南京暴虐
昭和12年 11月1日 《周宅に軍司令部移転》 昨夜来、雨なりしも、今朝以来、漸次霽[は]る。 午後1時、楊家宅司令所出発。新に大場鎮南方約2キロの周宅に移る。 《新司令部は上海市政府公立の助産教育学校および児童健康部にて、さきの呉淞水産学校はともに…
Japanese Army Dicipline to Be Tightened General Matsui Issues Order at Nanking Service PRESTIGE TO BE CLOSELY GUARDED IN FUTURE Nanking, Feb. 7. In the solemn atmosphere following a memorial service for Japanese officers and men killed in …
2月7日 曇夜晴 1:30より派遣軍慰霊祭。終つて松井軍司令官より隊長全部に対し次の要旨の訓示あり。南京入城の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まはしき事件…
午後、慰霊祭に参列す。予は去年、南京入城翌日、最初の慰霊祭を自ら祭主として営み、今日また50日祭ともいふべきこの祭事に遭ふものなれど、さきのものは戦勝の誇と気分にて、むしろ忠霊に対し悲哀の情少なかりしも、今日はただただ悲哀その物に捉はれ、…
同盟旬報 第2巻 第4号・2月12日発行(No.23) 【昭和13年2月上旬号】 259(5) 支那事変 松井最高指揮官訓辞 ○○【2·7】松井最高指揮官は7日、各隊長を○○に集合せしめ、今後における軍紀振刷により皇軍威武の宣揚と、長期持久に対処すべき将兵の覚悟…
日中和平工作の渦中で 松井最高指揮官の訓戒 …翌十八日朝、南京に着いた。「同盟」の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると深…
山田栴二日記(歩兵第百三旅団長、少将) 十二月八日 晴 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出で商家村に宿営す。ますますの田舎なり、宿営力も乏し 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる作業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸…
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第4章 湻化鎮附近の戦闘及追撃 三、攻撃戦闘経過 6.両翼隊は(8日午後11時)相前後して馬鞍山系に拠れる敵を駆逐し夜間追撃に移り、36iは一挙、光華門外に敵を急追し(12月9日)午前5時、光華門外クリークの線に進出せり。 右翼隊の35i主力…
4 南京付近の会戦 連隊は11月12日、第9師団右追撃隊の主力となり高家湾を出発、連日の冷雨の中を泥濘を踏破しつつ高家湾~黄渡鎮~太倉~周壁鎮~昆山道を急追せるに、不幸、敵と戦闘を交うるに至らざるも、崑山付近の敵に対し側背脅威を与え得たり。 …
11月12日 曇後雨 中新涇鎮 追擊 本日、軍より追撃の電話命令あり。すなわち作命甲第52号を下達す。左追撃隊を第6師団の後方を前進せしめし理由、左のごとし。 軍命令のごとく黄渡鎮西方地区に師団の全力を前進せしむるは、道路とクリークの関係上、追…
12月26日、27日 晴 28日 雨 東京と諸般の連絡ならびに意見具申のため、塚田参謀長を派遣す。 上海兵站病院を視察す。設備も漸次整い、現在、傷病兵約五千名に過ぎず。赤十字看護班の協力により、大体好成績に衛生諸設備行われつつあり、安心す。なお…
12月20日 晴 此日、大使館に至り新着の領事館員と会見し状況を聞く。曰く、去七月大使館引上当時、支那側に寄託したる我公使建物は、一部の小奪掠の外、概して相当に保護せられ、殊に大使館建物は内容共完く完全に保存せられあるは、支那側の措置として…
十七、性欲と強姦 出征者に対して性欲を長く抑制せしめることは、自然に支那婦人に対して暴行することとなろうと、兵站は気をきかせ中支にも早速に慰安所を開設した。その主要なる目的は、性の満足により将兵の気分を和げ、皇軍の威厳を傷つける強姦を防ぐの…
七、便衣隊と正規兵 便衣隊への警戒心は実に盛んなものだった。都市と言わず村落と言わず、何処でも何時其の襲撃を受けるかも知れないという考えが強く侵み込んで居た。私も南京の行軍の路上に遺棄したる沢山の敵屍体を見て、便衣か正規かを興味を以て眺めた…
