Ob-La-Di Oblako 文庫

帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象と其対策(戦場心理の研究各論)」より「七、便衣隊と正規兵」 1937.11~1939.11 

     七、便衣隊と正規兵

 便衣隊への警戒心は実に盛んなものだった。都市と言わず村落と言わず、何処でも何時其の襲撃を受けるかも知れないという考えが強く浸み込んで居た。私も南京の行軍の路上に遺棄したる沢山の敵屍体を見て、便衣か正規かを興味を以て眺めた。路上に制服をも弾丸をもすててあるのをみると、是は正規が便衣に衣換をなし土民の中へ入った跡であると知った。是が実に夥しく発見された。故に避難民の中にはどの位変装した正規兵が居るかわからない。為めに単独では昼夜共に避難民区へ立ち入りを禁ぜられた。私が南京へ着いた頃は陥落後未だ一週間に過ぎぬから、捕虜の整理の真最中であったが、それに引きつづき避難民中から正規兵を検出して処理するに忙しい状景を眺め、慄然たる所があった。彼等が武器を持てば即ち便衣というわけである。
 徴発に行っても占拠地から二里も入った所には便衣が居るために、兵器を携えつつ多勢で行かぬと危険がある。所が武勇者を気取って寡勢で立ち入り、行衛不明になった例を屡々耳にした。少人数と見たら襲撃して来るのが彼等の習慣である。よく話題になったのは、兵器のない特務兵が此の犠牲になったと見えて徴発に行ったまま帰って来ぬのである。是等の関係から後には特務兵の部隊にも兵器が渡されたのである。
 如此兵の頭からは支那部落に入れば正規兵の便衣を着たものが必ず存在するという観念が離れぬから、是に対する警戒は怠らぬけれども、然らば何で是を見つけるかと言えば、是は到底不可能である。為めに人見違をして無辜の良民へ対して危害を加えて問題を惹起する様なことも起り勝ちで、誠に困ったものであった
 其処で正規兵とか便衣隊とかの印象が神経病や精神病の症状の中に織り込まれることがあり、次の様な例がある
 ある兵は感冒(インフルエンザ?)後に頑固な不眠症と共に食思不振あり衰弱を来して入院した。ある日、揚子江岸に出て散歩してると自分の行手に七人の正規兵があらわれ、江岸に向って走って行くのを見た。何処へ行くかと眺めてると、皆相次いで揚子江へ飛び込んで了った。其の時にボチャンという音迄きこえたが、其れから如何なったかわからないと私に話をした。私は兵に向つて、それは夢だったろうと言っても、何としても事実だと言ってきかない。其の当時、南京対岸の浦口に予備病院があり、庭伝いに揚子江へは浦口の町を通って行っても十分位のだったから、或は患者は散歩に出たとも考えられる。此の患者は正規兵の外にカンカン帽子をかぶった支那人腕車に乗って通るのも見た。而も二日つづいて見たという。亦夜になって病室へ支那人が数人あらわれ、患者を接待したり便所へ行くと二人の支那人が表れるとも言うた。
 私は其の解釈に苦しんだが、其の当時の模様を戦場のこと故行ってきくわけにも行かず、病床日誌の記事と本人の談話とをてり合せて判断を下すより仕方がなかった。暫く観察してる間に、此の兵は非常に気分にむらがあり、神経質で自分の身体の違和を棒大に訴えるし、亦暗示もよくきくが亦元へ帰り易い。そして年齢も進んで居て望郷の念切りであった。次第に快くなると共に元気も出て、病気のために前記の様な光景が見えたのだという事を納得することになった。
 私はヒステリーの朦朧状態に於ける幻視と解釈をした。
 当時の病院付近の状況から考えて正規兵、腕車、支那婦人等は絶対に居らなかったから、此の兵が南京迄進出した迄に得た経験が幻視のなかにあらわれたものと考えられる。
 或る兵は自動車運転手として上海の某部隊に勤務し、未だ灯火管制のやかましかった頃のこととて、夜間将校を乗せつつ歩く時等は非常に便衣隊の出没を警戒した。運転台の座席には常に安全装置をはずした拳銃が置かれてあった。
 此の兵は或る日、親しい友人と共に上海日本人町に出掛け、某カフェーにて酌みかわし、夜半に及び店の者にうながされつつ店を立ち出たが、外は鼻をつままるるも解らぬ暗で、完全な灯火管制であった。戦友は歩もとも乱れつつ彼の後から来たのだが、酔うてる彼は其の事は頭にあるはずはない。戦友が突然に後ろから彼にもたれかかった時、彼は即座に戦友を背負投げを以て倒し、銃剣を抜き放って頬と言わず胸と言わず腹に至る迄、滅多突きをして遂に死に至らしめた。軍法会議の結果は、其の行為が余りに残虐的であるので精神病があったのではないかとの疑いのもとに精神鑑定の必要を生じた。鑑定命令が南京に居った私へ来た。
 詳細に診査の結果、此の兵には生来幾度か寝ぼける癖があり、是が酩酊状態に於て起って、便衣隊襲撃と誤認して如此行為に及んだものと判定を下した。
 ある兵は鶏の徴発の目的で戦友一人を伴って支那部落へ入って行った。出掛る時に飲んだ支那酒は次第にまわって来て、部落に着いた頃には相当に酩酊をして居った彼は、友と別れて単身で入って行くと、村人の中に正規兵の上被を着た男が混って一人居るのを見て、村人に向って此の中に支那正規兵は居ないかと問うたが居らないと言われた。尚も彼は屋内を探す為めに入ろうとすると支那人に遮られ、其の時に手に擦過傷を負うた。是が為めに怒って矢鱈に村人を射殺し、或は重症を負わせ、其の数 人に及んだ。彼の弁ずる所では、村の入口にて銃声をききし故に確かに支那兵が居ると信じて村落へ入って行ったのだと。彼は平然として村を離れ、戦友と合し、連れ立ちて鶏を探しに山の方へ道をとりしに、トウチカから射撃を受けたので是に向って応戦して、丘へ達して見ると正規兵が山奥へ逃げ行く姿を見たと言うのである。どーも正規兵云々は私には信ぜられなかった。彼は残虐な性格を持つ軽症低能者であった。


