Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

「士は従前の士にあらず、民は従前の民にあらず、均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道ももとよりその別なかるべし。およそ天地の間、一事一物として税あらざるはなし。もつて国、用に充つ。しからば則ち人たるもの、もとより心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西人これを血税といふ。 その生血をもつて国に報ずるの謂ひなり。」 徴兵告諭 1872.11.28

別冊原稿は点竄詳らかならず、かつ大輔持参、差出し、別に上陳の書なし。また十一月二十八日御指令文を見るに、徴兵令そのほか四冊とこれあり候へども、陸軍省記録も残闕、全く備はらずと云ひ、考るべし。

  【徴兵令】

朕、惟んみるに古昔、郡県の制、全国の丁壮を募り軍団を設け国家を保護す。固より兵農の分かれなし。中世以降、兵権武門に帰し、兵農始めて分かれ、遂に封建の治をなす。戊辰の一新は実にニ千有余年来の一大変革なり。この際に当たり海陸兵制もまた時に従ひ宜を制せざるべからず。今、本邦古昔の制に基づき、海外各国の式を斟酌し、全国募兵の法を設け、国家保護の基を立てんと欲す。汝、百官有司、厚く朕が意を体し、普くこれを全国に告諭せよ。

明治五年壬申十一月二十八日

 

  徴兵告諭

我朝上古の制、海内挙げて兵ならざるはなし。有事の日、天子これが元帥となり、丁壮、兵役に堪ゆる者を募り、もつて不服を征す。役を解き家に帰れば農たり、工たり、また商売たり。もとより後世の双刀を帯び武士と称し抗顔坐食し、甚しきに至つては人を殺し、官その罪を問はざる者のごときにあらず。 そもそも神武天皇珍彦をもつて葛城の國造となせしより、爾後、軍団を設け衛士·防人の制を定め、神亀·天平の際に至り六府二鎮の設け始めて備はる。保元·平治以後、朝綱頽弛、兵権ついに武門の手に墜ち、国は封建の勢ひをなし、人は兵農の別をなす。降つて後世に至り名分全く泯沒し、その弊、勝って言ふべからず。しかるに大政維新、列藩、版図を奉還し、辛未の歳に及び遠く郡県ね古に復す。世襲坐食の士はその禄を減じ刀剣を脱するを許し、四民やうやく自由の権利を得せしめんとす。これ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。ここにおいて士は従前の士にあらず、民は従前の民にあらず、均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道ももとよりその別なかるべし。およそ天地の間、一事一物として税あらざるはなし。もつて国、用に充つ。しからば則ち人たるもの、もとより心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西人これを血税といふ。 その生血をもつて国に報ずるの謂ひなり。かつ国家に災害あれば人々その災害の一部を受けざるを得ず。これ故に人々心力を尽くし国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。いやしくも国あれば則ち兵備あり、兵備あめば則ち人々その役に就かざるを得ず。これによつてこれを観れば、民兵の法たる、もとより天然の理にして、偶然作為の法にあらず。しかりしこうしてその制のごときは古今を斟酌し、時と宜を制せざるべからず。西洋諸国、数百年來、研究実践、もつて兵制を定む。故をもつてその法、極めて精密なり。然れども政体地理の異なる、ことごとくこれを用ふべからず。故に今その長ずる所を取り古昔の軍制を補ひ海陸二軍を備ヘ、全国四民男児二十歳に至る者はことごとく兵籍に編入し、もつて緩急の用に備ふべし。郷長、里正、厚くこの御趣意を奉じ、徴兵令により民庶を説諭し、国家保護の大本を知らしむべきものなり。

 明治五年壬申十一月二十八日 太政官


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別冊原稿ハ點竄 詳ナラス 且 大輔持参 差出シ 別ニ上陳ノ書ナシ 又 十一月廿八日御指令文ヲ見ルニ 徴兵令其外四冊ト有之候得共 陸軍省記録モ残闕 全ク備ラスト云 可考

