スルガ。

 

答、領事等ハ日本軍ト共ニ入城シタノデス。彼等
  ハ入城ト共ニ治安維持ニ當ル爲、軍ニ行サ
  セラレタノデシタ。

問、「ヴイナツク」トイフ人ガ書イタ「現代極東
  史」ト云フノガアルガ、同氏ハ其ノ中デ、一
  般支那人ガ繩デ束ニ結ヘラレタリ、機關銃デ
  射殺サレタリシ、又 婦人ハ日本兵用ニ淫賣屋
  ニ入レラレタト云ツテ居リ、又 多數ノ一般人
  ガ銃劍デ刺サレタト言ツテヰル。貴下ハ此ノ
  歴史家ガ何處デ此情報ヲ入手シタカ知ツテヰ

 

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10104-2

  マスカ。

答、私ハ存ジマセン。多分支那側カラト思ヒマス。

問、貴下ガ南京入城ヲシタ時、此ノ種ノ話ヲ聽キ
  マシタカ。

答、否。

問、當方ノ記ニ依レバ、貴下ハ外國ノ行政權ヲ
  否定スル公式發言ヲナシテヰマス。余ハ指摘
  ハシナイガ、貴下ハ何カ聲明ヲシタノデスカ。

答、自分ハ調停ヲ拒絶シ又ハ行政權ヲ否定シタコ
  トハアリマセン。事實私ハ上海及南京ニ於テ
  ハ支那避難民救助ノ爲米・英・拂ノ外交官及
  領事等ト協力シタノデス。此ノ種ノ仕事ニ從
  事シテ居ツタ拂蘭西人宣敎師ガ自分ニ救援ヲ
  求メマシタノデ、自分ハソノ仕事ニ對シ一萬
  圓ヲ與ヘテ居リマス。

問、貴下ハ其ノ人ノ名ヲ覺エテヰマスカ。

答、今、記憶シテヰマセンガ、思ヒ出シテ見マセ
  ウ。

問、夫ハ一九三二年(昭和七年)デシタカ一九三
  七年(昭和十二)年デシタカ。

答、一九三七年(昭和十二年)デシタ。

問、南京ノ此ノ情勢ノ爲貴下ハ司令官ノ職ヲ免ゼ
  ラレ二月原大將ト交代シタトイフ文書ガ又此

 

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  處ニアルガ。其ノ通リデスカ。

答、否、夫ハ理由トハナラナイ。自分ノ仕事ハ南
  京デ終了シタト考ヘ、制服ヲ脱イデ平和的業
  務ニ携ハルコトヲ望ンダノデシタ。

問、貴下ハ一萬圓ヲ貴下個人ノ資金カラ拂人宣敎
  師ニ與ヘタト云ハレルノデスカ、ソレトモ夫
  ハ貴方自身ハ勿論ダガ、日本軍 又ハ日本ノ民
  間人カラ徴収シタモノデスカ。

答、夫ハ軍ノ資金デシタ。

問、夫ハ上海周邊ノ支那避難民ノ救濟用ダツタノ
  デスカ。

答、其ノ通リデス。

問、貴下ハ一九三八年(昭和十三年)司令官ノ職
  ヲ交代スル樣要請シタト考ヘテヨイデスネ。

答、左樣デス。當方ノ願ニ依リデス。

問、其ノ請求ハ參謀總長ニ宛テノデスネ。

答、陸軍大臣杉山大將宛デス。

問、夫ハ文書デシタノデスカ。

答、書簡デデス。

問、夫ハ私書カソレトモ公文書デシタカ。

答、半バ私的、半バ公的デシタ。

問、貴下ガ交代スルト同時ニ橋本欽五郎及ビ朝香
  宮鳩彦王並ニ約八十名ノ參謀將校ガ日本ヘ歸

 

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  還サレタト「アーベント」氏ハ述ベテヰル。
  貴下ハ夫ニ關シテ記憶ガアリマスカ、又夫ハ
  本當デスカ。