     七、便衣隊ト正規兵
便衣隊ヘノ警戒心ハ実ニ盛ンナモノダッタ  都市ト言ハズ村|落ト言ハズ 何䖏デモ何時其ノ襲擊ヲ受ケルカモ知レナイトイフ考|ガ強ク浸ミ込ンデ居タ  私モ南京ノ行軍ノ路上ニ遺棄シタル|沢山ノ敵屍体ヲ見テ便衣カ正規カヲ興味ヲ以テ眺メタ  路上ニ|制服ヲモ彈丸ヲモステヽアルノヲミルト 是ハ正規ガ便衣ニ衣換ヲナ|シ土民ノ中ヘ入ツタ跡デアルト知ツタ  是ガ実ニ夥シク発見サレタ|故ニ避難民ノ中ニハドノ位タ正規兵ガ居ルカワカラナイ  爲メニ|単獨デハ晝夜共ニ避難民區ヘ立チ入リヲ禁ゼラレタ、私ガ南京ヘ着イタ頃ハ陥落後未ダ一週閒ニ過ギヌカラ、捕虜ノ整理ノ眞最中|デアツタガ ソレニ引キツヾキ避難民中カラ正規兵ヲ検査出シテ䖏理スルニ忙シイ状景ヲ眺メ 慄然タル所ガアッタ、彼等ガ武器ヲ持テバ即チ便衣トイウワケデアル、
徵發ニ行ツテモ占據地カラ二里モ入ッタ所ニハ便衣ガ居ル  タメニ兵器ヲ

