一
第一号 【金井】
雲揚艦より電信の義に付上申
雲揚艦の義、先般来、朝鮮国東南海岸測量として航海申し付け、同海岸測量ほぼ相済み候ふ末、なほまた西海岸より支那海牛荘辺まで測量として航海申し付け置き候ふ処、今般、別紙の通り同艦長井上少佐より電報これあり候ふ条、取り敢へず御届申し上げ、なお早々帰京致し、委細事実申し出候ふ様、電信を以て申し遣はし置き候ふ条、同人帰京の上、委細上陳仕るべく候ふ。この段上申仕り候ふ也。
明治八年九月二十八日
海軍大輔 川村純義
朝鮮興化島(釜山を離るること陸地直径九十里、京城の河口にある離島なり)え二十日到着、端舟を卸し測量せし処へ、彼より大砲、小銃を暴発したり。何故砲発せしか上陸訊問すれども、彼砲発励しき故、止むを得ず当艦より大砲小銃を発し上陸、彼の大砲三十八、その外小銃品々持帰る。城は焼失。手負水夫二人。一人は療治叶はず。電信にては委細申し出難し、故に米国郵船より帰京して上申致したきに付、大至急御司令下さるべく候ふ。
九月二十八日午前十一時二十五分 長崎
雲揚艦長
井上海軍少佐
河部海軍大輔殿
明治八年送達紙
すべて電信を頼み出るものは通信規則の通り心得べき事。【日本橋電信局印】
発局 官報/第七十二号/長崎局/九月二十八日/午後七時二十五分/字数二百二十一字
着局 第八十四号/日本橋局/九月二十八日
技術 松田
届 太政大臣 三条実美殿
出 長﨑県令 宮川房之
我が雲揚艦、朝鮮開化の都へ通るソヲル河、去る二十日発、偵邏にて測量の折、彼れ台場より砲発、遂に戦いとなり、翌二十一日未明、本艦を進め陸戦となり、台場を乗り取り、砦、人家を焼き払い、彼れ敗走離散す。因つて海軍少佐井上、彼の地引き揚げ今日入港す。釜山にて森山未だ知らざる故、押し切り漁船にて報知せり。春日艦修覆出来、今日、試み乗りあり。右申し上ぐる。
一
㐧一号 【金井】
雲揚艦ヨリ電信ノ義ニ付上申
雲揚艦ノ義先般来朝鮮國东南海岸測
量トシテ航海申付同海岸測量粗相濟候末
尚又西海岸ヨリ支那海牛荘邊マテ測量
トシテ航海申付置候處今般別紙之通同艦
長井上少佐ヨリ電報有之候条不取敢御届
申上猶早〻帰京致シ委細事実申出
候様電信ヲ以申遣置候条同人帰京之上委
細上陳可仕候此段上申仕候也
明治八年九月二十九日 海軍大輔川村純義
太政大臣三條実美殿
朝鮮興化島 釜山ヲ離ルヽコト陸地直径九十里
京城ノ河口ニアル離島ナリ 江二十日到着
端舟ヲ卸シ測量セシ處ヘ彼ヨリ大砲小銃ヲ暴
發シタリ 何故砲發セシカ上陸訊問スレトモ
彼砲發励シキ故不得止當艦ヨリ大砲小銃ヲ
發シ上陸 彼ノ大砲三拾八其外小銃品々持帰ル
城ハ燒失 手負水夫二人 一人ハ療治不叶 電信ニテハ
委細申出難シ 故ニ米國郵舩ヨリ帰京シテ上申
致度ニ付 大至急御司令可ヒ [被] 下ヽ [候]
九月廿八日午前十一時廿五分 長崎
雲揚艦長
井上海軍少佐
河邨海軍大輔殿
明治八年送達紙
スベテ電信ヲ頼ミ出
ルモノハ通信規則ノ
通リ心得ベキ事
【日本𣘺電信局印】
發局 官報/第七十二號/長嵜局/九月廿八日/午後七時二十五分/字数二百二十一字
着局 第八十四号/日本橋局/九月廿八日
技術 松田
ワガウンヨウカンチヨ
ウセンカイカノミヤコ
ヘトヲルソヲルガワサ
ルハツカハツテイラニ
テソクリヨウノオリカ
レダイバヨリホウハツ
ツイニタタカイトナリ
ヨクニジウイチニチミ
メイホンカンヲススメ
リクセントナリダイバ
ワガ雲揚艦。朝鮮。カイカノミヤコヘ。トオル、ソヲルガワ。サル廿日ハツテイラニテ測量ノ、折、彼レ、臺場、ヨリ、砲發、遂ニ戰イトナリ、翌、二十一日、未明。本艦ヲ。進メ、陸戰トナリ、臺場、
ヲノリトリトリテジン
カヲヤキハライカレハ
イソウリサンスヨツテ
カイグンシヨウサイノ
ウヘカノチヒキアゲコ
ンニチニウコウスフサ
ンニテモリヤマイマダ
シラザルユヘヲシキリ
ギヨセンニテホウチセ
リカスガカンシフクデ
ヲ、乗リ取リ、砦、人家ヲ、焚キ拂イ、彼レ、敗赱、離散ス、因ツテ、海軍、少佐、井上、彼ノ地引キ揚ゲ、今日入港ス、釜山ニテ、森山、未ダ、知ラザル故、押シ切リ漁舩ニテ、報知、セリ、春日、艦、修覆、出
キコンニチココロミノ
リアリミギモウシアグ
ル
来、今日、試ミ乗リアリ、右申シ上グル
↑https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A03023622800
公文別録・朝鮮江華島砲撃始末・明治八年・第一巻・明治八年
海軍省并ニ長崎県ヨリ雲揚艦牛荘ニ向ケ駛往シ朝鮮国江華島ニ在テ韓人俄カニ砲撃ノ旨ヲ報ス・二条
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023622800、(国立公文書館)