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帝国日本の侵掠戦争と植民地支配、人権蹂躙を記憶し、再現を許さないために、ひたすら文書資料を書き取る。姉妹ブログ「歴史を忘れる民族に未来はない!」https://obladioblako.hateblo.jp/ のデータ·ベースを兼ねる。

芳井研一「東亜新秩序声明の脈絡」

東亜新秩序声明の脈絡

              芳井研一

 はじめに

一 「国民政府を対手にせず」声明

 1.トラウトマン工作

 2.「対手にせず」声明

二 日支新関係調整方針と東亜新秩序声明

 1.日支新関係調整方針の作成

 2.陸軍

 3.大亜細亜主義

 陸軍の人脈のなかでとりわけ大亜細亜主義論の信奉者だったのは松井石根である。松井は1933年月に発足した大亜細亜協会の会頭でもあった (46) 。中支那方面軍司令官を解任されて帰国後大川周明と接点をもった松井石根は,1938年7月に近衛内閣の内閣参議に就任し首相に直言出来る立場にいた。近衛文書中の「五相会議決定」の付箋には,松井の詳細なコメントがついているので,その考え方を逐次追うことが出来る (47)

 そもそも五相会議は,1月の近衛声明にいたる対外政策決定が大本営大本営政府連絡会議,御前会議にふりまわされ,内閣独自の指導性が発揮できなかったという反省から,内閣側のヘゲモニーを奪回するために企図されたものであった (48) 。まず6月24日の五相会議決定「今後の支那事変指導方針」は「本年中に戦争目的を達成することを前提とし」第三国の橋渡しを了としていたが,松井は付箋に,戦争終結のためには「我国か英仏諸国に妥協的態度を持する間は支那の排日は遂に止むことなかるへし」と記しており,英仏と国民政府は分離不可能なものと考えていたことがわかる。つぎに7月8日決定の「支那中央政府屈服の場合の対策」で国民政府の合流・参加を盛り込んだのに対し,国民政府はあくまで一旦解消することを条件とすべきであるとしている。つまり「目下の日支時局の責任は其国民党の主義政策に起因するものなるを以て其責任上国民党は一層之を解消せしめさる可からず」という。また7月15日決定の「支那中央政府樹立指導方策」では参謀本部の堀場らの認識にもとずき「大乗的見地に於て善隣たるの基礎を確立」すること盛り込んだが,松井は「東亜の振興,亜細亜民族の復興を根本政策とすることを定めしむるを緊要とす,単なる親日,反共のみをなすならは真に漢民族をして既往の政策より脱却せしむること難かるへし」としている。ただし7月19日付「支那政権内面指導大綱」の方針で「東洋文化を復活して指導精神を確立し恩威を併に用ひて一般漢民族の自発的協力を促す」と述べた点については,「大体同意」と記している。松井は付箋に,何を「日支提携実現の基本的主義となすや 大亜細亜主義?」と付記している。

 松井が近衛首相に提出した「事変善後処理要領及支那再建試案大綱」がある (49) 。ここでは建設大綱として「東洋的道徳文化の復興と亜細亜的共同意識の鼓吹を以て思想文化政策の基調とし,共産主義自由主義個人主義乃至三民主義の弊害を訓ふると共に,全体主義的世界人生観と新しき民族主義を作興することを本旨」とした。大亜細亜主義全体主義的世界人生観の立場から英仏に対抗することを目ざしていたことがわかる。

 次に松井石根を陸軍側の自分に近い人脈としていた大川周明の認識を大川の日記と徳川義親の日記に即してたどろう。大川は2・26事件に関係して獄中にあった1936年8月18日の日記に「北守南進が国策の常道なることは,人皆な之を知る…予は下獄に先ち経綸の大綱を徳川候以下の同志に告げ予の留守中に執るべき方針と仕事とを定めて来た」と記した (50) 。大川は下獄後,近衛首相を基軸とした政界工作を開始した  (51) 。1938年1月25日に徳川義親の家を訪れ,中支那方面軍司令官の松井石根を紹介してもらう手はずを整えた。2月8日,大川は石原広一郎とともに徳川邸を訪問,大川の南京からの帰国報告として,「松井大将の立場に同情し」「改革(軍)を要する」と述べた。徳川はこれを聞いて「粛軍の必要を痛感」したという (52)