携エツヽ多勢デ行カヌト危險ガアル。所ガ武勇者ヲ氣取ッテ寡勢デ立チ入リ、行衞不明ニナッタ例ヲ屡々耳ニシタ。少人數ト見タラ襲擊シテ來ルノガ彼等ノ習慣デアル。ヨク話題ニナッタノハ、兵器ノナイ特務兵ガ此ノ犧牲ニナッタト見エテ徵發ニ行ッタママ歸ッテ來ヌノデアル。是等ノ關係カラ後ニハ特務兵ノ部隊ニモ兵器ガ渡サレタノデアル
如此兵ノ頭カラハ支那部落ニ入レバ正規兵ノ便衣ヲ着タモノガ必ズ存在スルトイウ觀念ガ離レヌカラ、是ニ對スル警戒ハ怠ラヌケレドモ、然ラバ何デ是ヲ見ツケルカト言エバ、是ハ到底不可能デアル。爲メニ人見違ヲシテ無辜ノ良民ヘ對シテ危害ヲ加エテ問題ヲ惹起スル樣ナコトモ起リ勝チデ、誠ニ困ッタモノデアッタ
其處デ正規兵トカ便衣隊トカノ印象ガ神經病ヤ精神病ノ症狀ノ中ニ織リ込マレルコトガアリ、次ノ樣ナ例ガアル
アル兵ハ感冒(インフルエンザ?)後ニ頑固ナ不眠症ト共ニ食思不振アリ衰弱ヲ來シテ入院シタ。アル日、揚子江岸ニ出テ散步シテルト自分ノ行手ニ七人ノ正規兵ガアラワレ、江岸ニ向ッテ走ッテ行クノヲ見タ。何處ヘ行クカト眺メテルト、皆相次イデ揚子江ヘ飛ビ込ンデ了ッタ。其ノ時ニボチャントイウ音迄キコエタガ、其レカラ如何ナッタカワカラナイト私ニ話ヲシタ。私ハ兵ニ向ツテ、ソレハ夢ダッタロウト言ッテモ、何トシテモ事實ダト言ッテキカナイ。其ノ當時、南京對岸ノ浦口ニ豫備病院ガアリ、庭傳イニ揚子江ヘハ浦口ノ町ヲ通ッテ行ッテモ十分位ノダッタカラ、或ハ患者ハ散步ニ出タトモ考エラレル。此ノ患者ハ正規兵ノ外ニカンカン帽子ヲカブッタ支那人腕車ニ乘ッテ通ルノモ見タ。而モ二日ツヅイテ見タトイウ。亦夜ニナッテ病室ヘ支那人ガ數人アラワレ、患者ヲ接待シタリ便所ヘ行クト二人ノ支那人ガ表レルトモ言ウタ
私ハ其ノ解釋ニ苦シンダガ、其ノ當時ノ模樣ヲ戰場ノコト故行ッテキクワケニモ行カズ、病床日誌ノ記事ト本人ノ談話トヲテリ合セテ判斷ヲ下スヨリ仕方ガナカッタ。暫ク觀察シテル閒ニ、此ノ兵ハ非常ニ氣分ニムラガアリ、神經質デ自分ノ身體ノ違和ヲ棒大ニ訴エルシ、亦暗示モヨクキクガ亦元ヘ歸リ易イ。ソシテ年齡モ進ンデ居テ望鄕ノ念切リデアッタ。次第ニ快クナルト共ニ元氣モ出テ、病氣ノタメニ前記ノ樣ナ光景ガ見エタノダトイウ事ヲ納得スルコトニナッタ
私ハヒステリーノ朦朧狀態ニ於ケル幻視ト解釋ヲシタ
當時ノ病院付近ノ狀況カラ考エテ正規兵、腕車、支那婦人等ハ絕對ニ居ラナカッタカラ、此ノ兵ガ南京迄進出シタ迄ニ得タ經驗ガ幻視ノナカニアラワレタモノト考エラレル