  【徴兵令】

朕 惟ルニ 古昔 郡縣ノ制 全國ノ丁壯ヲ募リ軍團ヲ設ケ 國家ヲ保護ス 固ヨリ兵農ノ分ナシ 中世以降 兵權 武門ニ歸シ 兵農 始メテ分レ 遂ニ封建ノ治ヲ為ス 戊辰ノ一新ハ實ニ千有餘年来ノ一大變革ナリ 此際ニ當リ海陸兵制モ亦 時ニ従ヒ冝ヲ制セサルヘカラス 今 本邦古昔ノ制ニ基キ 海外各國ノ式ヲ斟酌シ 全國募兵ノ法ヲ設ケ 國家保護ノ基ヲ立ント欲ス 汝 百官有司 厚ク朕カ意ヲ體シ 普ク之ヲ全國ニ告諭セヨ

明治五年 壬申 十一月廿八日

 

  徴兵告諭

我朝上古ノ制 海内擧テ兵ナラサルハナシ有事ノ日 天子 之カ元帥トナリ 丁壯 兵役ニ堪ユル者ヲ募リ 以テ不服ヲ征ス 役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ 工タリ 又 商賈タリ 固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ 武士ト稱シ 抗顔坐食シ 甚シキニ至テハ人ヲ殺シ 官 其罪ヲ問ハサル者ノ如キニアラス 抑 神武天皇 珍彦ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ 爾後 軍團ヲ設ケ 衛士 防人ノ制ヲ定メ 神龜 天平ノ際ニ至リ六府二鎭ノ設ケ始テ備ル 保元 平治以後 朝綱頽弛 兵權 終ニ武門ノ手ニ墜チ 國ハ封建ノ勢ヲ為シ 人ハ兵農ノ別ヲ爲ス 降テ後世ニ至リ名分 全ク泯沒シ 其弊 勝テ言フ可カラス 然ルニ大政維新 列藩 版圖ヲ奉還シ 辛未ノ歳ニ及ヒ遠ク郡縣ノ古ニ復ス 世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ刀劔ヲ脱スルヲ許シ 四民 漸ク自由ノ権利ヲ得セシメントス
是レ上下ヲ平均シ人權ヲ齊一ニスル道ニシテ 即チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ 是ニ於テ士ハ從前ノ士ニ非ス 民ハ從前ノ民ニアラス 均シク皇國一般ノ民ニシテ 國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ 凡ソ天地ノ間 一事一物トシテ税アラサルハナシ 以テ國 用ニ充ツ 然ラハ則チ人タルモノ 固ヲリ心力ヲ盡シ國ニ報セサルヘカラス 西人 之ヲ血税ト云フ 其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ 且ツ國家ニ災害アレハ 人々 其災害ノ一部ヲ受サルヲ得ス 是故ニ人々 心力ヲ盡シ國家ノ災害ヲ防クハ 則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ 苟モ國アレハ則チ兵備アリ 兵備アレハ則チ人々 其役ニ就カサルヲ得ス 是ニ由テ是ヲ觀レハ 民兵ノ法タル 固ヨリ天然ノ理ニシテ 偶然作為ノ法ニアラス 然リ而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ 時ト冝ヲ制セサル可カラス 西洋諸國 數百年來 研究實踐 以テ兵制ヲ定ム 故ヲ以テ其法 極メテ精密ナリ 然レトモ政體地理ノ異ナル 悉ク之ヲ用フ可カラス 故ニ今 其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ 海陸二軍ヲ備ヘ 全國四民男兒 二十歳ニ至ル者ハ盡ク兵籍ニ編入シ 以テ緩急ノ用ニ備フヘシ 郷長 里正 厚ク此御趣意ヲ奉シ 徴兵令ニ依リ民庶ヲ説諭シ 國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也

 明治五年 壬申 十一月廿八日 太政官

 

↑徴兵令並近衛兵編成兵額等伺より
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000082286