昭和8年、元帥[山本五十六]は航空隊司令官として活動、9年にロンドン軍縮会議の予備交渉代表として活躍されたが、その最中に故元帥は新聞記者と会見され、飛行機の体当たり戦法を説いたということを、当時随行した新聞記者が回顧して、次のように述べておるのを新聞紙上で見て、航空司令官としての元帥の猛訓練を思った次第である。
『一日元帥と会食したとき、飛行機の体当たり戦術なるものを私は初めて聞いた。「君は僕を乱暴な男と思うだろう。しかし考えて見たまえ。艦長は艦と運命をともにする。飛行機の操縦士が機と運命をともにするのは当然じゃないか。飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長は全く同じだ。僕は今度日本に帰ったら、もう一度是非航空をやる。そうして僕が海軍にいる以上は、飛行機の体当たり戦術は誰が何といってもやめないよ。君、見ていたまえ」といわれた。真珠湾攻撃の第一報を見たときも、私は今さらのように元帥の姿をはっきりと目の前に見た。』
故元帥はロンドン軍縮会議から帰ると、航空本部長となり、13年海軍次官のまま航空本部長を兼ね、14年連合艦隊司令官に就任されたが、機上戦死を遂げられるまで、故元帥の海軍生活の半生は、飛行機と共に在り、その間用意周到なる準備と訓練を以て終始せられたのであった。イタリア新聞は故元帥を以て「海軍機と云う近代戦の創始者」と報道しておるとのことであるが、兎に角帝国海軍航空隊育成の上に、大きな足跡を残されていると思われる。
↑常在戦場 米内光政 述 大新社 1943年
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058250/36
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058250/37