答、左樣デス。乍然「アーベント」氏ノ推定ハ誤
  デシタ。前記二名ノ將校ト八十名ノ參謀將校
  ノ歸還理由ハ、在南京ノ十個師團ガ約五個師
  團ニ減ゼラレ、其ノ結果 之等將校ガ冗員トナ
  ツタ爲デシタ。南京ニハ二ツノ軍司令部ガア
  リ、之ガ一ツニ減ゼラレタノデス。

問、北支カラ來タ軍トソレカラ上海ニ在ツタ軍ト
  ガアツテ、夫ガ貴下ノ麾下ニ入ツタノダト思
  ヒマスガサウデスカ。

答、此ハ自分ガ日本ヘ歸還ノ後デシタ。

問、上海作戰ト南京占領ノ間ニハ、例ヘバ多分北
  支カラ來タト思フガ第十軍ノ一部ヲ成ス谷将
  軍麾下ノ第六師團ノ樣ナ軍隊ガ若干アツタト
  思フ。サウデスカ。

答、夫ハ上海カラ來タノデス。

問、第六師団ハ貴下ガ南京入城前、貴下ノ麾下ニ
  入リ、ソレカラ第十軍ガ入ツタノダト思フガ。

答、ハイ、其ノ通リデス。

問、南京占領軍ノ軍紀ハ非常ニ悪カツタトイフ責
  任ガ又問ハレテヰル。

 

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答、自分ハ軍紀ハ優秀デアツタト思フガ、行動ハ
  然ラズト思ヒマシタ。

問、兵ニ就テカ。

答、サウデス。

問、夫ハ南京ニ於テデシタネ。

答、サウデス。自分ハ軍ノ中ニ若干不埒ナ分子ガ
  居ツタト思ヒマス。

問、然ラバ貴下ハ、戰斗行動間兵ガ命令ヲ遵守ス
  ル事ト兵ノ勤務下番中、本件ニ於テハ南京占
  領後ノ兵ノ行動トノ間ニ區別ヲナシテヰルト
  思フガ如何。

答、サウデス。

問、所デ、在南京部隊ヲ指揮スル將校ハ、勿論勤
  務上番下番兩方ノ場合ノ兵ノ行動ヲ監督スル
  義務ガアツタ譯デセウ。

答、サウデス。

問、兵ノ行爲ガ悪カツタトイフ見解ヲ何故貴下ハ
  口ニスルノデスカ、貴下ハ何ニ基イテ斯カル
  陳述ヲスルノデスカ。

答、支那民衆ニ對スル兵ノ行爲ト一般行動カラデ
  ス。

問、貴下司令部ヨリ南京占領ニ先立チ一般命令ヲ
  出シマシタカ。豫期セラレタル如キ南京占領

 

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  後ノ兵ノ行動ヲ特ニ取締ル命令ヲ。

答、自分ハ常ニ嚴正ナル軍紀ノ維持ト惡德行爲者
  ノ懲罰ヲ主張シテヰマシタ。自分ハ又南京事
  件ノ充分ナル調査ト外國官吏、外交官トノ協
  力ヲ主張シ、之ヲ實行シマシタ。

問、貴下ハ本件ヲ調査シタ外國ノ外交官ノ誰カノ
  名前ヲ擧ゲルコトガ出來マスカ。

答、一人ハ日本大使館ノ日高氏デアツタ。當時外
  國ノ外交官ハ南京ニ居タノデスカラ、私ハ其
  ノ名前ヲ記憶シテヰマセン。

問、貴下ハ之等 外國ノ外交官ノ誰カト個人的ニ會
  談シマシタカ。

答、否、南京デハシマセンデシタ。

問、後ニナツテ誰カト會談シマシタカ。

答、自分ハ十七日ニ南京ニ入城、一週間後上海ヘ
  歸ツタノデス。自分ハ米・英ノ司令官及提督、
  又伊、拂ノ大使ト平和裡ニ事ヲ解決スル爲會
  談シマシタ。

  ・・・・・・・・・・・・・・

問、南京入城ノ部隊及ビ十二月十三、十四、十五、
  十六日ニ南京ニ居タ部隊ハ新規ノ部隊デアツ
  タノカ、ソレトモ其ノ部隊ハ精鋭デアリ、

 