 ところで大川は,この時ひとつの「支那事変対策」(1938年1月11日稿)をもっていた。この案では,広東・漢口を占領後すみやかに武力戦を終結すること,国民政府を否認し臨時政府を中央政府に発展させること,したがって華北五省に特殊政権を樹立せず察哈爾,綏遠から山東,上海,広東,海南島に至る中心地域を日支共同統治地区とするとしている。また当面中国からイギリスの勢力を出来るだけ退却させるとともに,「将来英国をして支那より全く退却の余儀なからし」める。他方日独伊防共を強化するが,アメリカとは中立策をとりクレジットを設定するとしている。すなわち反英・枢軸強化・米との中立という国際関係を描いていたのである。この考え方に沿った人物を集め,行動するのが彼のこの時期の課題となる。一緒に行動していた石原広一郎にしても,例えば2月3日条の「徳川日記」には,イギリス大使クレーギーに石原を紹介したが,イギリス側は彼を反英論の急先峰と見ていたと記している (53) 。この頃から彼らは頻繁に会合を持つようになる。「徳川日記」によると,まず2月28日に「国民の精神的指導をなさんとする」倶楽部の集まりが徳川邸で持たれた。これには大川,徳川のほか,石原広一郎,建川美次,天野辰夫,本間賢一郎ら十二人が参集している。4月11日の会には,徳川,大川,天野,本間に加え外務省の白鳥敏夫が出席し,会名を大和倶楽部とした。以下5月16日「十時より大川・安井・白鳥・斎藤・太田・笠井の諸氏にて来月八日の例会の事を極める」。6月8日「六時より学士会館にて大和クラブ来会者二十五名,大村一蔵氏の石油国策の話しあり,石原氏と途中神保町まで同行する」。6月11日,「築地の瓢亭に大川君に招かれる。板垣中将(大臣),白鳥敏夫,実川時次郎,和知大佐,安井英二,石原広一郎の諸氏,板垣の就任の祝なり,石原氏を送りて帰る」 (54) 。このような会合を通して,大川構想の実現に向けて一歩踏み出すことが出来ると感じられたようである。実際内閣改造により板垣が陸軍大臣となり,内閣参議松井石根,末次信正らとともに近衛内閣で影響力を行使出来る立場に立った。『西園寺公と政局』には,板垣陸相の白鳥外務次官起用案,近衛首相の建川美次満鉄総裁案,大川周明の外務省若手連名書持参の白鳥次官推薦など人事面での積極的な働きかけが報告されている (55) 。宮中グループも彼らの影響力を懸念していたことがわかる。

 他方面の工作も確認出来る。6月25日には木戸厚相を交えての会合が持たれている。「徳川日記」によると,「六時より木戸厚相,大川周明東条英機陸軍次官,白鳥敏夫,安井英二氏を招き話す,時局談」と記されている (56) 。『木戸日記』には「午後六時,目白の徳川義親候邸に赴く。大川周明氏,東城次官,白鳥敏夫氏,安井英二氏等と同席にて,晩餐の饗応を受け,時局等につき隔意なく意見を交換す。十時辞去」と記されている (57) 。また7月12日と8月5日には,松井石根,小野寺長次郎主計総監と徳川,大川が会っている。9月26日,徳川は石原広一郎を久原房之助に紹介した (58)

 その内容から大川周明が近衛に示した事変収拾案であると推定される10月27日付の「転換期に於る事変対策」がある (59) 。同案は,作戦を漢口・広東攻略でひとまず打切り,「速かに海南島を攻略して対支戦略的地位を強化すると共に英米仏に対し不退転の決意を示す」ことを根本方針としている。対英対ソ戦準備を速成するが,英ソとの衝突はなるべく避け,日独伊防共協定の強化により英ソ仏を牽制し,アメリカと親善関係を保ち,適当の機会に九か国条約を廃棄するとしている。さきに検討した陸海外四省主任者案「日支新関係調整方針」の修正部分に符合する。内政に関しては,「挙国一致の戦時体制を実現すへき一大国民組織の結成」をはかるとした。1月に大川が作成した「支那事変対策」と大筋で変わらないが,海南島攻略や一大国民組織の結成が加えられるなどより具体的になっている。この日の「大川日記」には,池田蔵相に専任外相として白鳥を推薦した件が記されているが,同時に「予の対支策」として「近き将来に於て日本が自発的に和平を中外に声明し,之によって国民政府の結束を破ること,之と同時に多量の貨物を支那に貸付け之によって復興の実を挙げる端緒とすること」としている (60) 。大和倶楽部に結集する人脈を内閣に送り込んで,この案の実現を図ろうとしたようであるが,必ずしも順調だった訳ではない。「徳川日記」によると,10月5日,赤坂喜町に出来た大和倶楽部の新邸で大川・大村・天野・石原らと話し合った。徳川は10月11日,26日,11月16日,30日に大和倶楽部に顔を出したが,とりわけ16日は「八田嘉明氏拓相に栗原氏東亜局長に新任の祝賀会」であり,23人が参集した (61)

 11月14日付「大川日記」には,近衛が首相を辞めては困るとし「ここ数個月の間に同志が直昆のむすびを固くし終るまで現内閣を続けるのが最上策と考える」と記している。また12月25日には,板垣陸相に対して「予の観るところでは,日支事変の紛糾は,今や英露両国を敵として戦ふ覚悟を決めなければ断じて解決の途なきに至った。それ故に国内の一致,政府の強化は焦眉の急である」と語ったという (62)