南京総攻撃を前に九日正午、松井最高指揮官は南京防衛司令官康生智に対し、二十四時間の期限を付け、十日正午迄に降伏するやう情理を尽した投降勧告文を飛行機により投下して、光栄ある日本武士道の精華を内外に示した。 勧告文全文 日軍百万、既に江南を席…
[✕法廷証✕] 5月5日却下 注:付属の文書は訂正済文書であり、破棄されるべき該当文書と差し替えられるべきである。 22年5月5日(28) 弁護反証段階(支那事変) Def. Doc. #1075 〃南京最期の日〃来る けふ正午の期限! 敵軍に投降を勧告す 回答なけ…
松井司令官投降勧告 上海【一二・九】九日正午、松井最高指揮官は南京防衛司令官唐生智に投降勧告状を飛行機より投下した。 上海【一二・九】(上海軍九日午後七時発表)松井最高指揮官は本日正午、飛行機により南京防衛司令官に対し投降勧告文を投下し、十日…
丁集作命甲 号外 丁集団命令 12月12日午後6時 於 秣陵関 一、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分頃、南京を発し、上流に退却中なり。 尚、今後引続き退却するものと判断せらる。 二、第18師団は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問はず撃滅すべ…
22-5-2(22) 弁護側反証段階 (支那事変) 弁護側文書第1388号 証 明 書 一、レデーバード号事件を惹起したる際、柳川司令官の発したる命令の内容を証すべき文書 二、レデーバード号事件に関し発せられたる訓令の内容を証すべき文書 三、レデーバード号事…
四、私は12月8日、軍司令官に同行蘇州の司令部陣営に赴きました。 蘇州に着任せる松井大将は、南京攻略に当たり出来得る限り無血入場、また中国首都の破壊を極力回避する主旨のもとに、12月9日、降伏勧告文を作成、飛行機を以て南京場内に投下し、更に…
支受第6030号 其の4 (陸軍省大臣官房 昭和12.12.27 午後) 【極秘】丁集1野化報第6号 昭和12年12月19日 於湖州 第1野戦化学実験部要報第7号 一、戦闘経過の概要 (1) 12月6日、丁集作命甲第56号に依り、第一線と協力し南京に於ける化学…
丁集作命甲第65号 丁集団命令 12月12日午後3時30分 於秣陵関 一、第6師団は野戦瓦斯第6中隊及び野戦瓦斯第8小隊を区処し、南京の掃蕩に任ぜしむべし。 丁集団司令官 柳川平助 下達法 両部隊長に印刷命令を交付し、第6師団には同命令を送達す。 …
臨参命第73号 命 令 一 上海派遣軍(編組、別紙の如し)を上海に派遣す。 二 上海派遣軍は海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海並び其の北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし。 [中略] 六 細項に関しては参謀総長をして指示せしむ。 昭和…
中方作命第27号 中支那方面軍命令 12月4日午後9時 於上海方面軍司令部 一、中支那方面軍は南京郊外既設陣地を奪取し、南京城の攻略を準備せんとす。 二、上海派遣軍及び第10軍は南京郊外既設陣地を奪取したる後、概ね上元門(下関東北方約4km)~小衛…
南京攻略に関する意見 昭和十二月[→年]十一月三十日 丁集団司令部 一、要領 南京攻略は、先づ敵が湖東会戦に於て蒙りし精神的打撃、及び指揮組織の混乱を未だ回復し得ず、且つ南京防禦の組織完成せざるの期に乗じ、神速果敢なる追撃に依り一撃に之を急襲奪取…
自昭和十二年十二月五日至昭和十二年十二月十三日 南京城攻撃之記 脇坂部隊 井出少将の指揮せらるる第九師団追撃隊主力たる歩兵第三十六連隊主力は、十一月二十日午後一時、蘇州を出発し、陰雨霏々たる中を鉄道線路に沿い追撃、前進す。途中、泥濘と弾雨を冒…
丁集作命甲第61號 丁集團命令 12月10日正午 於 秣陵関 一、第6、第140師団は南京南方至近の距離に進出し、鋭意攻撃を続行中なり。 二、国崎支隊は丁集作命甲第50号に基き速かに浦口に進出すべし。 歩兵2中隊を和県に残置し、同地の警備及び物資…
中方作命第34号 中支那方面軍命令 12月10日午後1時 於蘇州 方面軍司令部 一、支那軍は我勧告を容れずして依然抵抗を続けつつあり。 二、上海派遣軍並に第10軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし。 三、予は蘇州、方面軍司令部に在り。 中支那…
電報 12月9日 午前0時30分発 同 午前4時50分着 中方作命第31号 中支那方面軍命令 一、中支那方面軍は中華民国首都南京城を攻略せんとす。 二、上海派遣軍及び第10軍は南京城攻略要領に準拠し南京城を攻略せしむる予定。 但し攻略実施の時機は別…