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  ソシテ經驗アル將校ノ統率スルモノデアツタ
  ノデスカ、ソレトモサウデハナカツタノデス
  カ。

答、部隊ハ凡テ經驗アル者ノ指揮スル經驗アル部
  隊デシタ。

問、貴下ハ之等部隊ヲ曾ツテ指揮シタコトガアリ
  マシタカ。

答、否。

問、貴下ハ之等軍隊ガ其ノ時迄支那ニ於テ勤務下
  番中惡イ行動ヲナシタトイフコトヲ聽イタコ
  トガアリマシタカ。

答、否。此ノ軍ハ日本カラ來タ新編成部隊デシタ
  ガ、多クノ經驗アル老練兵デ編成サレテ居マ
  シタ。之等ノ部隊ガ支那ノ何所デデモ非道ナ
  行動ヲトツタトハ聽キマセンデシタ。

問、然ラバ滿洲デハ。

答、否。

問、部隊ノ一部ハ上海周邊ノ作戰ニ參加シテ居リ、
  又北支カラ來タ部隊ハ北平天津周邊デ前哨戰
  ニ參加シテ居ツタトイフガ、ソノ通リデスカ。

答、一個師團ハ北平、天津地方カラ來マシタ。

問、朝香中將宮ハ最初ニ南京入城ヲシタ軍ノ一部
  ヲ監督スベキ野戰指揮官デアツタト言ハレテ

 

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  ヰル。 朝香宮ガ斯カル位置ニ在ツタコトハ本
  當デスカ。

答、サウデス。夫ハ本當デス。

問、デ、朝香宮明治天皇ノ息女ト結婚ナサレテ
  ヰルノデスネ。

答、ハイ、其ノ通リデス。

問、朝香宮南京事件ニ對シ重大責任ガアルガ、
  皇族關係ノ爲、殆ドト云フカ、全然ト云フカ、
  夫ニ就テ彼是言ハレナカツタノダト言フ人ガ
  アルガ、サウカネ。

答、否。自分ハサウハ思ヒマセン。朝香宮ハ南京
  入城ノ僅カ十日前ニ部隊ニ入ラレタノデアツ
  テ、本部隊ニ關係シテカラ短時日デアツタノ
  ニ鑑ミテ、自分ハ朝香宮ガ責任ガアルトハ思
  ヒマセン。師團長ガ責任ノ當事者デアルト自
  分ハ言ヒタイデス。

  ・・・・・・・・・・・・・・・

問、貴下ハ十七日ニ南京入城ヲシタト陳述シテヰ
  ルガ、貴下ハ一般人ナリ、婦人ナリ、子供ナ
  リノ死骸ヲ見マシタカ。何カ其ノ樣ナモノヲ。

答、夫等ノモノハ入城迄ニ全部片付ケラレテアリ
  マシタ。自分ハ西門間近デ二三ノ支那兵ノ死
  骸ヲ見マシタ。

 

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問、数十萬人ノ非戰斗員ガ殺害サレ、十三日ノ占
  領直後南京ハ火災ト掠奪ニ逢ツタト、支那
  爭犯罪調査委員會ハ言ツテヰル。貴下ノ陳述
  以外ニ南京ガ占領ニ際シ、酷イ處置ヲ受ケタ
  トイフ證據ガ他ニ何カアリマシタカ。

答、夫ハ絶對ニ間違ツテヰマス。斯カル罪狀ニ對
  スル理由ハ絶對ニアリマセン。自分ハ名誉ニ
  誓ツテ之ヲ陳述クルコトガ出來マス。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問、南京占領後 最初ニ「ハレツト・アーベント」
  ニ逢ツタノハ何時デスカ。