あ或ル兵ハ自動車運轉手トシテ上海ノ某部隊ニ勤務シ、未ダ燈火管制ノヤカマシカッタ頃ノコトトテ、夜閒將校ヲ乘セツツ步ク時等ハ非常ニ便衣隊ノ出沒ヲ警戒シタ。運轉臺ノ座席ニハ常ニ安全裝置ヲハズシタ拳銃ガ置カレテアッタ
此ノ兵ハ或ル日、親シイ友人ト共ニ上海日本人町ニ出掛ケ、某カフェーニテ酌ミカワシ、夜半ニ及ビ店ノ者ニウナガサレツツ店ヲ立チ出タガ、外ハ鼻ヲツママルルモ解ラヌ暗デ、完全ナ燈火管制デアッタ。戰友ハ步モトモ亂レツツ彼ノ後カラ來タノダガ、醉ウテル彼ハ其ノ事ハ頭ニアルハズハナイ。戰友ガ突然ニ後ロカラ彼ニモタレカカッタ時、彼ハ卽座ニ戰友ヲ背負投ゲヲ以テ倒シ、銃劍ヲ拔キ放ッテ頬ト言ワズ胸ト言ワズ腹ニ至ル迄、滅多突キヲシテ遂ニ死ニ至ラシメタ。軍法會議ノ結果ハ、其ノ行爲ガ餘リニ殘虐的デアルノデ精神病ガアッタノデハナイカトノ疑イノモトニ精神鑑定ノ必要ヲ生ジタ。鑑定命令ガ南京ニ居ッタ私ヘ來タ
詳細ニ診査ノ結果、此ノ兵ニハ生來幾度カ寢ボケル癖ガアリ、是ガ酩酊狀態ニ於テ起ッテ、便衣隊襲擊ト誤認シテ如此行爲ニ及ンダモノト判定ヲ下シタ
アル兵ハ鷄ノ徵發ノ目的デ戰友一人ヲ伴ッテ支那部落ヘ入ッテ行ッタ。出掛ル時ニ飮ンダ支那酒ハ次第ニマワッテ來テ、部落ニ着イタ頃ニハ相當ニ酩酊ヲシテ居ッタ彼ハ、友ト別レテ單身デ入ッテ行クト、村人ノ中ニ正規兵ノ上被ヲ着タ男ガ混ッテ一人居ルノヲ見テ、村人ニ向ッテ此ノ中ニ支那正規兵ハ居ナイカト問ウタガ居ラナイト言ワレタ。尙モ彼ハ屋內ヲ探ス爲メニ入ロウトスルト支那人ニ遮ラレ、其ノ時ニ手ニ擦過傷ヲ負ウタ。是ガ爲メニ怒ッテ矢鱈ニ村人ヲ射殺シ、或ハ重症ヲ負ワセ、其ノ數 人ニ及ンダ。彼ノ辯ズル所デハ、村ノ入口ニテ銃聲ヲキキシ故ニ確カニ支那兵ガ居ルト信ジテ村落ヘ入ッテ行ッタノダト。彼ハ平然トシテ村ヲ離レ、戰友ト合シ、連レ立チテ鷄ヲ探シニ山ノ方ヘ道ヲトリシニ、トウチカカラ射擊ヲ受ケタノデ是ニ向ッテ應戰シテ、丘ヘ達シテ見ルト正規兵ガ山奧ヘ逃ゲ行ク姿ヲ見タト言ウノデアル。ドーモ正規兵云々ハ私ニハ信ゼラレナカッタ。彼ハ殘虐ナ性格ヲ持ツ輕症低能者デアッタ。

↑早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象と其対策(戦場心理の研究各論)」

不二出版 十五年戦争極秘資料集 補巻32『戦場心理の研究』第1冊 p.139~p.144