 なお1939年2月20日付日記には「二月に入りて海南島占領のことに決定せりと聞き欣書無上」と記している (63) 。第一次近衛内閣の倒壊とともに近衛を通した政界工作はついえ去ったのであるが,なお海南島の占領という彼らの意図が実現したことを喜んだことに示されるように,彼らもまた東亜新秩序声明の影の主役であった。

 4.一国一党論

 おわりに

 第一に,東亜新秩序宣言までの国務と統帥の対立のディレンマは,つぎのように整理できよう。近衛首相らは関東軍・北支那方面軍が蒋介石否認と傀儡政権樹立にひた走ったのを見て統帥部不信におちいり,内閣の権限強化をはかった。しかし和平を結ぶ権限を持つ内閣側は交渉推進能力を欠いており,内政上の判断に立ってトラウトマン工作を拒否し,交渉の相手方を否定してしまう。内閣側の攻勢の流れのなかで,対ソ戦準備に専念したい陸軍統帥部は新たな軍事作戦と汪精衛の傀儡政権樹立による戦争終結を模索せざるを得なくなった。

 第二に,東亜新秩序声明の大東亜共栄圏論への連続性をもっとも象徴しているのは,「日支新関係調整方針」案作成過程で「東洋文化の再建」を「東亜新秩序建設」に置き換えたのが海軍省主任者だったことである。その文言の背後には「南支沿岸特定島嶼」を拠点とする海軍等の南進要求があった。近衛首相周辺の大亜細亜主義者は,それらを強く支援した。1939年2月には海南島に日本軍が上陸し,3月にはスプラトリー諸島を日本の領土であると宣言するに至る。東亜新秩序論には,すでに南進国策の推進の意味が含まれていた。

 第三に,東亜新秩序声明にまつわる論理については風見章書記官長を中心とする近衛側近のブレーンの役割は大きいが,政治的には大亜細亜主義者グループの役割も重要である。東亜新秩序論は三木清など昭和研究会グループの東亜協同体論との関連で論じられることが多いが,小稿で検討した板垣征四郎松井石根大川周明,亀井貫一郎など大亜細亜主義論者の動向を改めてきちんと位置づけておく必要がある。 なお第四に,反蒋・防共論に立った現地軍の動向を受けつつ,陸軍中央部は東亜新秩序声明に機を接して日独防共協定強化交渉を開始し,かつ蒋介石を支援するイギリスへの対抗を強めていくのであるが,この問題をめぐっては別稿で検討したい。

 

(注)

(46)  『大亜細亜主義』1938年8月号(80頁)には「松井会頭内閣参議就任」の記事が掲載されている。同会の評議員には近衛文麿広田弘毅,末次信正,松岡洋右らが名前を連ねている。

(47)  「五相会議決定事項 松井大将より附箋し来るもの」  ( 「近衛文書」3C-25)。

(48) 天皇が近衛を呼んで大本営と政府の考えを調整するために連絡会議を開いたらどうかと述べたのに対し,近衛は「連絡会議より五相会議を開いて,だんだん事柄を片付けてゆきたい」と返答した。(『西園寺公と政局』7巻,岩波書店,1952年) 8頁。

(49)  「事変善後処理要領及支那再建試案大綱」(「近衛文書」6C-72)。

(50)  『大川周明日記』1936年8月18日条(岩崎学術出版社,1986年,以下「大川日記」と略記)156頁。

(51) 同前,1938年2月8日条,158頁。

(52) 大川周明支那事変対策」(前掲『現資9』)106頁。

(53)  「徳川義親日記」(以下「徳川日記」と略記)1938年2月3日条。

(54) 同前,「徳川日記」,1938年2月28日,4月11日,5月16日,6月8日,6月11日各条。

(55) 前掲『西園寺公と政局』7巻,13-14,29-30頁。

(56)  「徳川日記」によると,1938年6月25日に木戸厚相を交えての会合が持たれている。

(57)  『木戸幸一日記』下巻(東京大学出版会,1966年)1938年6月25日条,654頁。

(58)  「徳川日記」1938年7月12日,8月5日,9月26日各条。

(59)  「転換期ニ於ル事変対策」(昭和十三年十月二十七日)(「近衛文書」6C-57)。

(60) 前掲「大川日記」1938年10月27日条。

(61)  「徳川日記」1938年10月11日,10月26日,11月16日,11月30日各条。

(62) 前掲「大川日記」1938年11月14日付揮 同前,1939年2月20日条。

(63) 同前,1939年2月20日条。

 

↑人文科学研究 第129輯
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/record/28709/files/129_Y19-Y43.pdf