答、自分ハ支那デ彼ニ逢ヒマシタ。自分ハ南京入
  城 多分 一ヶ月後ニ初メテ「アーベント」氏ニ
  逢ツタト思ヒマス。

問、「アーベント」氏ガ會見ヲ申込ンデ會見シタ
  ノデスカ。

答、否、自分ハ風評ヲ聽イテ居リ、又「アーベン
  ト」氏ノ前デ事實ヲ述ベ風評ヲ打消シタイト
  思ヒマシタノデ、當方カラ會見ヲ求メマシタ。

問、貴下ト「アーベント」氏ハ何に就テ語リ又 何
  ヲ話シマシタカ。

答、自分ハ南京ニ於ケル外國權益ノ尊重ニ關スル
  自分ノ見解ヲ「アーベント」氏ニ説明シマシ

 

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  タ。又中立國ノ財產利權ニ損害ヲ及ボサヌト
  イフ自分ノ希望ヲ説明シマシタ。尚自分ハ平
  和ヲ達成シ、又戰斗ヲ中止シタ支那軍ニ對シ
  テハ友情ノ手ヲ差延ベルコトガ、自分ノ希望
  デアルガ、抗戰ヲ繼續スル支那軍ヲ膺懲スル
  コトハ自分ノ義務デアルコトヲ述ベマシタ。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問、二月貴下ガ日本ヘ歸還シテ後、參謀總長ナリ、
  陸軍大臣ナリ又ハ其他ノ者ナリカラ、南京ニ
  於ル貴下部隊ノ行動ニ關スル報告ヲ要求サレ
  マシタカ。

答、自分ハ東京ヘ歸還後直チニ豫備役ニ編入セラ
  レタノデ、シツカリシタ事ハ分リマセンガ、
  調査ヤ報告ガアツタニ違ヒナイト思ヒマス。

問、貴下ハ南京ニ於ル部隊ノ行動ニ關スル此ノ風
  評ニ付報告ヲ要求セラレ又ハ訊問セラレマシ
  タカ。

答、否。自分ハ報告ヲスルコトハ要求セラレマセ
  ンデシタ。万一斯カル事件ガ苟モアツタナラ、
  自分ハ自分ノ責任ニ於テ當然報告ヲナシタコ
  トデセウ。若シ貴下ガ報告書ヲ求メルナラ夫
  ハ復員局ニアル筈デス。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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問、貴下ハ一九三六年(昭和十一年)及ビ一九三
  七年(昭和十ニ年)中ノ南京及ビ上海ニ於ケ
  ル貴下ノ行動ヲ示ス書類、書簡 若クハ日記ヲ
  持ツテヰマスカ。

答、自分ノ日記帳ノ唯一ノ記録ハ南京ニ於ル支那
  人强姦ニ關スル一名ノ將校ト多分三名ノ兵ノ
  軍法会議ニ關スルモノデス。

問、日時ハ何時デシタカ、又 軍法会議ノ判決ハ如
  何デシタカ。

答、將校ハ死刑ニ處セラレ、兵ハ投獄サレタト思
  ヒマス。之ハ自分ガ犯罪者ニ對シ峻嚴ナル懲
  罰ヲ主張シタ結果デス。

  自分ハ上海ニ居タ當事、本件ノ報告ニ接シ、
  其處デ日記ニ記載シタモノデス。

問、貴下ハ其ノ冩ヲ當方ニ下サルコトガ出來ルデ
  セウネ。當方ノ爲ニ入手シテモラヘマスカ。

答、此ノ日記ヲ始メ自分ノ記録ハ全部 燒ケテシマ
  ヒマシタガ、自分ハ裁判ニ附セラルヽ場合、
  役ニ立ツダラウト思ツテ其ノ後ノ記憶ヲ辿ツ
  テ作ツタ記録ガ多少アリマス。自分ノ家ハ爆
  撃ノ爲 燒ケタノデス。

問、夫ハ何時デシタカ。

答、八月二十六日。

 

↑「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.13)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071276500、A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.13)(国立公文書館 平 11 法務 02053100)